キャベツは至る所に

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兄が通うプールがあったこともあり、幼稚園ぐらいの頃、よくジャスコに連れていかれた。プール自体は地下階にあったのかもしれないが、ぼくが入れたのは保護者用のプール観覧スペースがある地上一階までだった。出入口にジェラートショップと花屋が、外に出てすぐの所にマクドナルドと和食系のファミレスがあったのを覚えている。

幼稚園ぐらいの歳では、観て楽しめる店などそうそう無く、玩具売り場やゲームセンターがあるフロアにすぐ行きたがったものだが、不思議に今でも感覚を記憶しているスポットが別にある。食品のフロアだ。「○○がおいしそうだった」というポジティブな記憶ではない。そこにいつも漂っている香りが気持ち悪かったのだ。

たぶん焙じ茶の香りだったと思う。今はむしろ好きな香りだが、当時のぼくには、胸のむかむかする嫌な臭いにしか感じられなかった。もしかすると、他に匂いの強いものが近くにあり、混じりあったものを嗅いでしまっていたから、ひときわ気持ち悪く感じたのかもしれないが、いまだに「あのジャスコの食品フロアは臭い」という印象を拭えない。もし実際行ってみて、商品云々じゃなくてフロア自体が臭いとかだったら、それはそれでちょっと面白いけど。

親戚が弁当屋をやっていたり、小学校の給食が配達ではなく施設内で調理されたものだったりして、出くわす機会が多かったのでいまだに覚えているが、ある程度以上の質量・種類の食べ物が一斉ににおいを発すると、においはグロテスクなものになる。抽象的な割に情報量が多く、反射的に不安になってくるにおいだ。複数の料理が同時に大量に作られているわけだから実にカオティックで、全く快いにおいではない。換気口などから出てきた生ぬるいそれを嗅いでしまうと、いっそうきつい。およそ食べ物から発せられたにおいとは思えないのだが、しかしにおいの一つ一つは、家の台所や飲食店の厨房、屋台の鉄板などから嗅いだうまそうな香りに通ずるものなのだ。「やっぱり食べ物のにおいなんだ」という認識がグロを際立たせる。もう少しデリケートだったら、配膳されたモノとあのにおいを結び付けて、給食を食べられない子供になっていたかもしれない。食い意地が張っていて良かった。

色々な文脈で「家庭料理が一番うまい」と言われるが、「一番」みたいな表現が出てくるゆえんは、大量調理特有のあの生あたたかいにおいの渦を一度もくぐっていない料理だからではないかと、ひそかに思っている。

スピッツの新曲『みなと』が素晴らしい。近年のスピッツはメロディも歌詞もクリアーで、だからこそ演奏の小気味よさとか、フレーズのめざましさが際立って聴こえる。

『みなと』の一節で、判断に迷っているところがある。「己もああなれると信じてた」という一節だ。この曲では「僕」という一人称があらかじめ使われている。ここで「己」なんて言っちゃうのがマサムネ節だよなあ、と最初は感じ入っていた。

 

前のエントリで触れた細野晴臣アンビエント・ドライヴァー』で、トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』という本の内容が引用されている。言語学者・ノーレットランダーシュによると「人がメッセージを作り上げる過程で、情報は取捨選択されている。このとき削除・省略された情報を〈外情報〉と仮称する。メッセージそのものだけではなく、それが帯びている〈外情報〉まで理解して、コミュニケーションが成立している」とのこと。がさつな言い方をすれば、人は言葉面だけを見聞きしてるんじゃなく、文脈を察しているものだ、ということだ。

 

ぼくはスピッツがめちゃくちゃ大好きであるが、『みなと』の「己」はさりげなさ過ぎて、マサムネ節だ唯一無二だと騒ぎ立てるべきなのか、普通の表現(普通というと語弊があるが、奇をてらったとか何とかじゃない、音韻として妥当な選択)として受け取るべきなのか、全然判断できない。思い入れや、ここまで何千回聴いてきたか分からない草野マサムネの詞の自分の中でのアーカイブが、「己」一語と摩擦して火花を散らしている。

スカート 『CALL』 (特に『アンダーカレント』について)

CALL

 

夏は乱痴気、秋は愁い、冬は憂鬱の季節。それなら春は物狂いの季節だ。

ぼくが三月生まれだから過敏であるのかもしれないが、春には色々なものが動き出す。虫たちの冬ごもりが終わって、桜が咲いて散り、秋の実りのために菜種梅雨の雨が土をうるおす。冬の静けさを食い破る力が、そこかしこから起こり始める。力は波になって人間の神経に及ぶ。超音波が耳鳴りや頭痛として聞こえるように、感覚や思考の狂いが生じて当然の季節だ。

 

スカートの音楽には、澤部渡の曲には、春が似合う。心のひだをなぞるような丁寧さが、春にざわつく心を、時に甘やかな安楽へ、時に心地良い興奮へと導くからだ。つい先日、このアルバムの曲をたくさん演奏したライブでも感じたが、スカートの音楽はコース料理のように繊細で複雑である。淡口と濃口がグラデーションを作り、香りと辛みと渋みが的確に配置され、一皿一皿の色彩も全体を通して計算されている。こちらが敏感であろうとすればするほど多く発見できる手間があり、その丁寧さ、丹念さゆえに飽きが来ない。自主盤ではなく、レーベルからリリースされた盤だけあって、プロダクトがこれまでより遥かに強化された。それぞれの音色がとてもよく立っているので、仕事のディテールをつぶさに見ることができ、とても面白い。例えば腕っこきのキーボーディスト・佐藤優介が『暗礁』でローズピアノを弾いているが、澤部渡が軽妙なエレキギターを弾きながら、生ピアノのソロも自ら弾いたりしている。強調された生ピアノの効能を考えるだけで楽しくなってくるというものだ。

 

元から有している要素ではあるが、聴き飽きない理由が、スカートにはもう一つある。詞が微妙なところだ。この《微妙》の意味合いは「あんまり良くない」ではなく、「何とも良い感じだが、簡単には説明できない」と取ってほしい。詞に限った話ではない、演奏や楽曲もそうと言えばそうだが、詞は特に微妙だ。

情緒不安定な人の心持ちを、「病んでる」「メンヘラ」といった抽象的な言葉で括るのが横行して、狂わざるを得なかった人間の物語さえも、「電波」の一語で形容されるようになってしまった。人が狂うには十人十色の道筋や引き金がある。愛とは、その人を狂気に至らせる道を、その人と共に見つめることだ。その道行きを便利な言葉で十把一絡げにするのは、複雑さから目を背けた安心をもたらすかもしれないが、人間の理解を諦めるのと同じことだ。そういうインスタントな安心を暴くことができるのは、微妙な表現を措いて他にない。

 

捨て曲がないアルバムだと心底思うので、一曲についてだけ特筆するのは良くないと思うのだが、個人的なフックに引っかかってしまった以上、『アンダーカレント』を思いっきり取り上げたい。ぼくは澤部渡の詞の魅力を、技巧とか描写力とかより、心地よくあいまいな余情であると思ってきた。だからこそ、心臓を手で掴まれるようなショックとか、誰からも貰えないと決めつけていたデジャヴとかいう感動はあまり覚えてこなかった。しかしこの曲は違った。全然違ったのだ。

Twitterで澤部渡本人が言明していたか、ファンのツイートに反応したかしていた記憶があるが、この曲は豊田徹也の同名マンガのオマージュであるらしい(もっと言えば、このマンガのタイトルも表紙のデザインも、ビル・エヴァンスのアルバムからの着想なのだろうが)。もしかしてもしかすると、オマージュという話はどこからも出ていなかったかもしれないが、もうぼくにはそうとしか思えない。豊田徹也の作品はまさしく、上に書いたような《微妙》な心理を描破する素晴らしいものばかりだからだ。

 

アンダーカレント  アフタヌーンKCDX

 

 

 

『アンダーカレント』というタイトルを事前知識として持ちながら、曲中の「砂を払えば 風の音がしますね」という一節をライブで初めて聴いた時、このマンガに出てくる堀というほぼ全編通して敬語で話す男の絵が、まぶたの裏に鮮明に浮かんだ。脆い宝石がわずかな力を加えただけで細かく砕けたような、美しくて少し悲しい、ビジュアルイメージの軽い爆発だった。アルバムを買って、歌詞カードを見ながら『アンダーカレント』を聴いてみると、ほとんどのラインがマンガの絶妙な隠喩であるように思えてきた(聴いても聴いても、その感覚は確信にも疑念にも至らないのだが、これこそオマージュとしての完成度のゆえではないか)。これより下では、実際に歌詞を引きながら述懐していきたい(以後「曲」「マンガ」だけ書くことが増えますが、それぞれの『アンダーカレント』のこととご理解ください)。

豊田徹也の作品の多くのシーンには、握ったら肉を切りそうな静寂が充溢していて、キャラクターが沈黙すると、静寂はいっそう研ぎ澄まされる。曲中の「冷たい過失も手の中で 眠りに落ちた」という一節は、マンガの中で残酷に描かれた、意思が静寂の中で死と生のはざまをただよう様を想起させる。二度出てくる「針のような痛み」というフレーズも、「ため息はいつも 私の体の中で 鎖になる気がする」という一節も、低空飛行のように《落下》の恐怖を常にまとっているマンガの雰囲気とよく似通うものだ。

抽象的な「階段は深く続いて 私は心の奥で アルビノの虎と目が合った」という詞だって、マンガを前提とすれば、抽象的というより隠喩的だと言える。自分の中にある、死を求める心――それがいることに驚くほど意外な存在で、初めて目にするように現実離れしていながら、それでも自分を解放してくれるだろうと窺えるもの。まさにマンガのクライマックスの基礎を作った感情だ。

豊田徹也を読んでいると、どうしても《鬱》という印象が、チルアウトとして働くのを感じる。気持ちに下を向かせる力が、現実を生きるのに仕方なく装備した振る舞いを身体から剥がす。そうすると、決してアッパーではないけれど、不思議に身軽な気持ちが湧いてくる。身体が順応してしまえば、クラブやライブハウスで聴く爆音、特に低音が心地良く安堵を誘うのと原理は同じだ。一個一個のカット自体やシナリオの展開、感情表現としての台詞を、音楽における主旋律だとすれば、コマ割りによる視線誘導とか「雰囲気」みたいに呼ばれる部分はベース音だと言える。「鬱映画」「鬱ゲー」とか呼ばれる作品群が一定の支持を得ているのは、鬱が通奏低音として機能してグルーヴを生み、快楽をもたらすからだ。

澤部渡の詞を「明るい」「希望に満ちてる」と思ったことはあんまりないが、かといって、身を切るような絶望を感じたこともあんまりなかった。だからこそ「鬱」みたいなアバウトな形容も出てこなかった。最後の一節である「ごらん 季節に見放された造花が揺れているよ」なんて、それこそ喜びにも鬱にも簡単には転ばない微妙な表現だ。

しかし『アンダーカレント』という曲は、身に堪える。絶望的にして美しいマンガ『アンダーカレント』の写し絵として、あまりに素晴らしいからだ。つまり、特徴となるアイテムを引用するのではなく、マンガに流れている本来名状されることのない「雰囲気」とか「ノリ」を写し取っている曲なのだ。澤部渡の詞作の第一印象として挙がるのは技巧性や描写力ではない、と先述した。もしかしたらぼくは、今まで彼の詞をまともに読めていなかっただけかもしれない。マンガをヒントにしてようやく、ぼくは彼の技術や描写力を初めて思い知ったのかもしれない。

これまでにも感じていた余情、それは確かに『アンダーカレント』にもある。しかしこれまでのスカートの曲に感じなかった、自分の持ち物(もしかしたら肉体や魂)が曲に篭っているような感覚が、この曲にはあったのだ。《鬱》の描写は不思議なもので、純化や洗練が進むほど、ありがちなフォルムを失っていくのにむしろ普遍性を増していく。豊田徹也のマンガが心を均してくれるように、この曲も気持ちをニュートラルにしてくれる。そうして作られる平らな気分は、つまらなくなんてなくて、実に感動的だ。

引用、オマージュ、カバー、変奏。それは、唯一無二だからこそ尊いものを、一つにしながら二つにしてしまう、芸術家に許された奇跡に他ならない。

叙情的なギターの弾き語りで始まり、他の楽器が一斉に入ってくる。ドラムもベースも、いつも通りフィルインをふんだんに入れる。メロディは動き、心地よく泣く。だけどやっぱり、豊田徹也のマンガみたいに――マンガの中のフキダシが入っていないコマのように、風の音に会話がさえぎられてしまいそうなシーンのように――どこか静かなのだ。これを奇跡というのは大袈裟なんだろうか?

 

スカートは微妙だ。これだけ御託を並べても、結局ぼくが言いたいことはそれだけなのかもしれない。けれど、微妙な表現には言葉を尽くさなければ接近できない。もっと適した言葉を掘り出すために、今年の春、このアルバムを何度も聴くだろう。