キャベツは至る所に

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展示の準備に追われていて、日記や感想文を書く習慣から、すっかり離れてしまっていた。

南浦和の雑貨屋さん・MUKU MUKUで、書き下ろし短編小説『コード』の展示を行っています。不定休のお店なので、お店のTwitterなどから営業日をご確認の上お越しください。9月末まで開催しています。

 

夜勤明けの今日に散髪の予約をしているのだが、ものすごく時間が空いているので、珍しくスターバックスなどに入っている。浦和の蔦屋書店と同時に開店し、ブックカフェのような面構えで営業している店だ。

夜勤中は待機時間が長く、本の再読をすることが多い(初読に適うだけの集中力はさすがに持てない)。もう何度も読んでいる『神の子どもたちはみな踊る』を、勤務中にも、朝飯を食う前後にも読んで、最初の数篇を読み終えたのだが、どうにも集中が途切れてしまった。これもきっかけの一つかと思い、このエントリを書き始めた。この文章はリハビリに過ぎない。

 

対面して座っている男子高校生は勉強中で、参考書に付箋を貼っている。ぼくからはうまく英単語が判読できないのだが、顔立ちや肩回りの骨格の幼さからして中学生かもしれない。スポーツウェアに、ザンギリっぽい短髪、そして黒い肌と、いかにも運動部っぽい。

彼はデジタルウォークマンスマホを使っている。ぼくたちが中高生の頃であれば、ケータイは別にしても、iPodを持っているのはちょっとしたステータスで、高校生の経済レベルでないとなかなか持ち得ないものだった。たぶん今はそんな判断は通用しないだろうが。

 

8月といえば受験勉強が本格化する時期だけれど、彼もまた受験勉強に励むべく、パブリックスペースにやってきたのだろうか?

安全圏を狙った高校受験といい、試験との相性でポコッと挑戦校に受かってしまった大学受験といい、ぼくはあまり入試で苦労した経験がない(そのあと就職がうまくいかなかったのだから、世の中うまく出来ている)。大学受験の年の夏は、学校であった進学志望者向けの補修に出ただけで、予備校にも行かず、バイトも続けていた。そもそも、大学に行くまで「熱心に勉強した」という記憶がない。

そんなぼくにとって、目の前の彼が使っている付箋みたいなアイテムは、全く馴染みがなく、それゆえにまぶしい。参考書やノートに添えられた付箋とか三色ボールペンとかには、何かを勝ち得ようとする工夫が窺え、ゴールを見据えるまなざしの熱が移っている。

偏見でしかないが、やはり男子より女子の方が、そうしたアイテムを使う割合が多く、扱い方も美しかったような気がする。単に女子の方がデザインにこだわっていたということか?

 

上記の展示のため、詩集を自分で製本した。そのために文房具を色々買ったのだが、新品の文房具にも一種のまぶしさがある。というより、ぼくの目の前の彼がそうしているように、成果を挙げようというシンプルな目的のために用途されて、使い手の光を反射させる面が、多くの文房具には予めある。それがまぶしい。

彼らみたいに文房具一般に慣れ親しんでいれば、ぼくの手並みももっとマシで、きれいな本が作れたのだろう。つまりぼくの作った詩集はマジ不細工である。せめて言葉の列びに、いくらかの美を見いだしてもらえることを願っている。

 

ソイラテも乾してしまった。ちょっと浦和駅の回りをぶらついて、髪を切る前にラーメン王で昼飯を食おうか。

『ヒメアノ~ル』について

映画『ヒメアノ~ル』、並びに原作マンガ『ヒメアノ~ル』についてのネタバレを多分に含みます。

 

 

 

 

 

赤字で注意喚起をしておいて何だが、恐らくこのエントリに辿り着く方は、『ヒメアノ~ル』について十分な事前知識を持っているだろう。前置きは省いて、感想をまくしたてたい。

 

吉田恵輔監督の作品は『純喫茶磯辺』しか観たことがなかったが、ギャグとシリアスの対照が巧みで、飽きの来ないテンポをうまく作る印象があった。実際、森田剛濱田岳の事実上ダブル主演のような本作においても、殺人鬼と平凡な人間を描く中で、そうしたスキルが発揮されている。

中盤で挿まれるタイトルバックの後に、印象的なシーンがある。濱田岳演じる岡田のセックスと、森田剛演じる森田の殺人を、あたかもシンクロする運動であるかのように編集したシーンだ。濱田岳は腰を振って喘ぎ、森田剛は息を継ぎながら鈍器を振るう。二人が正反対のドラマを生きている様を、これでもかというほど見せつける。しかしと言おうか勿論と言おうか、二人の正反対のドラマは結局交叉することになるのだが、その結末まで暗示させてしまう煽情的な演出だ。

しかし、そこは軸なのだろうか?  映画『ヒメアノ~ル』において、対照という言葉は、作品の最たる魅力を説明しないのではないか? これは「極」の映画ではない。善と悪、光と闇、異常と平凡、甘美なセックスと粗野な暴力。そうした二極の映画ではない。幸せに過ごす者と幸せを見込まない者という両極端なキャラクターの配置から、「物事の二分化とは、安心を得るための単なる空論ではないか?」と提示する映画だ。

 

時間的サイズを整えるためだろうか、コミックス全6巻の原作から省略・改変されたエピソードや設定は多い(ヒロインの造形など最たる例で、古谷実特有の「非現実的に強くて美しいヒロイン」ではない、もっとありきたりなヒロイン像が採用されている)が、中には付け足された要素もある。

ひとつは、イジメを受けた過去を森田が引きずっていることが、演出の中で明確に語られること。逆に、原作にあった「性的快感を得られるから人を殺す」という説明は省かれ、映画では動機が語られない。快楽殺人者という《特徴》に森田自身絶望しながら紡がれる自己弁護や呪詛の独白は、マンガ『ヒメアノ~ル』に、不気味にゆっくりとした推進力を宿していた。しかし映画の森田は語らない。ただイジメのフラッシュバックや、原作でも語られた「死ぬか殺すかだ」というカオティックな感情を、幻聴として聞く様が描かれるだけだ。

森田の犯行そのものには、同情する余地がない。劇中で「どうせ死刑になる」と自分で語っている通り、現実に起これば、残虐の極みと評されるだろう。しかし、原作が、異常者の苦悩によって物語を進めた(言うなれば「内面を掘り下げた」)のに対して、映画はその部分をあえてオブスキュアにしている。森田が殺人を楽しんで笑っていれば、あの映画で安心する人が多く出てくる。あれだけ人がじっくりと殺される映画でも。それだけ森田はただ殺す。

展開においてはより重要であるのが、自分がイジメの対象になるのを恐れ、岡田が森田へのイジメに加担したことがあるという設定の追加だ。終盤で岡田自身が明かすその罪は、同じことをした記憶がなくとも、恐らく多くの人の罪悪感を掻き立てるものだろう。岡田は自分を殺そうとする森田に、あの時は悪かったと謝罪する――しかし森田はそのことを覚えていない。隠していた罪を告白し、懺悔するのは、物語を節目付けるお決まりのパターンだが、本作では惨劇に対するブレーキとして働かなかった。それはサイコキラー・森田の暴力における感情の乏しさに拠るものなのか? そうではない。むしろ紋切り型の無力さに拠るものなのだ。

森田は人を殺しまくる。そんな彼にも辛い過去があった。岡田は平平凡凡に暮らしてきた。そんな彼にも後ろ暗い記憶がある。いかにも面白いドラマが広がっていきそうな素材だ。しかし映画『ヒメアノ~ル』はそれを思い切り蹴っ飛ばす。森田が「悪い奴」で岡田が「良い奴」だと、お前は正しく説明できるからそう分けているのか、と言うかのように。

岡田が罪を懺悔するが、森田は許すでも責めるでもなく忘れていて、それとは関係なく岡田を殺そうとする。この点を通過するだけで、善と悪の対照とか対立といった構図はついにぐにゃりと歪み、慣れない場所で起きた停電のような不安が観客を襲う。いや、深読みをする観客には、森田のリアクションは想定できるだろう。しかしそこから続く一連のシークエンスは別だ。岡田を人質に逃げる途中事故を起こし、朦朧となった森田は、同級生だったころの意識で岡田に語りかける。素朴で幼い口調、そして片足を千切れさせながら微笑んで言う「またいつでも遊びに来てよ」。サイコキラーが見せた柔和な笑顔はグロテスクにも感じられるが、しかし限りなく無垢に近い。叙情的な回想へフェードしていくラストが実に哀切だが、あの「またいつでも遊びに来てよ」がとにかく凄まじすぎる。ここまで述べてきたような、断絶や対照に見せかけられたキャラクターの関係の隠された複雑さが、抽象性を保ったままクライマックスにまで高まっている。

森田剛の表現力の底知れなさと、濱田岳の芝居の巧妙さが織り上げる名シーンだ。芝居においてもダンスにおいても、技巧とか計算ではない、センスから生じたものを磨き上げて素晴らしいパフォーマンスを見せる森田剛。子役時代から様々な役を演じ分けてきて、なおかつ引き出しの尽きる気配のない俳優である濱田岳。かなり特異なシーンではあるが、二人の持ち味が当て書きのように活かされている。

それまで共感を許さないほど無機的だった森田から、人間味と呼べるオーラが初めて、それも濃厚に立ちのぼる。その瞬間、異常者と一般人という構図が完全に無効化される。森田が悪行を重ねてきたからこそ、幸せに日々を過ごすだけの岡田には、善めいた属性を誰もが錯視している――それは森田という太陽を直視させられ、網膜に焼き付いた残像でしかないのだが。その前に語られている、イジメに「加担した」という懺悔も小市民的で、錯覚される善をかき消さない。しかし、殺人鬼としての表情も、諦観者としてのボキャブラリーもすり込まれきった観客には、そうした特徴を失った森田が、どうしようもなく純粋に見えてしまう。そんな森田は、岡田の中のありもしなかった善を全て吸い上げてしまう。そして森田の中に明確な悪行と架空の善が共存した時、ホラー映画のモンスターとしての殺人鬼でもなく、人間の内面を描く文学的偶像でもない、「市井に当たり前にいる殺人鬼」という実に不条理な、しかし歴史上にも存在してきた人物へと、初めて完全に変態する。森田剛の言う「またいつでも……」という台詞は、引力として架空の善を引きつけ、濱田岳のひり出したとしか言いようのない感じの相槌は、それを丁重に差し出す手なのだ。そして異常と平凡という対立構図に見えていたものが収束すると、出会ったころの森田と岡田の回想が綴られる。直前の岡田の、君はどうして変わってしまったのかという言葉が余韻を響かせて、まるでこの時からやり直せば、作中の惨劇は起こらなかったのではないかと言うように……。

 

 

 

   みんな得体の知れない恐怖や 正体不明の不安と

   死ぬまでずっと闘っていくんだろう?

   あらゆる手段を使って少しでもそれを正当化し・・・・

   正体を暴き 安心を得る

   例えば通り魔が出た 人を殺した

   殺した理由がほしいだろう?

   それは何でもいいはずだ

   "わからないもの" ほど怖いものはないんだ

   (古谷実『ヒメアノ~ル』3巻より)

 

 

善と悪、光と闇。(ぼく自身そうだが)フィクションに慣れた人たちが好んだり、醒めた目で見たり、何かと意識してしまう《対立》。本来そこに境目など存在しないのだと、善人と悪人の境界がぼやけ切った世界を見せつけられて、残るのは爽快感やストレス解消になる涙ではない。ただひたすらな胸苦しさだ。けれど、感動というのはもともとそういうものではないか。原作や映画が暗に語るように、「わからない」ものを思考の埒外へと排斥し続けることは、安心にしがみつこうという態度でしかない。

森田が人を殺す理由は分からない。岡田に彼女が出来る理由も分からない(この点の「分からなさ」は古谷作品の雰囲気を見事に再現していると思う)。しかし、提示されたすべての分からなさに、自分が持っているすべての力を使って挑むことでしか、誠実である方法は無いのではないか? そして誠実であろうと努める以外に、自分の正しさを閲する方法があるだろうか?

中高のころ『ヒミズ』を読んだときのような、死にまつわる素直な自問が、『ヒメアノ~ル』を観てから時々聞こえる。自分は人を殺したことがない。ぼくに何が備わったら、ぼくから何が失われたら森田になるのか?

 

兄が通うプールがあったこともあり、幼稚園ぐらいの頃、よくジャスコに連れていかれた。プール自体は地下階にあったのかもしれないが、ぼくが入れたのは保護者用のプール観覧スペースがある地上一階までだった。出入口にジェラートショップと花屋が、外に出てすぐの所にマクドナルドと和食系のファミレスがあったのを覚えている。

幼稚園ぐらいの歳では、観て楽しめる店などそうそう無く、玩具売り場やゲームセンターがあるフロアにすぐ行きたがったものだが、不思議に今でも感覚を記憶しているスポットが別にある。食品のフロアだ。「○○がおいしそうだった」というポジティブな記憶ではない。そこにいつも漂っている香りが気持ち悪かったのだ。

たぶん焙じ茶の香りだったと思う。今はむしろ好きな香りだが、当時のぼくには、胸のむかむかする嫌な臭いにしか感じられなかった。もしかすると、他に匂いの強いものが近くにあり、混じりあったものを嗅いでしまっていたから、ひときわ気持ち悪く感じたのかもしれないが、いまだに「あのジャスコの食品フロアは臭い」という印象を拭えない。もし実際行ってみて、商品云々じゃなくてフロア自体が臭いとかだったら、それはそれでちょっと面白いけど。

親戚が弁当屋をやっていたり、小学校の給食が配達ではなく施設内で調理されたものだったりして、出くわす機会が多かったのでいまだに覚えているが、ある程度以上の質量・種類の食べ物が一斉ににおいを発すると、においはグロテスクなものになる。抽象的な割に情報量が多く、反射的に不安になってくるにおいだ。複数の料理が同時に大量に作られているわけだから実にカオティックで、全く快いにおいではない。換気口などから出てきた生ぬるいそれを嗅いでしまうと、いっそうきつい。およそ食べ物から発せられたにおいとは思えないのだが、しかしにおいの一つ一つは、家の台所や飲食店の厨房、屋台の鉄板などから嗅いだうまそうな香りに通ずるものなのだ。「やっぱり食べ物のにおいなんだ」という認識がグロを際立たせる。もう少しデリケートだったら、配膳されたモノとあのにおいを結び付けて、給食を食べられない子供になっていたかもしれない。食い意地が張っていて良かった。

色々な文脈で「家庭料理が一番うまい」と言われるが、「一番」みたいな表現が出てくるゆえんは、大量調理特有のあの生あたたかいにおいの渦を一度もくぐっていない料理だからではないかと、ひそかに思っている。