キャベツは至る所に

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『時が何か告げてくれれば』

 君は扇情的なロックバンドが大嫌いで、「病んでる」女性シンガーばかり聴いている。紺のソックスに締めつけられた足がいつもきれい。脛がれっきとしている。友達と連れ立ってトイレに行くけれど、いつもそれをつまらないと思っている。お弁当を持ってきていない日のお昼には、甘いパンを一つだけ食べて牛乳を飲む。

 とても滑らかな訳をするから、英語の時間の君から目が離せない。今まで接してきた誰よりも清廉な日本語で、君は字を書いて、ことばを唱える。体育の時間は見ていられない。まともではいられなくなる。

 君とは駅までしか一緒に帰れない。君はべたべたした付き合いを嫌うから、間隔を意識して遊びに誘う。どちらの家に向かうのでもない同じ電車に乗り込むと、胸が甘くなる。  

 海辺に行くことを考える。二人っきりになりたいわけじゃない。並んで入ったカフェでもいいし、座席の埋まったバスでもいい。君と海が見たい。水着にはならなくていい。砂浜に近づかなくていい。君と海を見ながら黙っていたい。

 電車が駅の間で停まってしまって、長い時間閉じ込められたとき、私たちは温度を失くしていくペットボトルを持ちながら、ずっと話をした。車両には私たち以外いなかった。販売が終わってしまったお菓子や、美形だけれどつまらない男子生徒や、穿きこなせないボトムスとかについて。私は時間が止まることを願い続けていた。

 君はずっとピアノを習っている。私が小学生の時に辞めた楽器を。うまくはない、才能はないと君は言う。それでも私は君のピアノが聴きたい。好きな歌を時々ピアノで弾くという、君が鍵盤に乗せるその指を見てみたい。

 冬になると、君は制服の上にピーコートを着てきて、タイツを穿く。私には似合わない、ボタンの可愛いピーコートを。

 君の味気なく分けられた前髪は可愛い。小さな目を唇で挟んでみたい。肩につくぐらいの髪を後ろに束ねる瞬間が、私をいつも狂わせる。君は私の短い髪と、あらわな首と、いたずらに派手な目を褒める。いつも泣きそうになるほど嬉しい。

 君がケーキ屋でバイトするのは良くない。厨房にも入るからといってバンダナを巻いて、真っ白なコックコートを着ているという。その姿を思い描いて、私がどう思うかも知らないで。

 垢抜けないけれど、とても心がきれいな男の子が、君のことを好きだと知っている。その子は私のことを少し怖がっている。話をする前から目が怖がっていると思っていた。彼のことが、私は少し好きだった。素敵な同級生だと思っていた。君を想っていると知ってから、彼のことは少し嫌い。彼は君と付き合っても、後ろ指はさされないから。

 君の死にたい気持ちが好き。時々全部がどうでもよくなる君が好き。私より小さな胸も、男を愛せるのに特定の男を心底嫌っているところも。君としたことのないことばかり、私はしたい。

 どこになら触っていい? そこに一度でも口付けたらどうなる? 私はほとんどの夜にそれを考えている。そんな場所はないと誰かに言われる気がたまにして、そんな時ほど君に抱きしめてほしくなる。その時、私しか私を抱きしめない。

『水中学校』

 窓の外を、久しぶりに蟹が通った。海底にやっと届いた頼りない光をあつめて、甲羅は黒く輝いている。僕は理科室に向かう途中で、寄り道をしている暇はなかったのだが、自分たち以外の歩行する生物を見る懐かしさに、つい目を奪われていた。

「何してるんだ?」

 イチバンが声をかけてきた。いつまで経っても理科室に移ってこない僕を気にかけて、廊下を戻ってきてくれたのだろう。

「ほら、あれ」

「ああ……。いつぶりに見たかな」

 蟹を見るのは、イチバンも久しぶりだったようだ。細い足を複雑に動かして、ゆっくりと移動していく蟹を、僕たちは二人で少し見つめた。遅々とした歩みは、僕の心をやさしくさせた。

「魚は綺麗だけど、すぐに泳いでいっちゃうだろう。あれを見ると、少し怖くなるんだ」

「どうして?」

「あんなに速いものを見ると、この海まで恐くなるから。もしかして、強い海流が校舎を包んでいて、いつか外壁が破られるんじゃないかって」

「ここらへんの海流が穏やかで安定していることは、もう何回も教わったろ」

「うん、でも……」

 その時、予鈴が鳴った。イチバンは僕の肩を軽く叩いて、移動を促した。

 今日のセンセイの授業は、もう何度目になるだろうか、食用植物の栽培方法の説明だった。

「人工光による栽培のメリットは、安定した光供給による成長のコントロールでありますが、作物の成長、ひいては収穫量をより正確にするためには、光供給を一定にする以上、水の供給量や温度調節もまた、規則的にしなければならないのです」

 この学校には、もう白墨がない。鉛筆も、ノートのページも使い切った。センセイによる授業は口述で行なわれ、僕たちは聴覚からそれを記憶するしかなかった。

「ニバン、飲用はもちろん、栽培に使われる水はどのように調達されていますか」

 僕は突然の質問に、少しうろたえながら答えた。

「ええと、海水を使います」

「それは当然です。どのようにして海水を、使用に堪える状態にするのですか」

「あっ、海水から塩分などを除きます」

 センセイは僕への質問を止め、イチバンに回答を促した。

「イチバン」

「はい。水圧拡散型採水機によって校舎周辺の海水を採取し、捻転分離器で、海水を水分と不純物とに分けます」

「完璧な回答です」

 センセイは、水圧拡散型採水機と捻転分離器の構造を簡単に説明すると、水分が植物の発育にいかに大切かを講釈し始めた。僕も機械の名前や働きについては熟知しているつもりだが、とっさの質問に答えるのが苦手だ。きっとセンセイも、それが分かっているから、まず僕に質問をしてくるのだろう。

 きりのよいところでチャイムが鳴って、理科の授業が終わった。

「それでは、これで終わります」

「センセイ、今日の体育も発電ですか?」

「いえ、電力量にはまだ余裕があります。体育館を使いましょう」

 僕たちは教室に戻ると体操着に着替え、勇んで体育館に向かった。渡り廊下は壁が薄く、校舎と体育館を行き来するたび、いつも水圧による軋みを聞かされる。

 僕とイチバンはバスケットボールを出して、どちらが多くシュートを決められるか、同じ位置から競ったりして遊んだ。二人でそうするのに飽きてくると、僕とイチバンとでタッグを組んで、ゴールを守るセンセイから点を取るゲームに興じた。僕もイチバンも、プレーの節々で歓声をあげたり破顔したりしたが、センセイはいつも通り、表情を変えなかった。

「センセイ、バスケットは本来、五人のチーム同士で対戦するんですよね」

 僕の質問に、センセイは息を整えながら答えた。

「そうです。敵のコートにボールを運ぶまでに制限時間が設けられていたり、私たちがやっているより、もっと複雑です」

「きっと、そんな人数でやったら、もっと楽しいんだろうな」

「そうですね。しかし、十人いたら、酸素の生成も、食料の生産も追い付きませんから」

 またチャイムが鳴った。ゲームはまだまだ盛り上がっていて、プレーも半端なところだったが、センセイはすぐにコートを離れた。

「整理運動を始めます」

 僕とイチバンはしぶしぶボールを置いて、センセイの動きを真似て、整理運動を始めた。

「では、センセイは給食の支度をします。いつも通り、時間前に来てください。それから、ボールを片付けたら、コートにモップをかけておくように」

「はい」

 僕たちの返事を聞くと、センセイは一人で体育館を後にした。僕たちは指示通りモップをかけた。コートは汚れている風に見えないのだが、モップがけをサボると、センセイはそれを必ず見破るので、僕もイチバンも、センセイの言いつけは破らなかった。

 モップを仕舞って、着替えの時間を差し引いても、夕食までありあまる余裕があった。体育館の高い窓から漏れ入ってくる光は、もう落日が近いせいもあるだろうが、海水に屈折していよいよ頼りなげだった。僕とイチバンはどちらからともなく座り込み、高い天井を見上げた。これほど空間が広い場所は、校舎の中でここだけだった。

「ニバン、減圧室って知ってるか?」

「ゲンアツシツ?」

「ああ、この前、図書室で読んだんだ。人間の体は、気圧の中で生きていけるように出来ているから、真空に出る前には、減圧室で体内気圧を変えないといけないらしい」

「真空、宇宙のことだね」

「ああ、気圧がない空間だ」

「じゃあ、この壁一枚向こうと、真逆だ」

「そうだな」

 ちょうどその時、体育館の屋根が、キキ……と哀しく鳴いた。水圧による軋みだろう。ずっと遠くで火山が動いたか、ガスが噴出したかで、水流が生まれたのかもしれない。

「俺は体育館が、減圧室のようかもしれないって思うんだ」

「減圧室は、こんなに広いものなの?」

「分からない、俺が読んだ本には図録がなかったから。でも、人体の状態を変えるんだ。すごく大がかりな施設なんじゃないかな」

「記録が残っているスペースシャトルって、すごく大きいでしょう。もしかしたら、減圧室に場所を割いてるのかなあ」

「そうか、そうかもしれないな」

 一日の授業が終わると、僕とイチバンは、いつもこんな話に興じた。宇宙に出ることも、海底にあるこの校舎から出て海面へ向かうことも、僕たち三人の誰にも出来ないと分かっているから、こんな話はいつも楽しかった。

 僕たちは着替えて、センセイと三人で食事をした。何種類かの野菜と塩の食事。以前読んだ本で、野菜にかけるドレッシングという油を主成分とした調味液の存在を知り、僕たちは食用油を精製する方法を探しているのだけれど、油脂をたくさん含む植物の種が、ここにはない。

 センセイは宿直室で眠り、僕とイチバンは保健室のベッドで眠る。電力の消費を抑えるため、食後はすぐ床に入って消灯する。イチバンはすぐ寝てしまうのだけれど、僕はいつも消灯してすぐには寝付けない。だから、光が絶えて真っ暗になった海底を見る。ひたすら黒色でしかない窓の外の景色を見ていると、何が覗いたわけでもないのに、胸の中から心臓も骨もなくなったような感覚に襲われることがある。恐いのだけど、それは少し気持ち良かった。窓に顔を近づけて、なるべく上の方を眺める。同じ黒がずっと続いている。昼間に射してくる光は太陽によるもの。海面に出て、まだ強いままの光を汲んでくることができたら、夜の間も本が読めるのに。

ペンネンネンネンネン・ネネムズ 『whim』

 

whim

whim

 

 

純粋とは何かをかんがえた瞬間に、その人はもう永遠に純粋にはなれなくなる。まじりけのないありようを純粋と呼ぶのなら、「純粋とは何か」というかんがえ自体、混ぜものに他ならないからだ。

感動するという行為も同じだと思う。人はよく「難しく考えるな」「素直に受け取れ」とか言う。そんな人たちの言う「素直な」感動をぼくはあまり信じない。確かに人間は、芸術に、ドラマに、偶然に、人の愛に感動する。一部の人間においては、それはもう激しく、それはもう敏捷に。けれどその人の興奮や、反射の速度は、決して感動の「純粋さ」は担保しない。人間は、感動しようと思って感動できるものだからだ。

マニアとかオタクとかの人種を、「感動の訓練を積んだ人間」と定義してみてもいい。ぼくは繰り返し本を読むし、映画館に行くし、ライブを観に行く。そこでの感動の仕方をぼくはある程度知っていて、いくつもある「あの高揚」をもう一度味わいたくて集中する。この集中がシチュエーションと噛み合った時の快楽は、文字どおり筆舌に尽くしがたい。けれど、いかに快かったとしても、これは本当に〈純粋〉な行動だろうか? もしかしたらぼくは繰り返しの中で、ぼく自身が善がるための最適化されたプロセスを構築してしまっていて、作者や演奏家のオリジナルな要素や、そのときどきの再現不可能な状況を、自分が処理しやすいよう勝手に整序しているだけではないだろうか?

本当のところは分からない。ぼくの不安こそ強迫観念なのかもしれない。だけど分からないからこそ恐くなることがある。「愛してやまない」ものがある、でもそれは「愛してやまないと思おうとしている」ものかもしれない。しかも自分が気持ちよくなるためにそう思おうとしている――。こんなに恐ろしいことはない。芸術家たちに対する大きな不実だ。

けれど初めに書いたように、純粋は取り戻せるものではない。ランタンパレードもこう歌っていた、「純粋になりたいのかい でもそうありたいと願うところまでが 人の限界というものだよ」。少なくともぼくは、もう自分は純粋ではないのだろうというつまらなさを自覚しながら、純粋ではない自分をつかって芸術をなるべくありのまま観る努力を続けるしかない。それがしんどくなったなら、全ての芸術と関わりを絶つだけだ。そのあとどれだけ生きていけるか分からないけれど。

 

 

ペンネンネンネンネン・ネネムズの音楽にはそういう「もう純粋ではないこと」へのまなざしを感じる。本当に勝手な言い種だが、シンパシーさえ感じることがある。小説や楽曲の一節が、映画のワンカットが、自分の体と記憶を鐘のように震わせた時。あの瞬間の何物にも代えがたい快楽。全くその通りに生きられなくても、それに殉じて死ねたら良いかもしれないと思える刹那が、確かにある。その価値を疑うときが来るかもしれなくても、だ。けれどペネムズの音楽には、ぼくがべらべら述懐した苦悩を何度か越えたような複雑な味わいを感じる。それを「別にいいじゃん?」みたいに放り投げたのではなく、どろどろしたいくつもの夜に布団の中で格闘して何とかねじ伏せたような説得力で、でも「別にいいじゃん?」みたいなさりげなさでもって歌にしている。

確か、東浩紀だっただろうか、「純文学とは、作者の頭脳に10あるものが読者に伝わるまでに6や7に減衰し、失われただろう3や4について考えられるべき小説であり、ライトノベルは初めから6や7しか描かれておらず、読者が10に補完していく小説だ」と語っていたのは(出典も詳細もすこぶるあやふやです)。

ぼくたちはどんなものに対しても、10を捉えることは多分できない。10を捉えられたらきっと一生ものの記憶になるけれど、それには奇跡が必要になる。ぼくがペネムズに対して真摯でありたいと思うゆえんは、ペネムズの音楽が、10を期待し続けている人たちの音楽だからだ。ペネムズには藤井毅と神ノ口智和という二人のソングライターがいるけれど、どちらにもその要素を見いだしている。

『ベルリン 天使の詩』で、悲しみに暮れる電車の乗客を天使が抱きしめるシーンを見て、愛する人が弱っていたならこうして抱きしめるべきなのだと思ったことがある。そんなように、難解な映画とか、めちゃくちゃな引用とメタフィジックスの洪水のような映画の中にも、自分の生活にも持ち帰れる宝石を見つけた時のうれしさが、『whim』を聴いた時にあったのだ。いや、「ベルリン」は言うほど難解じゃないし、機会があったら誰にも観てほしいのだが。

それを実現させているのはメロディか、歌詞か、演奏か? 乱暴に聞こえるかもしれないけれど、全部なんだろう。一曲一曲の方向を定めているのはソングライターそれぞれの力だろうけれど、結局、いわゆる「音像」がとても良い。ギターの音色がひずんだ瞬間の、ロックバンドだけに求めている魅力がぱっと光る感じ。ハイテンポな曲では高揚感を持続させてくれ、ローテンポな曲では甘やかさを助長させてくれるベース。それだけで魅力的なポップソングを、一筋縄ではいかなくしてくれるシンセ。窓を開けるみたいに曲を新鮮にさせるフルート。一個一個の効果を挙げるのが簡単なほど、ばっちり効いている各セクションだが、その噛み合わせが素晴らしい。

一番好きなのは#4『すこしふしぎ』。先に述べた各メンバーの演奏もさることながら、サポートバイオリンが素晴らしい。ストリングスが楽曲のスケールを壮大にするというより、ここまでがこの曲のスケールだと線を引いて、いたずらに広げるよりももっと確かに、空間の大きさを示してくれる。地上から見上げた空にブイが浮かんでいて、ここがオゾン層だよ、大気圏って広いでしょうと、紫外線を吸収しながら教えてくれるような、そんな優しさ。俺は何を言ってるんだ? とにかく郊外のありふれた光景をファンタジーに変える(変えようとする)歌詞と、すべての音がマッチしていて、柔らかな感動を生んでいる。これは世に出た順番が逆だったら、『エイリアンズ』が「キリンジによる『すこしふしぎ』」と言われてた出来映えですよ。そういえばキリンジも埼玉出身だし。

 

 

すべての楽曲に絶妙な浮遊感が通底しているのは、どこかに現実のつまらなさとかめんどくささをちゃんと宿していることの逆説的な証明だろう。ペネムズをじっくり聴いて、ユートピア的な〈箱庭〉だけを思い描く人はたぶん少ない。ペネムズが箱庭を奏でる時は、箱庭なんてどこにもないこととか、箱庭の意義のなさをうたう時ではないだろうか。それがバンド名の大元である宮沢賢治との共通点だと思う。

 

   けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
   おまえの素質と力をもっているものは
   町と村との一万人のなかになら
   おそらく五人はあるだろう
   それらのひとのどの人もまたどのひとも
   五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
   生活のためにけずられたり
   自分でそれをなくすのだ   

   (宮沢賢治『訣別』より)

 

何度読んでも、というか、歳を負うごとに背筋の震えが激しくなる詩だが、いっときのひらめきなんて少し才能がある人なら作れるもので、そんなものはかんたんに風化する。本や円盤がその残照をいつまでもぼくたちに見せてくれるという、一応の救済はあるにせよ、美しいものを追い求める以上、同じだけつまらないものもぼくたちを追いかけてくるようになる。

ペネムズはその事実から逃げていない。逃避を歌う時にはそれを逃避として歌う誠実さがある。ありもしない素敵な現実を歌うよりも、こういう歌は、生きのびていくことを肯定させてくれる。甘みと苦みのバランスがコーヒー豆入りのチョコレートみたいで、素敵なアルバムでした。