キャベツは至る所に

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ウイイレヤクザと郊外について

 最近あまり耳にしないが、ひと昔前に「ユビキタス(遍在)」という言葉が流行った。端末さえあれば、誰もがネットに接続して、平等に情報を得られる、みたいな環境をあらわすのに使われた言葉だ。今や日本中の大体の人が、データベースとアーカイヴスを自由に検索し、言葉や画像を発信できるようになった。

 「(日本中の)大体の人がいる空間で発言できる」という認識は微妙な不文律を多く生み出し、とりあえず正しいことが有り難がられ、分かりやすく間違っているものを罵倒することが許された。結果として、小沢健二などが指摘したように、マスメディアに登場するわけでもない《一般人》までもが、SNS上でのセルフマネージメントを強要された。

 「とりあえず正しいこと」とは言うなれば、ナレッジサイト(yahoo知恵袋とか教えてgoo発言小町とかみたいなサイト)におけるQ&Aみたいなものだ。真摯な問答も中にはあるが、問題のシビアさに比べて質問者の表現が雑過ぎないか? ベストアンサーになってるこの回答はここまで断定的で大丈夫なのか? などと不安になる問答も多い。しかし、そんな質問者たちもきっと、ある程度の安心は得ているのだろう。「結構たくさんの人がいる所に質問を投げて、帰ってきた答えなのだから、きっとある程度は正しいものだろう」と。

 総務省による平成28年版の資料(総務省|平成28年版 情報通信白書|インターネットの普及状況)によると、日本におけるネット人口は1億46万人とのことらしい。半分以上の日本人がネットにアクセスできる環境にあるわけだ。そんな統計を知らなくても、周りのスマートフォン利用者の数を見ていれば、体感としてさほどブレなく感じられそうな数値でもある。それぐらいの人数が《そこ》にいると思っていれば、例えば上に挙げたQ&Aみたいに、フィルターで濾過されてきた言葉を、大衆の意見の代表として理解してしまうのも無理はない。

 それほどナレッジサイトの信頼性が高い・システムとして洗練されていると言いたいわけでは、勿論ない。それぐらい、縋れる藁が求められているということだ。「分かりやすく間違っているもの」を発信して、炎上するのは恐いし億劫だからだ。何しろ、間違っているものを叩く高揚感に囚われて、間違っている風にものを解釈したがる人間も多いことだし。

 

 岡崎京子の『東京ガールズブラボー』の巻末に、岡崎と浅田彰の対談が掲載されている。1993年に初刊が出たその本の中で、二人は「80年代はバブルと一緒に消えた、何もなかった時代だったと評価されている」「今(90年代初頭)は『これが最先端だ』ってものが無くなって、全ての過去を等距離に見られる」と語っている。初めて読んだほぼ10年前、ぼくは「確かにある程度昔は全部『昔』だ」と頷いた(『日本戦後サブカルチャー史』で、風間俊介が「当時斬新だと騒がれたと言うけど、『リバーズ・エッジ』はすごくすんなり読めた」と述べた時にも同じように頷いたものだ)。

 様々なサイトに検索性が求められる昨今、もはや「全ての過去(アーカイヴス)を等距離に見られる」という感覚は常識になりつつあるだろう。特に、肉感を以て顧みられる記憶がまだ少ない少年・青年たちにとっては。

 そして岡崎京子が描かなかった(描けなかった)「インターネット」が興った世界では――このSNS時代においてはどうか? 意識的か無意識的か、認知科学とか哲学に興味があるかは関係なく、時空が絶対的なものだと感覚している人が、そもそも少なくなっていないか?

 ぼくは食べることが好きなので、TwitterInstagramのフォロイーが「うまい」と言っているもの全てに興味があるし、「これはきっと自分も好きだ」と思った店には積極的に行く。一連の行為の中で、その人からの影響はもちろんのこと、時空のねじれみたいなものも感じる。フォロイーの顔を知っていればなおさら感じる。

 かつてその人がいた場所に、今は自分がいる。その時自分が一人だったとして、それは完全に一人であるのか、「全く一人である」よりも、「かつてそこに来た人/今は別の場所にいる人と二人である」という状態に近いのではないか、と感じる。ユビキタスという言葉は元々ラテン語から来ている。キリスト教は「世界全体は神が造らしめた物であり、即ち世界全体に神は遍在している」と信仰しているが、今や遍在しているのは神ではなく隣人だ。

 

 

 ウイイレヤクザの歌詞は、こうした「遍在」を見事に描破している。

 彼がテーマ/モチーフとして捉えている「郊外」自体、日本においては遍在的である。又聞きだが、最近「生まれた町は吊り橋ぐらいしか他の集落と交通がなくて、鮮魚・精肉は店に並ばない。基本的に自給自足の生活をしていて、今でも犬が貴重な食肉なのだが、臭いで分かるのか、犬を食うと今まで懐いていた他の犬に吠えられるようになる」という話を聞いた。それぐらい孤立した集落も数少ないながらあろうけれど、日本における《町》は基本的に、都心的な街と、郊外的な町しかない。そして、比率で言えば郊外の方が圧倒的に広い。区画整理された町並み、ショッピングモール、コインパーキング、ロードサイドショップ、個人商店のもう上げられることのないシャッター、飲食店が開いては閉まる小さな物件。日本中の至るところにそういうものがある。

   

   市役所行き俺手続き更新

   でけえ木が風で自動ドアぶつ

   中には俺と主婦と老人

   ソファー座りくつろぐこの瞬間

   見るこの空間

   心臓が動いてんのは俺だけ

   ―――『pikapika kirakira』

 

 郊外には何もないのか? 同じようなものが他にあることは、無いのと同じなのか? 「何もない」があるとしか言えないのか? 「何もない」所から大きな物語は生まれるのか? ショッピングモールの乱立が始まった頃、思想やフィクションの領野で、そういう議論が活発に繰り広げられた。

 ウイイレヤクザの作品群は、この問いに拘泥することがいかに旧時代的であるか、というか、この問いに対する決定的な解を探すことがいかに不毛であるかを突きつける。

 表象的な部分からオリジナルなものが失われた町にも、開発の歴史がある。日本の開発の歴史の大まかな流れとは、元々山があったのか沼があったのかという原始的なところから始まり、江戸との交通のような近世の問題(我が家の近くにも本陣の跡がある)を経て、第二次大戦前後の激動に収束していく。どんな町にショッピングモールが切り込んでくるにせよ、なぜそこに空き地、というか「空けられる」土地があったのかには理由がある。歴史を知ろうが知るまいが、町は固有の磁場や地熱のようなものを形成し、人はそこで育つ以上その影響を受けずにはおれない。人間はそれを感じ逃すほど鈍くはない。

 問題は、郊外が何を持つか、ではない。郊外を使って何ができるか、ということだ。都市開発とか町おこしの話ではない。郊外という概念を共有して、どういう思想や言葉を育んでいけるか、ということだ。ウイイレヤクザの詞が切り取る郊外的なシーンは、きっと郊外を肌で知る誰にも、くっきりとしたビジョンを伴うものとして聴こえるだろう。それぞれのシーンやアイテムに、郊外らしい侘しさ・寂しさ・あっけなさは漂っている。しかし、彼の詞はそれだけではない。

 シティポップ、インディポップと評されている昨今の才能あるソングライターたちとウイイレヤクザとのあいだに差異(※優劣ではない)として感じるのは、表現の具体性だ。以前、別のエントリで「ポップであるということは、万人に分かりやすいということではなく、万人の間の中間地点を示すということだ」と書いた。ウイイレヤクザの独自かつシビア極まりないところは、固有名詞を曲のコアにしてイメージに普遍性を持たせながら、それを独自の世界で包み切っているところだ。例えば『トイザらス』というタイトルのこの曲。

 https://www.youtube.com/watch?v=LURg3IRj0Ss

 まずこの映像を「PVです」とツイートしてくるところに、こいつ何なんだ、と思わされるが、まあそれは置いておいて、卓抜な詩作である。

 修辞のさりげなさが光っている。「店の外には桜の木 とっても古くて大きくて 何年前からそこにいたの?」といった擬人法、「ドレミの歌を歌っている男の子 まわりをまわっている音符」という共感覚的な叙述、「もうここから出たくない 大人になってもここで会おう」という黙説――つまり、「出たくない」けれど、「大人になって」いく過程でここから離れていくと分かっている言葉。奔放にシーンチェンジしながら、しかし一個の俯瞰的な視座が徹底されていて、曲の切なさをぎりぎりのところで希望的にしている。このバランス感覚。

 彼の詞はこのように、小説における三人称視点のようなものを持っていることが多い。語り手の感覚や心情をビビッドに語る主観的視点だけではなく、物語世界全体に対する管理者権限を付与された、神のような視点。物語世界それだけではなく、その外に立っているということによって、物語以外にも世界があることを立証する存在。

 例えば『田んぼコンクリ』の「君が男だったら親友だよ絶対 君が女だったら結婚してた絶対」という一節。つまり「君」は男でも女でもない。性は必ずしも二極的なものではないが、ファミレスを舞台にした歌詞の中で超現実的なこういうラインをフッと入れてくる。もう一つ同じような例を挙げるなら『ホームセンターは天国の匂い』の「子供でも大人でもない奴になりたいぜ」。藤子不二雄作品のような、すっきりとした「何やってもいいって分かってる」感! フリーにやることがいかに難しく、狂騒に任せて表現することのいかにありきたりであるかを分かっていないと編み出せない言葉だ。

 彼の詞には、今そこらじゅうに転がっている「とりあえず正しい」だろうという印象は感じられない。それがいかにありふれていて、つまらないものであるかを証するのが彼の詞だ。「とりあえず正しい」ことから離れた言葉がすべて詩であることを思い出させてくれるのが彼の詞なのだ。

 

 絶対的な間違いは別として、きっと今後、絶対的な正しさは盲信の中にしか存在できない。そして自分の絶対で人の絶対を曲げるのが正しさであるとしてしまえば、戦いがこの世界の基本原理になってしまう。しかし、「とりあえず正しい」から離れることが、必ずしも絶対的な正しさの盲信に行きつくとは限らない。

 ウイイレヤクザの描くものを使って、《郊外》を媒介にたくさんの人が結び付くということは、いま叫ばれている「多様な生き方の尊重」みたいな、当たり前なのに全うされていない問題に一石を投じることに繋がる。SNSが感覚の混濁や争いしか生まないとは言わない。しかし、人の制御を離れてしまったものは生んでいる。ウイイレヤクザの表現はぼくにとって、それを整頓し直そうとするもののように見えている。ありふれた時空を唯一無二のやり方で描くことで、人や社会を顧みさせるという点で、彼は本物のトリックスターだ。

 郊外には何もないのか? そう言っている人にはウイイレヤクザを見てほしい。少なくとも可能性はあることが分かる。

ペンネンネンネンネン・ネネムズ 『whim』

 

whim

whim

 

 

純粋とは何かをかんがえた瞬間に、その人はもう永遠に純粋にはなれなくなる。まじりけのないありようを純粋と呼ぶのなら、「純粋とは何か」というかんがえ自体、混ぜものに他ならないからだ。

感動するという行為も同じだと思う。人はよく「難しく考えるな」「素直に受け取れ」とか言う。そんな人たちの言う「素直な」感動をぼくはあまり信じない。確かに人間は、芸術に、ドラマに、偶然に、人の愛に感動する。一部の人間においては、それはもう激しく、それはもう敏捷に。けれどその人の興奮や、反射の速度は、決して感動の「純粋さ」は担保しない。人間は、感動しようと思って感動できるものだからだ。

マニアとかオタクとかの人種を、「感動の訓練を積んだ人間」と定義してみてもいい。ぼくは繰り返し本を読むし、映画館に行くし、ライブを観に行く。そこでの感動の仕方をぼくはある程度知っていて、いくつもある「あの高揚」をもう一度味わいたくて集中する。この集中がシチュエーションと噛み合った時の快楽は、文字どおり筆舌に尽くしがたい。けれど、いかに快かったとしても、これは本当に〈純粋〉な行動だろうか? もしかしたらぼくは繰り返しの中で、ぼく自身が善がるための最適化されたプロセスを構築してしまっていて、作者や演奏家のオリジナルな要素や、そのときどきの再現不可能な状況を、自分が処理しやすいよう勝手に整序しているだけではないだろうか?

本当のところは分からない。ぼくの不安こそ強迫観念なのかもしれない。だけど分からないからこそ恐くなることがある。「愛してやまない」ものがある、でもそれは「愛してやまないと思おうとしている」ものかもしれない。しかも自分が気持ちよくなるためにそう思おうとしている――。こんなに恐ろしいことはない。芸術家たちに対する大きな不実だ。

けれど初めに書いたように、純粋は取り戻せるものではない。ランタンパレードもこう歌っていた、「純粋になりたいのかい でもそうありたいと願うところまでが 人の限界というものだよ」。少なくともぼくは、もう自分は純粋ではないのだろうというつまらなさを自覚しながら、純粋ではない自分をつかって芸術をなるべくありのまま観る努力を続けるしかない。それがしんどくなったなら、全ての芸術と関わりを絶つだけだ。そのあとどれだけ生きていけるか分からないけれど。

 

 

ペンネンネンネンネン・ネネムズの音楽にはそういう「もう純粋ではないこと」へのまなざしを感じる。本当に勝手な言い種だが、シンパシーさえ感じることがある。小説や楽曲の一節が、映画のワンカットが、自分の体と記憶を鐘のように震わせた時。あの瞬間の何物にも代えがたい快楽。全くその通りに生きられなくても、それに殉じて死ねたら良いかもしれないと思える刹那が、確かにある。その価値を疑うときが来るかもしれなくても、だ。けれどペネムズの音楽には、ぼくがべらべら述懐した苦悩を何度か越えたような複雑な味わいを感じる。それを「別にいいじゃん?」みたいに放り投げたのではなく、どろどろしたいくつもの夜に布団の中で格闘して何とかねじ伏せたような説得力で、でも「別にいいじゃん?」みたいなさりげなさでもって歌にしている。

確か、東浩紀だっただろうか、「純文学とは、作者の頭脳に10あるものが読者に伝わるまでに6や7に減衰し、失われただろう3や4について考えられるべき小説であり、ライトノベルは初めから6や7しか描かれておらず、読者が10に補完していく小説だ」と語っていたのは(出典も詳細もすこぶるあやふやです)。

ぼくたちはどんなものに対しても、10を捉えることは多分できない。10を捉えられたらきっと一生ものの記憶になるけれど、それには奇跡が必要になる。ぼくがペネムズに対して真摯でありたいと思うゆえんは、ペネムズの音楽が、10を期待し続けている人たちの音楽だからだ。ペネムズには藤井毅と神ノ口智和という二人のソングライターがいるけれど、どちらにもその要素を見いだしている。

『ベルリン 天使の詩』で、悲しみに暮れる電車の乗客を天使が抱きしめるシーンを見て、愛する人が弱っていたならこうして抱きしめるべきなのだと思ったことがある。そんなように、難解な映画とか、めちゃくちゃな引用とメタフィジックスの洪水のような映画の中にも、自分の生活にも持ち帰れる宝石を見つけた時のうれしさが、『whim』を聴いた時にあったのだ。いや、「ベルリン」は言うほど難解じゃないし、機会があったら誰にも観てほしいのだが。

それを実現させているのはメロディか、歌詞か、演奏か? 乱暴に聞こえるかもしれないけれど、全部なんだろう。一曲一曲の方向を定めているのはソングライターそれぞれの力だろうけれど、結局、いわゆる「音像」がとても良い。ギターの音色がひずんだ瞬間の、ロックバンドだけに求めている魅力がぱっと光る感じ。ハイテンポな曲では高揚感を持続させてくれ、ローテンポな曲では甘やかさを助長させてくれるベース。それだけで魅力的なポップソングを、一筋縄ではいかなくしてくれるシンセ。窓を開けるみたいに曲を新鮮にさせるフルート。一個一個の効果を挙げるのが簡単なほど、ばっちり効いている各セクションだが、その噛み合わせが素晴らしい。

一番好きなのは#4『すこしふしぎ』。先に述べた各メンバーの演奏もさることながら、サポートバイオリンが素晴らしい。ストリングスが楽曲のスケールを壮大にするというより、ここまでがこの曲のスケールだと線を引いて、いたずらに広げるよりももっと確かに、空間の大きさを示してくれる。地上から見上げた空にブイが浮かんでいて、ここがオゾン層だよ、大気圏って広いでしょうと、紫外線を吸収しながら教えてくれるような、そんな優しさ。俺は何を言ってるんだ? とにかく郊外のありふれた光景をファンタジーに変える(変えようとする)歌詞と、すべての音がマッチしていて、柔らかな感動を生んでいる。これは世に出た順番が逆だったら、『エイリアンズ』が「キリンジによる『すこしふしぎ』」と言われてた出来映えですよ。そういえばキリンジも埼玉出身だし。

 

 

すべての楽曲に絶妙な浮遊感が通底しているのは、どこかに現実のつまらなさとかめんどくささをちゃんと宿していることの逆説的な証明だろう。ペネムズをじっくり聴いて、ユートピア的な〈箱庭〉だけを思い描く人はたぶん少ない。ペネムズが箱庭を奏でる時は、箱庭なんてどこにもないこととか、箱庭の意義のなさをうたう時ではないだろうか。それがバンド名の大元である宮沢賢治との共通点だと思う。

 

   けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
   おまえの素質と力をもっているものは
   町と村との一万人のなかになら
   おそらく五人はあるだろう
   それらのひとのどの人もまたどのひとも
   五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
   生活のためにけずられたり
   自分でそれをなくすのだ   

   (宮沢賢治『訣別』より)

 

何度読んでも、というか、歳を負うごとに背筋の震えが激しくなる詩だが、いっときのひらめきなんて少し才能がある人なら作れるもので、そんなものはかんたんに風化する。本や円盤がその残照をいつまでもぼくたちに見せてくれるという、一応の救済はあるにせよ、美しいものを追い求める以上、同じだけつまらないものもぼくたちを追いかけてくるようになる。

ペネムズはその事実から逃げていない。逃避を歌う時にはそれを逃避として歌う誠実さがある。ありもしない素敵な現実を歌うよりも、こういう歌は、生きのびていくことを肯定させてくれる。甘みと苦みのバランスがコーヒー豆入りのチョコレートみたいで、素敵なアルバムでした。

九月十一日 @ 久喜カフェクウワ

昼間のマーケットも可愛らしいものが目白押しで楽しかった(そしてクレープがうまかった)が、やはり目当ては夜のライブ。しかも出演する4組全組楽しみ。そして期待を裏切られないどころか全編興奮しっ放しだったので、久しぶりに長大なレポートを書きました。

 

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