キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

高橋弘希『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』を読んでいる。今ぼくの周囲にいる中で、本を多く読んでいることが最も明らかである友人が激賞していたので、これは読んでみようと手に取ったのだが、すばらしい。

まだ読み終えてはおらず、中盤を過ぎたかというあたりまでしかページをたぐっていない。だから梗概に触れたり、作品自体を評価する文章は書けないのだが、何となく今の自分の感興を書き留めておきたくなった。

 

長大な作品ではない。《小説》全体の中では短編に類する作品なのだが、数ページ、十数ページ読んだら一度本を閉じて、何時間か、または何日か経ってからまた読み始める、という読み方をしている。合間に別の本を読むこともある。普段はしない読み方だ。それなのに、そういう読み方で、自然に読めている。話の筋がこんがらがることも、自分のノリが錆びつくこともない。

叙述は淡々としていて外連味もないし、構造が激しく複雑なわけではない。視線を惑わせるような言葉のまずいつなぎもなく、集中を途切れさせる縺れもない。そうしようと思えば一気に読み切ってしまえるのだが、どうもそうやって読もうと思えない。だからといって「読み終えてしまうのがもったいない」という感傷で手が止まるわけでもない。そういう気持ちもないではないが、終盤を読んでいない今すでに「繰り返し読むのに耐えうる文章だ。折に触れて再読するだろう」とも思えている。

人間の死について書かれている小説なので、自分の死を想う心とか、死んでしまった人たちのことを考えざるを得ないのも、するすると読んでいけない要因なのかもしれないが、どうも違う気がする。そういう作品には、自分の中にこんな鐘があったのかと思うものを激しく鳴らされる心地がするものだ。クライマックスを迎える前から、いくつものパートで。『日曜日の人々』には今のところ、そういう感じが全くない。身を切られるようなエピソードやパッセージは、いくつも既に現れていながら。もちろん響いてくるものはあるのだが、それが自分の中で反響を唸らせることがなく、フーッと消えていくのだけが鮮やかに感じられる。先に読んでいたデビュー作『指の骨』にも同じ感覚があったが、『日曜日の人々』が自分に残す無音には、背筋が寒くなるほどのものがある。その寒さを身も蓋もない言い方で表そうとすれば、「描かない意図が感じられる叙述によって、こちらの観察が掻き立てられる」と片付けてしまえそうでもあるのだが、そう言い切りたくないものが自分の中に強く、かつ間違いなくある。

一時、『日曜日の人々』のような文体を目指していたことがある。ある気がする。数万字単位の小説を書き始めた頃のことだ。新しい言葉を綴ろうという意識も鈍らながらあり、自分なりに透徹したまなざしを持とうとして書いた初めての自作を思い出させる。それが自死についての小説だったことも大きい。小説としての質は『日曜日の人々』に遥か遠く及ばないので、出来不出来の差を想って読むペースが落ちてしまう、ということは全くない。だから惹かれる、というのはあるかもしれないけど。

 

この小説を教えてくれた友人は『日曜日の人々』に関して、「小説は人間に書かれたものであってほしくない」と言っていた(本当は「書いていた」とするのが正確なのだが、ぼくにはそれが彼の肉声だと思えるので、「言っていた」としたい)。読んだ後、単に経験として残るもの。誰が何によって書いたということが自分に関係しないもの。そんな側面が、高橋弘希の小説にはあると。そんな意見と、実際に読んでいるものとが協奏する感じも、実際の読書を楽しくしている。『日曜日の人々』にしても、『指の骨』にしても、作家を隠そうという意思をもって書かれたものではないだろう。しかしぼくは彼の意見に共感している。

作品から性格的要素を完全に排すること、しかもそれを制御下において行なうことは、恐らくどんな作者にもできない。作品に作者を感じさせないということは、そうした作為で成り立つものではない。

ある悪友とバンド(というかデュオ)をやっていて、その場で出たアイデアひとつで一気に基礎を作る曲作りをしている。素晴らしい音楽はヤマ師によっても作られるのだな、といつも思う。ディテールのレベルで言えば、どんな表現形態にもまだ発明はあるとも思う。

高橋弘希について言うと、トリックとか発明ではないものが凄い、と思いながら読んでいる。一気に読み切らないのは、じゃあ何が凄いんだろう、というこの気掛かりによるのだろうか。

 

流れに身を任せればすぐに読んでしまえる性質のものを少しずつ、高級なボンボンを一粒ずつ日を置いて食べるように読んでいる。読み切るのが惜しい訳じゃない、きっと後々読み返すし、と上述したが、ここまでに「読み切ってしまえる」のように「しまう/しまえる」という補助動詞を繰り返しているところを見るに、結局読み切るのは惜しいようだ。

読み終える前からこんなにだらだら書いてしまう、それぐらい興味深い小説だぜ、という記述でした。

 

 

日曜日の人々

『補色の花』

 君は僕の家まで駆けてきた。そして、前触れなく玄関を開けた僕を見て、驚きながら笑った。待ち合わせをした場所で、相手から驚かれたことはない。来ると分かっているものには驚けない。君は約束がどんなものだか分かっているから驚いた。

 一瞬、体の内側いっぱいに羽が舞ったような焦りが君を充たして、僕にもそれが転写された。君はことばを口にすることをためらって、視線を僕に残しながら、僕の家に背中を向けた。君にとって、もう僕の家は目的地ではなく、僕にとってもこの家は出発点でしかなかった。

 冬の朝の空気の中を走って、君の頬には、果物のように痛ましい紅が差している。君が歩く方に僕も歩いていく。

 歩けば、風は君を刺さず、君を撫でた。君に目当ての場所はなかった。君と僕が生まれ育ってきたこの町並み、十年の時間ずっと呼吸してきたこの地域に、真新しい所などもうなかったし、不可解なものにも既にいくらか手垢を付けていた。この町には適度な場所と不充分な場所しかなく、聖域も死地もなかった。

 君の足は、土が堆く盛られた広い空地に向いた。背の伸びた期待の苗が、突然枯れた。ここは何人もの友達と、何通りものグループで、何日にも分けて足跡をつけた、面白さを舐めつくした場所だった。君と二人遊ぶのが初めてというこの日に、一番に踏み入るべき場所ではない。

 君は一つの場所に辿り着いたことによる喜びと落胆とを感じ、僕の反応をうかがおうと振り向いた。君の喜びも落胆も、僕同様の免疫のために著しく鈍麻されていた。君は僕の表情を一瞥しただけで、同じ抗体機能の働きを察し、納得ずくの微笑みを作った。君は盛られた土の頂上を目指して、ゆっくりと歩みを進めた。身長の倍あるかないかの小さい山だ。君の足取りには目的をただ素早く果たすことへの目的意識がない。思慮も意味もない、ただ意思と神経と身体とが最も単純な回路でつながっているあの瞬間の反射的な快楽とは、無縁の運動を君はする。僕は君に追いつこうという目的のために、斜面を駆け上がった。

 君は遠くを指差した。

「あれが、家。あの赤い屋根の」

 君が指差した方角に、赤と呼べる色の屋根は一つしかなかったので、僕には君の家の位置が確かに分かった。この時初めて、僕たちはそれぞれの家の位置を把握した。

 家が人を守るものである以上、例えどんな相手に対してでも自分の家の在り処を明かすことは、自分が無防備に過ごしている場所を教えることになる。僕に君を害するつもりはない。しかし君は、僕が防御を解く場所を、一方的に知っていた。君にだって害意はなく、級友に害意を向けることの必然性すら、君の視野にはまったく存していなかったが、君は自分の家の場所を教えていないことに明らかな不公平を感じていた。

 僕が君の家の場所を強く理解すると、君は安心して山から降りた。もうこの空地は用済みだった。

 学校も冬休みを迎えもうすぐ年も明けるという今、親の郷里に帰っている者も多いからか、単にまだ朝早いからか、他の子供とは出くわさなかった。大人の目はなんでもないが、別の集団の子供の目は鏡のように目障りだ。

 僕と君は、ごく些細なきっかけでグループの境目を跨いだばかりだった。僕たちのことをよく知る者に今出くわせば、好奇の目で見られることは間違いない。君は自由を感じて歩いた。僕も自由を感じて歩いた。

 君は道を外れて、冬枯れのすすき野原を歩き始めた。遮るもののない空間に吹く風は冷たい。君は乾いた土を蹴った。しばらく雨が降っていないので、白茶けた細かな粒が広く舞い、緩んだ風に柔らかく散っていった。僕が真似ると、君はもう一度、先ほどよりも弱く土を蹴った。同じくらいの窪みが二つ、それより小さな窪みが一つ、見つけづらい星座のように並んだ。君は思った通りの美観を作る三点が作れたことに満足して、また歩き始める。移動のためではなく、この空間を遊覧するべく。僕は君の軌跡を辿る。

 君は風の音に遮られた静寂を見る。十二月三十一日が一月一日になる瞬間、快哉が上がることや鐘が鳴らされることはあっても、動物や草木がそれに付き合うわけではないし、時間を駆動させているエンジンがすげ替わったり、世界が一瞬で脱皮するわけではない。それでも年が明けようとする時期には、何かが終わっていく気配が漂う。生き物が死んでいく時、呼吸と脈が細くなっていくのと同じように、三百六十日生きてきた年が死んでいく静けさを君は見ている。

 原っぱの向こうに、いずれ高速道路への分岐にぶつかるバイパスが走っている。風に消えてしまって、車の音は聞こえない。君は針のような細さにしか見えない、バイパスに並ぶ電灯を見遣った。

「車でああいう道を走ると」

 君は僕の顔を見て話し始めた。言葉を発することではなく、意味を伝えることを意識していた。

「窓の外を、灯りが流れていくよね」

 その光景が好きなのだとは、君は言わなかった。僕が、綺麗だよね、と答えると、君は頷いた。そして君はバイパスの方へ歩き出した。

 たくさんの車が、君や僕のために走っているのではないのだと見せつけてくるかのように、バイパスを走り過ぎていった。車道に沿う歩道を歩きながら、君は雨風に晒された雑誌やペットボトルを蹴った。僕は君が蹴ったものを蹴った。どちらが始めたということが判然としないまま、缶を順番に蹴りながら進む遊びが始まった。この遊びは、僕たちの家の方へと向かう道に差し掛かるまで続いたが、君の蹴った缶が蓋の割れた排水溝へと入り込んで終わりを迎えた。さして面白いと思うでもなく続いた遊びだったが、君は申し訳ないと思いながら僕を見た。君が予想した通り、僕がその表情を笑い飛ばしたので、君もそっくり同じ笑顔になった。

 雑木林は寒さから長居する気が起きなかったが、君は歩いていける目ぼしい遊び場を巡り、僕はそれに付いていった。大した会話はなく、ルールの考えられた遊びに興じることもなかった。ただ君は、僕もよく知っている場所を改めて僕に見せた。自分が遊んでいる様のスライドと、僕が遊んでいる様のスライドをうまく重ねて、二人が一緒に遊んでいる画を作るように。

 腹が空いて、家に帰ることにした。先に僕の家に着いた。

「この後、親と買い物に行かなくちゃいけないんだ」

 僕も部屋の掃除を言いつけられていて、午前も午後も遊び歩くことが許されていない。それを告げると、君は残念がりながら笑った。

「またね」

 車窓から見る灯りの美しさを語らなかったように、君はまた遊ぼうと言わず、次の約束に触れようとしなかった。しかし、今朝会った時に驚いたような、果たされるその時まで約束は破られる恐れがある、という思いからではない。君はもう、二人が約束を交わすための場所を見つけたと確信していた。友達になるのに手形は要らないが、相手を祀る祭壇を見つけられなければ、関係は絆にならないのだと、君も僕も分かりはじめていた。

 同じ言葉を返して家に入り、君が視界からいなくなった。君の期待に応えていると感じながら、少しだけ寂しそうな表情を作った。

スピッツ『スピッツ』

 

スピッツ

 

91年発売のファーストアルバム。91年というと、TBSのオールスター感謝祭が始まったりとか、SMAPがデビューしたりとか、同年公開の映画『就職戦線異状なし』で「超売り手市場」「内定者懇親会は温泉バスツアー」とか描かれてたりする、元気な時代である(実際には安定成長期が終わり、採用枠が減り出している時期だが)。

スピッツの原形は「ブルーハーツは衝撃だったが、ブルーハーツのようなことはできなかった」「ドノヴァンとか『ジギー・スターダスト』とかの影響で、アコギに可能性を見いだした」という感じで成り立ったそうだ。

メンバーの写真をジャケットに使わなかったのはイギリスのインディーズレーベル、クリエイション・レコーズの影響らしいが、91年というとマイブラがクリエイションから『ラヴレス』を発表した、いわばシューゲイザーの黄金期。当時クリエイションからレコードを出していたバンドといえば、ちょうど今来日しているスロウダイヴとか、スワーヴドライバー、ライドなど、錚々たる顔ぶれ。

僕たちは、2000年代にポストロックやエモを聴き、そこから上に挙げたようなバンドを聴くことで《シューゲイザー》というコピー/ジャンルへの印象を形作った。恐らくこの印象と、91年当時の洋楽リスナーたちが持っていた印象の間には、大きなギャップがある。僕はソニックユースを(『GOO』とか『ダーティ』だけじゃなく、『バッド・ムーン・ライジング』まで)地元のレンタルで聴くことが出来たし、マイブラを聴く前に、モーサム・トーンベンダーのファーストもdownyのファーストも聴き、それから《シューゲイザー》ということばを知った。

 

(こういう環境の良し悪しを語ることは、本題とは関係しない。インプットされたものの性格の話をしたい)

 

スピッツがこの翌年リリースする『惑星のかけら』ではより顕著だが、この時期のスピッツからは洋楽の匂いがする。メジャーデビューを控えていた彼らがどれだけハングリーに当時の洋楽の流行を追えていたか、僕には正確にイメージできない。しかしデビュー当時、スピッツは一部で「ロック版フリッパーズ・ギター」などと形容されたそうなので、当時のファンの中にも、スピッツから洋楽くささを嗅いでいた人は多くあったのだろう。わざわざ後発のファンが、鳥瞰的に見ようとしなくても。

「詩人のペンとロックのギターを持つバンド」とは、ロッキング・オン(91年4月号)の記事のリードだが、スピッツの魅力を端的に伝える――しかもデビュー当時の記事に付いていながら、今に至るまで通用する――キャッチコピーだ。日本語詞と、バンド自体のクオリティの高さ。95年『ロビンソン』でブレイクしてからの曲しか知らない人も、「うん、そうだね」と首肯する文句だろう。しかしこの《詩人》、この《ギター》が、 エレカシとかブルーハーツ(草野さん曰く「ブルーハーツよりマーシーのソロの方が好き」とのことだが)の影響下から出現してきたことは、ファンの豆知識程度にしか認知されておらず、なおかつこのファーストにはその影響もまた顕著なのだ。

大根仁氏が今も掲載している、ピーズについて2003年に放談したこの記事「30代が聴くロック〜やっぱ自分の踊り方で踊ればいいんだよ〜」にて、薩本紀之氏が「カステラは、バンド名とビジュアルで「こいつら分かってる」と思ったけど、音はあんまり良くなかった」と語っている。スピッツはまさにカステラとかKUSU KUSUとかと対バンしていたバンドであるが、スピッツのバンド名と当時のビジュアルを見て「好きかも、聴いてみるか」と思った人は、このファーストの内容に裏切られはしないと思う。

 

 

 

1. ニノウデの世界(4分30秒)

セカンドシングル『夏の魔物』のカップリング曲。

イントロのギターのハードロックぶりが印象的。歌が入ると同時に、ギターが今度はキラキラしたアルペジオを奏で、サビではイントロ同様の音色に戻り、Cメロでアコギの音を目立たせてからギターソロへ……という展開は単純と言えば単純だけど、軽快なリズムで何となく寂しい内容をうたう歌詞とあいまって、飽きが来ない。

「二の腕」じゃなく「ニノウデ」なのはどうして、というのは議論のし甲斐があるところだが、やはりフェティシズムの表現だろうか。それも、実際は二の腕に限らず、《部位を愛する》という心持ちの表現。「君のそのニノウデに寂しく意地悪なきのうを見てた」。二の腕のみならず、君のすべての部位を想っているのだ、みたいな。

イントロとアウトロで、ほんのちょっとだけフィードバックノイズというか、ハウリングみたいな音が聴こえる。これは意図的に入れてるんだろうか。

 

2.海とピンク(3分38秒)

「いらないものばっかり 大事なものばっかり 持ち上げてキョロキョロして」の草野マサムネ節っぷり。『ニノウデの世界』に続き、やけっぱちというか躁的なナンバーだが、その中に「がんばって嘘つきで それでいてまじめな告白に」という無垢なイメージをぶち込んでくるあたりがニクい。

全編にわたってスネアドラムの音がほぼ等間隔に配置されていてダンサブルでもあるのだが、この曲でもギターが高低を行ったり来たりするのがうまくメリハリをつけている。特にAメロでぐりぐり低音域で動く感じが、ちょっと変態的で良い。アコギのソロも叙情的で良いのだが、エレキの端的なソロが良い。エレキのソロでこうまで「端的」なのが面白い。

 

3.ビー玉(4分42秒)

ファーストシングル『ヒバリのこころ』のカップリング曲。初めと終わりの「♪ヤンヤンヤン……」が歌詞カードに書かれておらず、サビの「チィパ チィパ チパチパ」が書かれているのは何故なのか。このアルバムの歌は、擬音やスキャットスキャットは厳密には即興のものだけを指すが)に、すごく依拠している。後のスピッツは、ナンセンスな歌にせよ、ことば自体の意味や情感に、もう少し頼っている。『ニノウデの世界』のサビの「タンタンタン」。次の『五千光年の夢』の「♪ランランラン……」。『タンポポ』の「くるくる回るくる回る」の「くる回る」。いずれも歌が弾む上でものすごく重要なファクターになっているパートだ。

「お前の最期を見てやる」という歌い出し然り、「俺は狂っていたのかな」「ずっと深い闇が広がっていくんだよ」然り、判断を失っていらっしゃる方を歌っている感じなのだが、曲調がとんでもなく牧歌的であるために、そういう内容が伝わり辛くなっている所がまた良い。

クレジットを見ると矢代恒彦(KANやCOMPLEXなどのサポートで知られる)がハーモニウムを弾いているとあるのだが、それを知るまで、最後に残る音は草野さんが吹いているハーモニカだと思っていた(単音じゃないのに)。よくよく聴くとハーモニウムは曲の大部分で鳴っているのだが、それなら間奏であんなにハーモニカを立たせるのはどうしてなんだろう? ソロはメンバーで演奏しよう、ということなのだろうか。

 

4.五千光年の夢(2分42秒)

前のめりなドラムがとても気持ちいい。歌詞もそれに乗るように疾走し切ってしまい、(上でも少し触れたが)ボーカルは「♪ランランラン……」と言葉を遣わぬまま締めくくられる。多重録音で「♪ランランラン……」を輪唱っぽくしているところが、ちょっとわざとらしくも幻想的。メロディ自体の綺麗さが気に入られていたのか。

スケールを広げず、もっと狭い領域に閉じていく世界観の歌が他にあるのに、これがアルバムで一番短い曲だというのが興味深い。歌があるところではギターの音が細かく重ねられており、パステルのもやで空間が埋まっているみたいな可愛らしさがあるのだが、歯切れ良くミュートされる「カッ、カッ」というギターが増えてくるのが、それはそれで捻くれていて素敵。

いきなり入ってくる「お弁当持ってくれば良かった」というラインの強力過ぎる無意味さは、このアルバムの中でも白眉だと思うのだが、田中宗一郎が架空インタビューで雑に使っていてむかつく。というかあの企画自体、紙面をねじ切りたくなる感じではある。

詩人・高橋新吉の『5億年のくしゃみ』から着想を得ているらしい。読み次第、自分なりの述懐を付け足したい。

 

5.月に帰る(4分26秒)

この曲の作曲は、ギタリスト・三輪テツヤ(作曲者としての表記は「三輪徹也」)。クライマックスはもろにシューゲイザー。終盤にさしかかるまでギターは前に立っては来ず、むしろ地盤(というか、もはや地面)を作る役割を成しており、コーダに至って、全体を支配する轟音へとジワジワ変じていく。このエントリを読んで初めてこのアルバムを聴いた、というギターロック・ファンがもしいてくれたなら、「なるほど、クリエイション・レコーズね……」と思うのではなかろうか。典型的なギター主導の曲、という感じ。エレキギターの音を全部抜いて別の楽器の音を心臓にしたら、(全く別物の)素晴らしい曲になるだろう、と思う。それだけ曲の素材が良い。抽象的な言い方になってしまったが。

詞と曲を別人が書いているのに、「もうさよならだよ 君のことは忘れない」の音韻とメロディが、出会うべくして出会っていると言えるほどマッチしている、というのが素晴らしい。

ここでも矢代恒彦がサポートとして参加。演奏楽器は「エンソニック」とある。シンセメーカーのことであろうが、特にイントロで印象的な、ヴィオラを爪弾いた音にエフェクトをかけたような、あの音を出しているのか。

 

6.テレビ(4分8秒)

ぼくは初期スピッツ(本作~『惑星のかけら』)をリアルタイムでは聴いていない。二十歳ぐらいの頃、音楽を貪欲に聴き出したあたりで初めて聴いた。そうして本作を聴いた時、一番好きになったのがこの曲。今も一番かと言われると(『死神の岬へ』との二択で)迷うが、スピッツの中でも特別好きな部類には入る。

まず、歌詞が何言ってるか分からないのが良い。スピッツの中でも本当に分からない。分かる必要もないぐらい分からない、という抽象性がとても気持ち良い。

どの楽器も狂騒的というか、ギアのハイ・ローの入れ方がめちゃくちゃで面白い。イントロで、エレキの「ベンベケベケベケ」にアコギが挟まってくる瞬間のコメディックな印象。そして最終的にドラムが急に入ってきた瞬間の、ちょっと笑いそうになってしまう爆発力!

 

7.タンポポ(5分8秒)

この曲と、次の『死神の岬へ』には、歌詞カードに絵が挿し込まれている。パートを繰り返すのを示す記号の役割をしているのだが、例えば『テレビ』にも同じ詞を3回繰り返すくだりがあって、そちらには絵がない。

テンポがスローなためもあり、アルバムで最も長い曲。ここまでの曲が軽快なだけあって、相対的にかなり落ち着いて聴こえる。ベースとドラムの溜めが効いているのも大きいだろう。歌とギターがどんどん雰囲気を更新していくのだが、リズムに乗っているとゆらゆらと停滞して聴くことができ、そのグルーヴがサビの「ずっと見つめていたよ」とか「今も思い出してるよ」というラインと一体になると、この曲をグッと好きになる。

 

8.死神の岬へ(3分44秒)

元々嫌いだったわけではないが、どんどん好きになった曲。これも作曲は草野ではなく三輪。オーガズムを目指しているかのように、バンドがこれだけ一直線に走っていく曲で作詞者と作曲者が別、というところにバンドマジックを夢見てしまう。『月に帰る』のMVPというか中心人物はどう考えても三輪さんだけど、この曲は誰とも言えない。そこが好きだ。最初の「♪いくつもの抜け道を見た」の後のギターフレーズは、作曲者じゃないと思いつかなさそうな、突飛かつウキウキするフレーズであるが……。

三たび矢代恒彦がサポートとして加わっていて、今回の使用楽器はファルフィッサ・オルガン。知らない名前だったので検索をかけてみたが、ピンク・フロイド、初期のレッド・ツェッペリンウッドストックの時のスライが使っていたそうな。ディジュリドゥみたいな「ビュウイ、ギュウイ」という低音はギターだと思っていたが、オルガンの低音で出しているんだろうか……? 何か出せないこともなさそうだが。

これを4,5人でコピーしたら、どういう編成でも、どういうアレンジでも、否応なく楽しくなるんじゃないだろうか? 少し悲しいままに。

 

9.トンビ飛べなかった(3分31秒)

スピッツがパンクを包摂しているバンドだということがよく分かる、ひとつのテーマを直情的に歌い上げる一曲。前曲『死神の岬へ』とはまた違った疾走感がある。ファーストで鳥の名前が二回出てくる(デビューシングル『ヒバリのこころ』と同じ盤に収録されている)のは、よく考えるとちょっと面白い。バンド名、犬なのに。

スピッツの詞の解釈は、この曲の「宇宙のスイカ」とは何かとかを深読みするよりも、むしろ「独りぼっちになった 寂しい夜 大安売り」とか、「正義のしるし踏んづける もういらないや」とか、日本語の意味がやすやすと通じている部分――草野マサムネという超人が、わざわざぼくたちにも分かる言葉で言ってくれている部分――をこそ深読みするべきだと思う。

 

10.夏の魔物(3分10秒)

セカンドシングル。91年のシングルチャートを1位から5位へ辿ると、1位:小田和正『Oh! Yeah! / ラブストーリーは突然に』、2位:CHAGE & ASKA『SAY YES』、3位:KAN『愛は勝つ』、4位:槇原敬之『どんなときも。』、5位:ASKA『はじまりはいつも雨』となる。このうち、『愛は勝つ』を除いた4曲が、5分前後の曲だ(『愛は勝つ』がほぼ4分ジャスト)。

当時のオリコンチャートのトップを狙う戦略と、バンドシーンの売り出し方を比べてもしょうがないかもしれないが、この短くノイローゼチックな曲が2枚目のシングルというのは、結構攻めてると思う。『ニノウデの世界』をA面にする選択肢は、あるにはあったんだろうか? 『ロビンソン』がB面になる予定だったことを考えても、ありえない話ではないだろうけど。

明確なサビがないというか、「夏の魔物に会いたかった」のラインが持つインパクトの強さは間違いなくサビとしてのそれなんだけど、スルスルっと展開してそのラインに行き着くので、どうしても「サビだ」とあまり感じない。よくよく聴いてみるとイントロからそのラインのメロディを弾きまくっているわけだが。この展開のシンプルさ、というか「Aメロ-Bメロ-サビらしくなさ」は、「メリハリがない」みたいに評価する人もいそうだ。

この曲も、詞世界を「こういうドラマのメタファーなのよね」と語ろうとすると、どこかで強引になってつまらなくなってしまうが、最後の「夏の魔物に会いたかった 僕の呪文も効かなかった」には、一編のジュブナイルのような叙情性が確かにあって、何か余計な筋書きを付け足したくなる気持ちに、実際なる。

 

なお、『ヒバリのこころ』『夏の魔物』とも、オリコンのチャート入りを果たしておらず、ザッと検索をかけたぐらいでは売り上げ枚数を調べられなかった。上記した91年のTOP5は全てミリオンセールスを弾き出しているが、同年、井上陽水『少年時代』が40万枚/25位、森口博子『ETERNAL WIND』が27万枚/47位というセールスを記録している。どちらも映画のタイアップを得ていた曲だ。デビュー当時のスピッツが100位にランクインしていないことはさもありなんとも言えるが、陽水・ピロ子どちらの曲も、リメイクやカバーに恵まれた曲。セールスと楽曲の魅力が直結するわけではないことの立証……と言い切るつもりはないが、何というかまあ、そういうことは考えていきたい。

  

11.うめぼし(3分36秒)

後に奥田民生がカバーした一曲。草野の弾き語りを、2バイオリン・2チェロ・ベースクラリネットがサポートするという形式が採られている。オーケストラ・アレンジを採用したコンセプト・ミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』の卵とも言える?

バンドサウンドから脱け出したことで、草野マサムネの声はこんなにも人間らしくがさついていたのか、と驚かされるナンバー。誤解しないでほしいが、「汚い」とか「録音が悪い」とかいうことじゃない。生で油絵を見て、絵の具とかカンバスの隆起がよく分かり、素材感をありありと感じる時の感動、みたいな。

 

12.ヒバリのこころ(4分51秒)

記念すべきデビューシングル。実際にはこのアルバムをリリースする前年、新宿LOFT関連のインディーズレーベル・ミストラルから、これをタイトル曲としたミニアルバムを出していて、そこには『トゲトゲの木』『おっぱい』など、後にB面集『花鳥風月』に収録される素晴らしい曲も入っている。

景気が良い、という形容がぴったり来るイントロといい、「目をつぶるだけで遠くへ行けたらいいのに」なんてまばゆい詞といい、デビューシングル(アルバムタイトル)になるのも納得という感じだ。全ての楽器、中でもドラムがパワフル、というところもまたキャッチー。

矢代恒彦のハモンドオルガンによるサポートも、うまくバンドサウンドを下支えしている。これでデビューするというだけあって、裏方に回っているという感じの渋い立ち位置。