キャベツは至る所に

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『The Monthly Delights』についてとか

 

ぼくと浦和や北浦和で会ったことのない人には、読むのに根気のいる文章になってしまいそうだが、構わず書いてみようと思う。

けんさんとクークーバードという酒場で出会ってから、まだ3年経っていない。記憶力は良い方だが、初めて会った時のことやその時に話したことを、もう思い出せない。これまで色々な話をしたし、お互いよく飲む。記憶力が低下する時間を共有し過ぎている。

ブルースマンであるAZUMIさんの話をして以来、けんさんへの好意が固まったことは、とてもよく覚えている。けんさんはAZUMIさんの熱心なフォロワーである。クークーバードは、2016年の3月に閉店した。ライブスケジュールの最後を飾ったのがAZUMIさんだった。ぼくがAZUMIさんを観た最初の夜だ。インプロヴィゼーションでも、語りでも、憑依術でもあるアズミ説法を初めて観た夜。間抜けな表現と超絶技巧が併存していて、そこには生者も死者も現れた。歌の中で、今は亡きご尊父と語らうAZUMIさんを観て、母の死とどう向き合ったらよいか手がかりを得た気がした。そう話したら、けんさんに頷いてもらえて、この感じ方でいいんだ、と思ったのだった。思い返せばあの時が、母親が鬼籍に入っていることを、踏み切ったつもりのないまま人に明かした初めての瞬間だった。けんさんにはそういうことを投げてしまいがちで、いつも少し申し訳ない。

けんさんは「虎」という、いちご煮みたいなロックバンドのドラムスでもある。話すようになる前、初めてお見かけしたのは虎のライブでだったかもしれない。けんさんはタイトにドラムを叩く。自ら歌うソロアルバムも作っている。最近では、ギターを始めたぼくに色々教えを授けてくれる。そんな経緯があり、ブルースやロックに明るい方なのだろうな、と思っていたが、実はYMOドンピシャ世代の元・テクノ少年であり打ち込みのアルバムも出していると知った時は、嘘やん、と思った。

その打ち込みのアルバム『PARTITION』は、アーバンな感じやトロピカルな雰囲気をフワフワさせながらも、時々立ちあがってくる太いシンセサウンドに強い求心力があって、とても良い。マスタリングはスッパマイクロパンチョップ氏が務めている。スッパさんの目に留まったら見逃されはしない、遊び心満載の作品だ。

 

そんなけんさんが、最近『The Monthly Delights』という作品をリリースした。

ぜひセルフライナーを読んでほしいので、あくまで簡潔に説明するが、本作は、けんさんがニフティサーブ内で結成したThe Monthly Delights、以下「TMD」というユニットの音源の復刻、というか初のフィジカルリリース(なんですよね)である。

聴いてみてフッと出てきた感想が、プレステっぽいな、というものだった。自分が高校生だった2002~05年を舞台にした小説を書くつもりで、ここ数年は意図的に、2002~05年およびそれ以前の流行を回顧している。ただやりたいだけっていうのもあるが、プレステのゲームを今更やったり、クリアまで出来そうにないタイトルはプレイ動画を観たりしている。自然と、当時の音色のモードが、自分の中でアーカイヴ化してきている。TMDの楽曲はそれと共鳴して、ぼくの識閾に、ポリゴンやワイヤーフレームのイメージを踊らせる。

件のライナーによると、TMD結成が98~99年頃のことだという。98年というと『バイオハザード2』『鉄拳3』『スターオーシャン セカンドストーリー』『メタルギアソリッド』『LSD』などのリリース年、99年は『エースコンバット3』『レーシングラグーン』『シルバー事件』『クロノクロス』『バイオハザード3』『ヴァルキリープロファイル』などのリリース年だ。まさにプレステ円熟期。TMDの曲のうち、『Groovement』『GIGABITE DAWN』『人の造りしもの』あたりは当時のスクウェアのゲーム、特にラグーンなんかで使われててもおかしくないクオリティだと思いますよ。

曲自体には「良い」「かっこいい」「ここが好き」などと思うばかりで、何がどう面白いということが、うまく云々できない。そこら辺はぜひ実物を聴いて、けんさんの精緻な手技、けんさんが絶賛するパートナー・岩井優氏の才能を感じてほしい。ぼくが面白いと思い、ここで書きたいと思うものは、「新しい」という実感についてのあれやこれやである。

 

プレイステーション(およびセガサターンNINTENDO64)といった次世代機のソフトは、放埓な魅力に満ちあふれていた。当時小中学生として――モロにターゲット層としてプレイしていた身としては、どうしてもそう感じる。スーパーファミコンで、ハードの性能限界ぎりぎりに迫るソフトが出まくる中に、プレステ(など)は現れた。スーファミにファンタジックな魅力を感じている最中に見せつけられた、圧倒的な彩度による《次の表現》だった。今なお特定のプレステのソフトには「新しかった」という感想を鮮やかに抱く。スーファミのソフトでは部分的な演出としてしか採用されていなかったCG表現が、むしろ描画の基礎を成していた。そして音楽。同時発音数の増加もさることながら、ソフトの媒体がCD-ROMであるために、サンプリング音色で構成されたトラックだけでなく、音楽CD同様のデータの再生も可能になった。「ゲームをやりながら、CDで聴くような音楽が流れてくる」という体験は衝撃だった(また、ご存知の方も多かろうが、プレステのソフトには、オーディオ再生用のトラックが収録されているものがある。CDプレイヤーで再生すると、キャラクターのお喋りなんかが聴けるソフトがたくさんあった)。

当時は、今までにないものを作ろうという意図のもと、今までにないものが実際に作られていた。というか、作られまくっていた。そしてぼくたちはそれを「今までになかったものだ」と確信し、その確信が無知による錯覚でないことをはっきり認識していた。成熟途上の分野にリソースが注ぎ込まれていたのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、そこから出てくる作品を享受する者にとっては心躍る季節だった。それらの感覚との相似を感じる音楽を、近年出会った中でも指折りの変人ナイス・ガイであるけんさんから受け取った。それ自体意外な喜びだったが、『PARTITION』を聴く時には見つけきれなかった、けんさんのテクノ・ミュージシャンとしての匂いを、TMDからは見つけた気がした。TMDの楽曲には、先述したような90年代後半のモードを感じる一方で、80年代電子音楽と同根の魅力も感じる。Real Fishを90年代的な電磁波に曝しまくったような、と言えばよいか。そういえば戸田誠司のソロアルバムのタイトルは、TMDの曲名そのまま『There She Goes』だ。

YMOP-MODELなどが70年代の終わりに起こした波は、そのうねりを今も止めずにいる。2000年代から真面目に音楽を聴き始めたぼくのような者が、その波うちの跡を見ようとしていると、何をテクノとかニューウェーブと呼ぶべきか分からなくなっていく。初めてINUを聴いた時は「これ、パンクじゃなくて、ニューウェーブじゃないの」と思ったもんだったし。

今、テクノとかニューウェーブというタガでミュージシャンを何とか括ろうとする時、輪の中に入れる条件のように思っている点がある。新しさへの直情的な憧憬だ。自己表現の進化を求めている、というのとは違う。新しい機材への期待、閃いたコンビネーションの新鮮さ。それらによって、新しさの具現化をしようとしているかどうかだ。その人が頭に描いている・無意識下に潜在させている未来世界に相応しい音。それを形にしようとしている、そういうミュージシャンはニューウェーブだと思う。

TMDもそうだ。ジャングルやドラムンベースといった形式を新鮮に感じる思いとかが、めちゃくちゃビビッドに感じられる。きっと、けんさんと岩井さんにとっては、それらは新しかったのだろう。音楽そのものとしては、ぼくにとってはある種懐かしい、流行っていた当時熱心に聴いていたわけでなくても、かつて隆盛した一ジャンルとして捉えられる形式。しかしTMDを聴いていると「この人たちには新しかったのだ」と屈託なく思え、けんさんたちが「新しい」と感じた時に頭に広がっただろう色彩が、フッと自分の瞼をよぎったような気持ちになる。ぼくとけんさんは歳が離れている。それなのに「新しい」と感じるものが重なったような、このマジカルな錯覚。

「新しい」は微妙で、頼りない。無知は典型を斬新に見せることがある。ぼくが「新しい」と思った表現が、他の人の眼には、手垢の付いたもの、他人のふんどしで相撲を取っているようなものに映るかもしれない。「新しい」は絶対ではない。古いために新しい、なんてことがザラにある。思えばこれは凄いことだ。熱いために冷たい、とか、低いために高い、なんてことは有り得ない。

先述の通り、TMDニフティサーブ内でのみ活動していたユニットだった。ニフティサーブの完全閉鎖は2006年。本作のリリースが今年、2018年。12年という隔たりを想う時、けんさんの胸には懐古があって然るべきか、と思われる。そんな音楽を、2015年とかにけんさんと知り合ったぼくが聴いた。かっこよかった上、「スクウェアが輝いていた頃のプレステ」なんていう、自分の中の新しさのイメージを記憶から引っ張り出すことになった。年齢差を超えて起こった懐古の重なり、そして懐古されるそれぞれの新しさ。この織り成りに、かなりワクワクする。ある「新しさ」がどこまでの賛意を得る新しさであるか、賛意の多さが新しさを担保するのか。こうした問題は、実際非常にややこしい。しかし言えるのは、その問題は新しさにワクワクしているとき特有のポジティブさを害せない、ということだ。やる側のワクワクも、受け取る側のワクワクも、始まったら止まらない。

TMDの音楽は、凝っている。そもそも編集しているけんさんが、フリー音源のドビュッシー『月の光』のサスティンをいじって、演奏としてのクオリティを上げるなんて遊びをしてるような変態なので、凝ってないわけがない。しかし、新鮮さにワクワクしながらやってることを疑う余地がない、その一点によって、無垢な音楽だとも感じる。熟達しながらイノセント。それは、何と言うか、やばいぜ。

 

北浦和の居酒屋ちどりとかで買えます。

高橋弘希『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』を読んでいる。今ぼくの周囲にいる中で、本を多く読んでいることが最も明らかである友人が激賞していたので、これは読んでみようと手に取ったのだが、すばらしい。

まだ読み終えてはおらず、中盤を過ぎたかというあたりまでしかページをたぐっていない。だから梗概に触れたり、作品自体を評価する文章は書けないのだが、何となく今の自分の感興を書き留めておきたくなった。

 

長大な作品ではない。《小説》全体の中では短編に類する作品なのだが、数ページ、十数ページ読んだら一度本を閉じて、何時間か、または何日か経ってからまた読み始める、という読み方をしている。合間に別の本を読むこともある。普段はしない読み方だ。それなのに、そういう読み方で、自然に読めている。話の筋がこんがらがることも、自分のノリが錆びつくこともない。

叙述は淡々としていて外連味もないし、構造が激しく複雑なわけではない。視線を惑わせるような言葉のまずいつなぎもなく、集中を途切れさせる縺れもない。そうしようと思えば一気に読み切ってしまえるのだが、どうもそうやって読もうと思えない。だからといって「読み終えてしまうのがもったいない」という感傷で手が止まるわけでもない。そういう気持ちもないではないが、終盤を読んでいない今すでに「繰り返し読むのに耐えうる文章だ。折に触れて再読するだろう」とも思えている。

人間の死について書かれている小説なので、自分の死を想う心とか、死んでしまった人たちのことを考えざるを得ないのも、するすると読んでいけない要因なのかもしれないが、どうも違う気がする。そういう作品には、自分の中にこんな鐘があったのかと思うものを激しく鳴らされる心地がするものだ。クライマックスを迎える前から、いくつものパートで。『日曜日の人々』には今のところ、そういう感じが全くない。身を切られるようなエピソードやパッセージは、いくつも既に現れていながら。もちろん響いてくるものはあるのだが、それが自分の中で反響を唸らせることがなく、フーッと消えていくのだけが鮮やかに感じられる。先に読んでいたデビュー作『指の骨』にも同じ感覚があったが、『日曜日の人々』が自分に残す無音には、背筋が寒くなるほどのものがある。その寒さを身も蓋もない言い方で表そうとすれば、「描かない意図が感じられる叙述によって、こちらの観察が掻き立てられる」と片付けてしまえそうでもあるのだが、そう言い切りたくないものが自分の中に強く、かつ間違いなくある。

一時、『日曜日の人々』のような文体を目指していたことがある。ある気がする。数万字単位の小説を書き始めた頃のことだ。新しい言葉を綴ろうという意識も鈍らながらあり、自分なりに透徹したまなざしを持とうとして書いた初めての自作を思い出させる。それが自死についての小説だったことも大きい。小説としての質は『日曜日の人々』に遥か遠く及ばないので、出来不出来の差を想って読むペースが落ちてしまう、ということは全くない。だから惹かれる、というのはあるかもしれないけど。

 

この小説を教えてくれた友人は『日曜日の人々』に関して、「小説は人間に書かれたものであってほしくない」と言っていた(本当は「書いていた」とするのが正確なのだが、ぼくにはそれが彼の肉声だと思えるので、「言っていた」としたい)。読んだ後、単に経験として残るもの。誰が何によって書いたということが自分に関係しないもの。そんな側面が、高橋弘希の小説にはあると。そんな意見と、実際に読んでいるものとが協奏する感じも、実際の読書を楽しくしている。『日曜日の人々』にしても、『指の骨』にしても、作家を隠そうという意思をもって書かれたものではないだろう。しかしぼくは彼の意見に共感している。

作品から性格的要素を完全に排すること、しかもそれを制御下において行なうことは、恐らくどんな作者にもできない。作品に作者を感じさせないということは、そうした作為で成り立つものではない。

ある悪友とバンド(というかデュオ)をやっていて、その場で出たアイデアひとつで一気に基礎を作る曲作りをしている。素晴らしい音楽はヤマ師によっても作られるのだな、といつも思う。ディテールのレベルで言えば、どんな表現形態にもまだ発明はあるとも思う。

高橋弘希について言うと、トリックとか発明ではないものが凄い、と思いながら読んでいる。一気に読み切らないのは、じゃあ何が凄いんだろう、というこの気掛かりによるのだろうか。

 

流れに身を任せればすぐに読んでしまえる性質のものを少しずつ、高級なボンボンを一粒ずつ日を置いて食べるように読んでいる。読み切るのが惜しい訳じゃない、きっと後々読み返すし、と上述したが、ここまでに「読み切ってしまえる」のように「しまう/しまえる」という補助動詞を繰り返しているところを見るに、結局読み切るのは惜しいようだ。

読み終える前からこんなにだらだら書いてしまう、それぐらい興味深い小説だぜ、という記述でした。

 

 

日曜日の人々

『補色の花』

 君は僕の家まで駆けてきた。そして、前触れなく玄関を開けた僕を見て、驚きながら笑った。待ち合わせをした場所で、相手から驚かれたことはない。来ると分かっているものには驚けない。君は約束がどんなものだか分かっているから驚いた。

 一瞬、体の内側いっぱいに羽が舞ったような焦りが君を充たして、僕にもそれが転写された。君はことばを口にすることをためらって、視線を僕に残しながら、僕の家に背中を向けた。君にとって、もう僕の家は目的地ではなく、僕にとってもこの家は出発点でしかなかった。

 冬の朝の空気の中を走って、君の頬には、果物のように痛ましい紅が差している。君が歩く方に僕も歩いていく。

 歩けば、風は君を刺さず、君を撫でた。君に目当ての場所はなかった。君と僕が生まれ育ってきたこの町並み、十年の時間ずっと呼吸してきたこの地域に、真新しい所などもうなかったし、不可解なものにも既にいくらか手垢を付けていた。この町には適度な場所と不充分な場所しかなく、聖域も死地もなかった。

 君の足は、土が堆く盛られた広い空地に向いた。背の伸びた期待の苗が、突然枯れた。ここは何人もの友達と、何通りものグループで、何日にも分けて足跡をつけた、面白さを舐めつくした場所だった。君と二人遊ぶのが初めてというこの日に、一番に踏み入るべき場所ではない。

 君は一つの場所に辿り着いたことによる喜びと落胆とを感じ、僕の反応をうかがおうと振り向いた。君の喜びも落胆も、僕同様の免疫のために著しく鈍麻されていた。君は僕の表情を一瞥しただけで、同じ抗体機能の働きを察し、納得ずくの微笑みを作った。君は盛られた土の頂上を目指して、ゆっくりと歩みを進めた。身長の倍あるかないかの小さい山だ。君の足取りには目的をただ素早く果たすことへの目的意識がない。思慮も意味もない、ただ意思と神経と身体とが最も単純な回路でつながっているあの瞬間の反射的な快楽とは、無縁の運動を君はする。僕は君に追いつこうという目的のために、斜面を駆け上がった。

 君は遠くを指差した。

「あれが、家。あの赤い屋根の」

 君が指差した方角に、赤と呼べる色の屋根は一つしかなかったので、僕には君の家の位置が確かに分かった。この時初めて、僕たちはそれぞれの家の位置を把握した。

 家が人を守るものである以上、例えどんな相手に対してでも自分の家の在り処を明かすことは、自分が無防備に過ごしている場所を教えることになる。僕に君を害するつもりはない。しかし君は、僕が防御を解く場所を、一方的に知っていた。君にだって害意はなく、級友に害意を向けることの必然性すら、君の視野にはまったく存していなかったが、君は自分の家の場所を教えていないことに明らかな不公平を感じていた。

 僕が君の家の場所を強く理解すると、君は安心して山から降りた。もうこの空地は用済みだった。

 学校も冬休みを迎えもうすぐ年も明けるという今、親の郷里に帰っている者も多いからか、単にまだ朝早いからか、他の子供とは出くわさなかった。大人の目はなんでもないが、別の集団の子供の目は鏡のように目障りだ。

 僕と君は、ごく些細なきっかけでグループの境目を跨いだばかりだった。僕たちのことをよく知る者に今出くわせば、好奇の目で見られることは間違いない。君は自由を感じて歩いた。僕も自由を感じて歩いた。

 君は道を外れて、冬枯れのすすき野原を歩き始めた。遮るもののない空間に吹く風は冷たい。君は乾いた土を蹴った。しばらく雨が降っていないので、白茶けた細かな粒が広く舞い、緩んだ風に柔らかく散っていった。僕が真似ると、君はもう一度、先ほどよりも弱く土を蹴った。同じくらいの窪みが二つ、それより小さな窪みが一つ、見つけづらい星座のように並んだ。君は思った通りの美観を作る三点が作れたことに満足して、また歩き始める。移動のためではなく、この空間を遊覧するべく。僕は君の軌跡を辿る。

 君は風の音に遮られた静寂を見る。十二月三十一日が一月一日になる瞬間、快哉が上がることや鐘が鳴らされることはあっても、動物や草木がそれに付き合うわけではないし、時間を駆動させているエンジンがすげ替わったり、世界が一瞬で脱皮するわけではない。それでも年が明けようとする時期には、何かが終わっていく気配が漂う。生き物が死んでいく時、呼吸と脈が細くなっていくのと同じように、三百六十日生きてきた年が死んでいく静けさを君は見ている。

 原っぱの向こうに、いずれ高速道路への分岐にぶつかるバイパスが走っている。風に消えてしまって、車の音は聞こえない。君は針のような細さにしか見えない、バイパスに並ぶ電灯を見遣った。

「車でああいう道を走ると」

 君は僕の顔を見て話し始めた。言葉を発することではなく、意味を伝えることを意識していた。

「窓の外を、灯りが流れていくよね」

 その光景が好きなのだとは、君は言わなかった。僕が、綺麗だよね、と答えると、君は頷いた。そして君はバイパスの方へ歩き出した。

 たくさんの車が、君や僕のために走っているのではないのだと見せつけてくるかのように、バイパスを走り過ぎていった。車道に沿う歩道を歩きながら、君は雨風に晒された雑誌やペットボトルを蹴った。僕は君が蹴ったものを蹴った。どちらが始めたということが判然としないまま、缶を順番に蹴りながら進む遊びが始まった。この遊びは、僕たちの家の方へと向かう道に差し掛かるまで続いたが、君の蹴った缶が蓋の割れた排水溝へと入り込んで終わりを迎えた。さして面白いと思うでもなく続いた遊びだったが、君は申し訳ないと思いながら僕を見た。君が予想した通り、僕がその表情を笑い飛ばしたので、君もそっくり同じ笑顔になった。

 雑木林は寒さから長居する気が起きなかったが、君は歩いていける目ぼしい遊び場を巡り、僕はそれに付いていった。大した会話はなく、ルールの考えられた遊びに興じることもなかった。ただ君は、僕もよく知っている場所を改めて僕に見せた。自分が遊んでいる様のスライドと、僕が遊んでいる様のスライドをうまく重ねて、二人が一緒に遊んでいる画を作るように。

 腹が空いて、家に帰ることにした。先に僕の家に着いた。

「この後、親と買い物に行かなくちゃいけないんだ」

 僕も部屋の掃除を言いつけられていて、午前も午後も遊び歩くことが許されていない。それを告げると、君は残念がりながら笑った。

「またね」

 車窓から見る灯りの美しさを語らなかったように、君はまた遊ぼうと言わず、次の約束に触れようとしなかった。しかし、今朝会った時に驚いたような、果たされるその時まで約束は破られる恐れがある、という思いからではない。君はもう、二人が約束を交わすための場所を見つけたと確信していた。友達になるのに手形は要らないが、相手を祀る祭壇を見つけられなければ、関係は絆にならないのだと、君も僕も分かりはじめていた。

 同じ言葉を返して家に入り、君が視界からいなくなった。君の期待に応えていると感じながら、少しだけ寂しそうな表情を作った。