キャベツは至る所に

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2011のシネマ・1

今年のシネマとか銘打っても、名画座に行くことが多いので、新作を取り扱うことは本当に稀でしょうが。でも観ておかなきゃいけないと思う映画は、実際過去にたくさんあるので、古今東西の映画についてここにしたためることになるだろうと思います。
未見の方の邪魔だけはしたくないので、いわゆる「ネタバレ」はしません。必要に迫られた時は文字色を白にしたりするかも。


1月の下旬に早稲田松竹で観た二本が、たぶん今年初めに観た映画(だったと思う)。
『トイレット』と『川の底からこんにちは』。PFF出身監督特集っていうことだったのか?

『トイレット』

【2010年 109分 監督:荻上直子


かもめ食堂』は本当によく出来た映画だと思う。すごくありふれた時間を描いているのに、現実と非現実が乱暴に混濁するのとか(キノコの描写であり、プールのシーンであり)、ストーリーが語っているものが役者や演出と噛み合っているのとか(「コピ・ルアック」のくだりであり、ラストシーンであり)。
そうした心酔がハードルを上げすぎたこともあるけど、『めがね』は好きになれなかった。一度観ただけなので何とも言えないけど、「かもめ」にあった美しい脈絡がオミットされた上で、「かもめ」にあった不気味な落ち着きにたどり着いている感じがした。


そういう違和感が『トイレット』には一切なかった。もちろん、そうかと言って「かもめ」とも全く違う新鮮さもある。

物語は、決して関係に問題がないとは言えない三人のきょうだい(男・男・女)が、母の葬儀を営むところから始まる。三人からすると、きょうだいを除けばただ一人の肉親だった母の死。
人が死ぬということは、悲劇の開始であると同時に、義務と雑事の顕在化でもある。
きょうだいの目下の心配は、母が故郷から呼び寄せた彼女の母、つまりきょうだいたちの祖母(もたいまさこ)。彼女は恐らく英語をしゃべれない、っていうか彼ら自身は「ばーちゃん」と話したことがない。様子がおかしいと思ってもコミュニケーションが取れないし、ほんとに僕らのおばあちゃんなのか? とまで考えてしまう。部屋から出てこない、ろくに食事もしない「ばーちゃん」を気遣ってスシを買ってきてみたりしてもどうにも肩透かし。

一応物語の一人称にあたるのは、きょうだいの真ん中に位置するレイ。引きこもりの兄・モーリーと、勝気な妹・リサとは離れて自活している。趣味に没頭できるひとりの生活に満足しているが、ばーちゃんの存在に気を揉む二人に頼られ、徐々にひとりの時間は浸食されていく。
もちろん彼だけが話を回すわけではない。モーリーの繊細さとか、リサのフラストレーションとかが話をギュッと引きしめる時はたくさんあるけど、一番重要なのはレイの変化なんだろう。
人間「もうこのままでいい」と思ったらそこが終わりだ。これは何歳の人間にも、どういう身分の人にも言えることで、より善いものになろうとしない奴の生きている価値なんて大したものじゃない。
『トイレット』が静かな映画でありながら、何だかよく分からないパワフルなものを感じさせるのは、キャラクターにそういうエネルギーが秘められているためだ。モーリーにしてもリサにしても、とても明朗なアクションを起こす。そこに溢れ出している変化への欲求は潔くて、とても気持ちがいい。
日々を静かに、平和に生きようと心がけているレイは、彼らのように感情をあらわにできない。彼の「平和」は彼ひとりのもので、そこでは感情を表現する必要がない。こう言うと旧エヴァみたいになってくるな。でも実際、エヴァの「補完」に通じることではある。自分しかいなければ、人から傷つけられることはない。快適な時間を邪魔されもしない。その安楽。
しかし、愛とか絆とか、そういう手垢のついた小っ恥ずかしい言葉によって意味されている歓びっていうのも確かにあって、レイが尊ぶような「平和」にあっては、その歓びには手が届かない。それもひとつの事実だ。

レイはそのままではいない。しかしモーリーのようにチャーミングでも、リサのように強靭でもない彼一流の方法で、彼もまた優しさを発露させていく。それまでのように、小器用に、常識的に振る舞うだけではなく。
ところどころ強引な所とか、飛躍している所はあるけど、それを無視させるアバウトな優しさが漂う映画だと思う。


こうした変化のドラマそのものも面白いんだけど、その変化を促すのが「家族」であるということ自体、とてつもない優しさを帯びた表現だと思う。
昔、このブログを持つ前、山本直樹の『ありがとう』について書いた時、家族内殺人に触れた(その文章を書いた頃、ニート・引きこもりがいる家庭での親殺し・子殺しがピックアップされまくっていた)。
ぼくはああした殺人を不自然なこととか、現代の歪みとかとは全く思ってない。先に書いたような「レイの平和」を考えると、家族というのは、自分の聖域を最も侵しやすい人たちなのだ。自分が生活の中に隠した宝物を、生活の領域が同じというだけで明るみに出してしまう人たち。暴露を意識しているかどうかは関係ない。一緒に暮らすだけで、彼らは秘鑰を持っていることになり、ギッチギチに施錠したはずのものさえ発見されてしまいかねない。
ベッドの下のエロ本を見つけられるなら、あからさま過ぎて笑えもしようが、事はそう簡単ではない。愛情が積み重なってかけがえのない絆が生まれるのと同じ原理で、緩解しない鬱積が構築されていくこともあり得る。
自分の家族に愛を覚えるというのは、そうした悲劇を回避した功績であって、血の繋がりによって当然生まれるわけでは全くない。その点でも『トイレット』は優しい映画だ。


・大好きなシーン
リストの『ため息』が使われるシーンがあるんだけど、そこはもうほんとに絶品。
カメラワークもナチュラル。ゆっくりとした移動で、家族全員がフレームに入るのがとても印象的だった。ああ彼らは家族なんだ、と思わせる素晴らしいカット。


この映画の影響で『ため息』が、というかリストがすごく好きになって、ホルヘ・ボレットのCDを買ったけど、映画の演奏のほうが好みだったような……? でも初めのインパクトが強すぎただけかもしれない。そういう意味でも『トイレット』は観返したい。


結びとして、『ため息』を貼っておく。『月の光』もそうなんだけど、ぼくはもしかしたらものすごくクライバーンが好きなのかもしれない。