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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

2011のシネマ・3,4

映画

続けざまにフィリップ・ガレル作品の感想をば。

『白と黒の恋人たち』

【2001年 117分】

映画監督・フランソワは女優志望のリュシーと出会い、恋に落ち、彼女を新作の主役に抜擢する。ドラッグを批判するその映画のモデルは、フランソワのかつての恋人キャロル。プロデューサーがつかず、資金繰りにあえぐフランソワ。モデルの存在を知り、苦悩するリュシー。資金は獲得されて撮影は始まるが……。

直前のエントリで、「失われた恋人たちの革命」は圧倒的とは思わないけど何となく好き、などと書いたけど、本作に感じた印象は全く逆。エンドロールが始まるその時に魂が抜かれるような衝撃があって、虚脱感に包まれながらクレジットを観ることになった。

本編と劇中劇が混線していく模様が素晴らしい。その末のエンディングも。本作の原題は、劇中劇のタイトルでもある「SAUVAGE INNOCENCE」。

恋愛は一対一でしかできないものと断定されがちだけど、一対一でしか行い得ないから、恋人以外――埒外にいるはずの他人と自分との関係を際立たせるものだ。フランソワとリュシーの間には、既に亡いキャロルがいる。フランソワは口で何と言おうが明らかにキャロルに執着し、彼女を殺したドラッグを憎み、映画でもって糾弾しようと奔走する。リュシーはそれを思い悩み、キャロルを演じることで苦しむ。
死した人物の存在に囚われながら廻る恋愛模様ということだけで言えば、それは普遍的な恋愛劇だ。だからこそ理解しやすい。

しかしそれ以上に、フランソワとリュシーによる二人の時間の進行が、キャロルという故人の時間に搦めとられ、二人が没入する「映画」という空間の中で混濁し続けるという、時空的なドラマの完成度がものすごい。フランソワはドラッグを憎み、リュシーはドラッグに溺れたリュシーを演じる。ただそれだけならば、彼らの愛は当たり前の発展を遂げていっただろう。しかし二人は自然に、しかし残酷にドラッグの毒に汚れていく。その末に待つ、ラブロマンスの終局。

「面白い」と心の底から言えるものって、やっぱり観客とは無関係なものが展開する作品だと思う。身につまされる、とはよく言ったもので、自分の個人的な部分に響くということは即ち痛痒が生じるということだ。自分を忘れて没入できるような作品なら、手放しに褒められようが、自分に関わった作品をどうこう云うとき、人は自分自身を説明してしまう危険を感じてしまう。
「白と黒の恋人たち」は、そういう映画とは違うフォルムをとっている。映画とは何か、という問いを見いだせるタイプの映画だ。その問いはどうしても、何が現実であり何が映画であるかという線引きについての物議を醸す。フランソワの恋愛は、どこまでがニコを想ってのことかという問いでもあるだろう。
そしてどこまでが映画本編という〈現実〉で、どこまでが劇中劇という〈虚構〉なのかという問いでも、もちろんある。両方とも監督の命によってカメラが刳り抜いた時間でしかないけど、二つの時間は本来全く別の物だ。しかしまるでパラレルワールドのような距離感で、「並行」などとは絶対に呼べない精妙な関係の仕方で、二つの時間は浸食し合い、同化し始める。

映画が現実に喰らい込んだ結果、観客の皮膚にまで歯形を残すような作品は、やっぱり良い。スタント物やカンフー映画のアクションとか、作りこまれたセットや衣装で繰り広げられる時代物といった愉快さも映画にしか出せない。それこそ手放しにブラボー!と言える熱狂を味わわせてくれるのはそういう映画だ。そしてやっぱりぼくが一番好きなのは、「晩春」とか、「スケアクロウ」とか「パリ、テキサス」みたいな、人間が持つ何かしらの面を撮影と編集と演出と芝居とで描き抜く作品だけど、映画とは何かを考えさせる映画もやっぱり好きだ。

特に本作のラストの質感は、まさしく何かに噛み付かれたときに似ている。尖ったものに肌が刺される痛み、歯が離れたときの呆気なさ。痛みが消えたその後に蘇るむずがゆさ。
全然関係ないけど、吉田秋生の「河よりも長くゆるやかに」のセリフを思い出した。無理矢理された、という女の子を、犬に噛まれたと思って忘れろよと諭した(つもりの)男の子。それに対する女の子の鋭い返事。

「じゃあ あんたは犬に噛まれたことを忘れられるの?」

忘れられないんだよなあ、傷つけられた記憶は。映画や小説につけられた甘い傷も、つけられる謂れのない残酷な傷も。
 

『失われた恋人たちの革命』

【2005年 182分】

1968年、フランスにおいては「革命」の年。
(日本でもそうした事件は起きたけど)単に革命とはいえない、カギカッコで括らざるをえない「革命」と、その後の倦怠に青春を費やした若者を映した映画。

3時間という尺は必要だったのか? という疑問はある。序盤にあった、警官隊との衝突のシーンとかの執拗な長回しでは眠気を誘われた。
物語の性質上、無為な時間が描かれることも多いから、起伏も実になだらかで、西部劇的キレみたいなものは全然ない(ガレルは初見というぼくでさえ、元々そんなものは求めちゃいなかったけど)。
ただ、上映時間が増えることで、初めて現れるものもある。安易な喩えだけど、腹持ちの問題というか、自分の体の芯にまとわりつく重量みたいなもの。
ガレルは、自身の青春をこの映画で描いたそうだ。主演は実子であるルイ・ガレル。息子の年頃に体験したことを息子に演じさせるという試みには、恐らく個人的な要素が混ざり込むのは避けられなかっただろう。仮にその要素が、観客には読み取りきれない情報だとしても、普遍的な情報ではなかったとしても、やはりそういうものをムダだとは思えない。
ぼくもそういう観客の一人だけど、「美しい一部」を愛好するのは楽しい。そういうものによる、快楽の瞬間的な高まりもすごい。小説や詩のたった一行、ノイズバンドの恐ろしく技巧的なソロ、フリーキック。だけどある一部を美しいと断ずるためには、当然ながらその前にあるタメや伏線が必要だし、全てが終わった後でなおそれを美しいと思い続けるには、「一部」以後がいかに慎重かも重要だ。
全ての作品はトータルな形でしか存在し得ない。「失われた恋人たちの革命」は退屈ではあったし、全てをブチ壊すほどのシーンやカットもなかった。だからぼくは本作をものすごくは愛していない。やっぱり長時間拘束されたら、それなりの娯楽や発見をもらいたいものだ。5月革命にまつわる変化に疎いぼくには、娯楽も発見も、ノスタルジアもなかった。
だけど観終えた後の腰の痛みが嫌じゃなかったのも、気になってレビューを検索しまくったのも、どうやら本作を嫌いにはなりきれないためだ。
ルイ・ガレル演じるフランソワは詩を書く。彼のみならず、ある友人は絵を描き、金を持った友人は作品を買う。時にはパーティでドラッグに溺れる彼らは、ちっとも「一旗揚げる」みたいなエネルギーを持っていない。理想の残骸をどうやって片付けるか、それだけを考えている。
そうした内容のない時間を見せつけられてなお、体内には何かが充満してくるような、そういう反応を覚えた。それは、監督が今なお片付けられていない青春の残骸から立ち上る、苗床が青春じゃなかったら瘴気とでも呼びたくなるような、ものすごい密度を持った情念によるんじゃないか?

体感としては長すぎる映画だったけど、その後に残った疲れは良質な映画だった。


・大好きなシーン

キンクスの「This Time Tomorrow」が流れて、皆がダンスするシーンはすごく爽快だった。パーティに興じる人の身勝手さがうまく描き出されていた。
あと終盤で、火炎ビンとかとは全然別の意味合いで「火を点ける」カットがあって、そこではゾクゾクした。汗が吹き出して服の下に熱がこもる時の、あの動揺を誘う感じ。