キャベツは至る所に

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2011のシネマ・5

テオ・アンゲロプロス監督の『エレニの旅』を観た。多分今年の上半期に観た映画の中で、一番胸に響いた作品。

【170分 ギリシャ・フランス・イタリア・ドイツ】

ロシア革命によってオデッサを追われ、難民となったギリシャ人たちの行進を描くのが、ファースト・シーンになっている。上の画像はそのひとコマ。彼らはニューオデッサという集落を築き、新たな生活を始める。
主人公・エレニはオデッサの孤児。集団のリーダー・スピロスに保護されて、共にニューオデッサにやってくる。彼女は後にスピロスに求婚されるが、既にスピロスの息子・アレクシスとの間に愛を育んでおり、式当日、花嫁衣裳のままアレクシスと共に駆け落ちする。

その後、エレニのあてのない旅は続く。自分たちを追ってくるスピロスの影にいつも怯え、アレクシスが参加する旅芸人一座の活動は国家権力に阻まれる。全編に渡ってエレニには苦難がつきまとい、正直言って救いという救いは起こらない。
「エレニ」とはギリシャ人女性のとても一般的な名前で、ギリシャそのものの愛称でもある。主人公・エレニの歩みは、ギリシャ自体の歴史の投影であるらしい。ぼくは数年前、初めて『旅芸人の記録』と『ユリシーズの瞳』を観て打ちのめされて以来、ギリシャ史に大変興味があるのだが、うまく文献を見つけられず、不勉強なまま今に至っている。
両親を喪い、ルーツを異にする集団に引き取られ、望まぬ愛から逃れようと駆け落ちをして、懸命に生きてもなお安住の地はどこにもない。エレニの生き様はまさしく難民と呼ぶにふさわしい。しかしぼくには「難民」というもののリアリティがない。日本にも残留孤児の問題があるにもかかわらずだ。言い訳がましいが、この問題は「戦争を知らない子供たち」には、どうしてもリアルなものとしては伝わらない。歴史として学び、考える他ないと思いながら、その姿勢が不健全である気がして、もっと感情移入して悲劇を想像するべきではないのか、などと考えたりもする。
以上のように、勝手な劣等感をもって、ぼくはアンゲロプロス作品に対峙しているが、ここまで気負ってしまうのはなぜか。よく言う映像美だけでは、このような感動はしないだろう。やはり作品の中に、ぼくの無知をさえ鷲掴みにする貪欲な手があるからではないか。

国家間戦争という、個人の力では抗いがたい激流に弄ばれる存在=難民。その悲劇の基礎になっているのは、《居場所》を与えられないという、一方的な否定であるはずだ。
社会とは(基本的に)どのような人間にも居場所を与えられるためのシステムのことであり、その抽象的な表現が許されるなら、人類全体が社会に生きている、と言える。「難民」はそこから外れた人たちのことだ。

どこにもいられないことは、何も出来ないということであり、誰とも生きられないということだ。
エレニは常に難民であり、家や村を追われ、友や家族を喪い続ける。ひと所に留まって人生を築くことが許されない。私的な事由で、自分の属するコミュニティを「自分の居場所ではない」と思う人もいるだろう。どこにも自分の安住の地を見つけられずに苦しむ人が。その人の苦しみをバカにする気はない。彼らの苦しみもまた悲しいものだ。しかし責任のない苦難に遭った人を救うべきである社会によって、居場所を奪われる苦しみこそ、悲劇と呼ぶべきだ。

リアリティも知識もないままアンゲロプロスを観続けている。『旅芸人の記録』でも、戦後情勢の混沌に翻弄される人間が描かれていた。『エレニの旅』では、その残酷さがエレニ一人に凝集していて、逃れようのない波が自分まで巻き込むような作品になっている。
「20世紀3部作」の一作目である本作。二作目は既に公開されているらしいが、日本での公開は未定とのこと。ぼくには万難を排して劇場に参ずる用意がある。それまでに鑑賞に耐える知識を身につけねば。


・大好きなシーン
序盤の「劇場アパート」のシーンは思わずワクワクした。スピロスの見え切りも見応え抜群。
中盤にあるショッキングな羊のシーンは、安易な表現だけど絵画みたいで背筋が寒くなった。
それと、全編通して、水の捉え方が美しすぎる。上の画像にもある川辺の捉え方、川に踏み入るスピロス、水上での葬儀、洪水、アレクシスが乗り込む大型船が浮かぶ海。
水に絡めて言えば、何といってもラストシーン。椅子に全体重を預けて、口も閉じられないまま放心したかのような面で観続けた。心臓を絞られるようなワンシーン。