キャベツは至る所に

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今年に入って読んだイイ漫画

本棚がパンクしているので長編の一気買いが出来ない。
岡崎京子に狂ったり、少女マンガにハマッたりした時期があるので、元々1巻完結とか短篇集には弱い。ということで今年はこんなアタリに出くわしている。

珈琲時間 (アフタヌーンKC)

珈琲時間 (アフタヌーンKC)

出たの2年前ですけど。
『アンダーカレント』がすごく好きなので、案の定ツボにハマったという感じ。
一話完結のオムニバスもの。時々世界観を同じくする話があったり、『アンダーカレント』にも登場したキャラが出たり、分かりやすい遊び心も面白い。
『アンダーカレント』では、デストルドーっていうか、「騒音としての生と、静謐としての死」っていうか、もはや一般的でさえある「チルアウトな鬱」というニュアンスっていうか、とにかく心地良さに転化された暗い感情が、通奏低音みたいな効果を挙げていた。

『珈琲時間』の面白さとか気持ちよさは、そういう感じとは全然違って、もっと前向きだ。キャラクターの顔が見える。キャラの内面へと沈降させられていくマゾな快楽は無い。一話完結という形式の健やかさによって、キャラの内面は単なる視覚的な情報=顔として読者に見える。
「『アンダーカレント』寄り」という失礼な呼び方ができる展開の、「すぐり」や「リトル・ガール・ブルー」でさえ、そうして読める。
特に「すぐり」で描かれる、はるみと叔母さんのスリリングな関係(あれをスリリングだと思う人が、ぼくは好きだ)は、『アンダーカレント』でこれでもかと見せつけられた人間のあいだの不安、あれを濃く帯びている。でも、彼女たちは自分たちが秘める底流に、自分たちの魂を浸さない。染み入ってくる鬱や、目の前に転がる闇の塊を、どうにか乾かしたり避けて歩いたりしている。
それは安易にポジティブとも呼べない難しさを持っていて、癖になる。ところでちょいちょいとキヨシローや、チバユウスケのバンドの曲名が登場するんだけど、これはちょっと意外だった。まあ『アンダーカレント』でも「DUCA」がすごく効いていると思うので、引用自体は不自然じゃないんだけど。何か豊田徹也作品って、少なくともミッシェルとかが「流れてそう」ではないので。

一番好きな話は「Hate to see you go」。こういうエンディング、ぼくは書けないので憧れる。謎のままにしておくことで、それ以上の描写を不要にする見事な結末。クエスチョンマークをはめ込むためのすごくよく出来た窪みが用意されてる。皆はめ込め!

一種の人間讃歌とも呼ぶべきチェリスト・夏美と映画監督・モレッリの交流は、作品の顔と言えるけど、エピローグで明示されるメッセージには敢えて触れないでおきたい。コーヒーを愛する人それぞれが考えればいい問題なので。


大金星 (アフタヌーンKC)

大金星 (アフタヌーンKC)

黒田硫黄は『茄子』しか読んだことがなくて、他に何を読んだ? と訊かれても、『エキセントリクス』で解説書いてましたよね、というあんまり重要じゃないことしか言えなかった。
そんな折、友人に『茄子』を進めたところ大ハマりした。友人はガンガン黒田作品を揃え、ついに「黒田作品の中では『茄子』は異色作だ。お前ももっと読むべきだ」とぼくに発破をかけてきた。何糞と読んだのが『大金星』だった。

どの話も好きだけど、「ミシ」と「居酒屋武装条例」がずば抜けて好き。前者は作画のダイナミックさが、後者はシンプルなかっこ良さがそう思わせる。

「ミシ」は小市民・窪田と未知の隣人との交流を描く6話仕立ての短篇だが、もはや文化人類学の域。想像力が豊かすぎる。こういう豊かさの前に、数多のブロガーは屈服する他ない。説明するとつまんなくなる、恐ろしくアレな発想に満ちているからだ。迫力だけで圧倒されて笑い、追いついてくるナンセンスさとか唐突さに笑い、とにかく初見でゲラゲラ笑ったあの時が懐かしい。記憶をなくして読み返したい。そういうマンガだからみんな読んで下さい、とぼくは言うしかない。
エンディングというパートは、作品が持つ時間の物理を総括しなければいけないけど、「ミシ」のラストは見事。一気に作品全体を鳥瞰できる。

「居酒屋武装条例」は一種のディストピアもの? 銃犯罪の増加に伴い、飲食店が自衛のための武装を許された日を描いた作品。間の抜けたやり取りと、しっかり描き出される銃の威力・恐ろしさのミスマッチが完璧。
そして輪をかけて話を面白くするのが、これでもかというほどカッコイイ女性店員・たまこの存在。こういうブッちぎれたカッコよさをもっと見たい。こういうのってマンガならではだ。人間の芝居が介入しないからこそ生まれる、無条件の「映え」。
黒田作品のカッコイイ女性たちは皆、カッコイイ上に可愛かったり、コマによってはちょっと不細工だったりする。それがイイ。よく「古谷実の描く女の子って、まさに男が作った身勝手な理想っぽくて可愛いよね」と言う輩が多いけど、ぼくは黒田硫黄派っすね。断然。


海街diary 4 帰れない ふたり(flowers コミックス)

海街diary 4 帰れない ふたり(flowers コミックス)


吉田秋生は全部揃えてるんだけど、コレクト欲を抜きにしても「海街」は揃えたいですね。
コレは続き物なんで特に説明しないけど、とにかく度肝を抜かれたのは、大ゴマでも何でもない何気ないコマで「今まで食べた一番ウマいもんって覚えてます?」と切り出される、幸とヤスの会話。
例えばよしながふみから離れられないのって、彼女もこういう表現を使うからなんだけど、エピソードとして何気ないのに、人間の生活の大事な部分をコンパクトに描き抜いてしまう手法は、少女マンガじゃないとお目にかかれない。よしながが憧れてるっていう、くらもちふさこなんかはまさにそう。『いろはにこんぺいと』の「あそこの土だけは踏まないもの」とか一生忘れる気がしない。
最近の少年誌の作品が好きになれないのはそういう余裕が無いから。設定を説明してますよ・新キャラ出してテコ入れしてますよ、と分かってもらおうとするだけで精一杯、って感じで。ジャンプ作家でも、森田まさのりとか鈴木央とか『アイシールド21』とかを読み返したくなるのは、結構遊びが挟まってたりするからなのかな……。

吉田作品でいう《遊び》って、これまでは例えば流行の音楽だったり映画だったり、ややメインストリーム寄りだったり、バブリーだったりした。『カリフォルニア物語』ではサイモン&ガーファンクル、『河よりも長くゆるやかに』ではユーミン……。時折、いきなり万葉集とか近松門左衛門とか、サッフォーの挿話とかブチ込んでくるのも味なんだけど、とにかくどんな引用も洗練されていた。『BANANA FISH』なんか、当時でいうソフィスティケイテッドな雰囲気がそこかしこにあった。
ぼくの周りには、『BANANA FISH』後半〜『イヴの眠り』という、ちょっとSFを絡めたサスペンスに食傷を起こしていた人が多い。ぼくは『吉祥天女』から入って、短篇に手を出しながら一連の作品を読んだので、特にヘキエキはしなかったけど。
海街Diary』シリーズのバランスの良さっていうかムダのなさは、キレが良すぎる。サスペンス作品のタメとかヤマとかの表現にはなかった魅力に満ちている。ぼくからすると、恋人との自然な別れとか、「うちのカレーの起源」とか、そういう描写にこそ真に迫るものを感じるし、なおかつ心に沁み込む感動を覚える。例えば上で挙げた「食べ物の記憶」の話は、角度を変えて見てしまえば心底地味なんだけど、そんな読み方は到底できない、面白い描写によってシーンが完成されてる。何度も読み返してしまってる。