キャベツは至る所に

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『ドリフト』

 山とも森とも呼べるところに踏み入ってからしばらく経つのに、全然動物を見つけられないでいる。このあたりの土地に、最後に雨が降ったのがいつだか知らないが、土がぬかるんでいて、革靴の底が滑る。こんな所を歩く格好ではない。望ましい装備ではまるでない。背広のまま、木立の中に入らねばならなかった。準備を怠ったのではなく、単に猶予がなかった。この町での仕事は済ませていた。あとは高速に乗って帰ればいいだけだった。それも職場にではない。直接、家に。
 なぜか歩みは進んだ。木々が作る影は涼しかった。影の土は湿っていた。湿り気は汗を引かせた。
陽は空に高く、立ち込める涼しさを食い破るようにして熱が匂っていた。それを嗅ぐと喉が渇いた。背広を脱ぎ、ネクタイを取る。袖をまくると裸の腕に影が冷たく触って、気持ちが良かった。背広もネクタイも捨て置いていきたくなったが、そんなことをしては土地を汚すと思った。基本的に来訪者は土地を汚す。浄めることをしない。見苦しいものだ。そういう輩の仲間入りはしたくなかった。背広を抱えた腕が汗をかくのが分かる。服の生地が、葉陰に断たれたはずの日光の熱を汲み上げて、肌に込めようとしている。影の中を歩きながら、自分の体の中程に熱を篭らせている。ばかばかしかった。しかし今よりばかばかしい行いに身をやつしていた時間が、これまでの人生にどれくらいあったか。これぐらい、何だ。
 前へ前へと進んでいるつもりが、気が付けば上へ上へと傾斜を登って、しゃにむに山頂を目指すような足の運びになっていた。山へ来たのなどいつぶりだろうか。子供の頃のことは一つも覚えていない。物語に仕立てて喋れるようなことは、本当に、ただの一つもない。思い返してみても、固有名詞しか出てこない。作文に使った本の題名や、何人もの友達の名前が、いくつも頭に浮かびはするが、そこにくっ付いているはずの表紙絵や人の顔が一つも出てこない。自分の思考が、記号や数字だけしか使わずに人生をやりくりしてきたような気がしてぞっとする。しかし周りを見回してみると、名前を知らない木が群生している。ああ、単に法律の違う世界が隣り合っていて、自分は自分の世界の法律に準じて生きてきたわけか、という気になった。足はその間も止まらなかった。我に返ると、膝が笑い出す。疲れている。仕事が詰まっていたから、ここ半月ぐらい、思うさま寝た覚えがない。しかし足の疲れが増すにつれ、眠気が強くなりながらどこかへ遠ざかっていく感じがした。ひと度それを捕まえれば、夜の草のようにしっとり深く眠れようと思うが、どうにもそれができない。歩くなら今のうちだ。
しかし動物を見ない。ここにどんな獣がいるか分からないが、虫ぐらい見てもいいはずだった。もう人が半袖を着て出歩く時節で、蝉だって少しは鳴き始めていいはずなのに、こんな山の中でさえ声が聞こえない。虻だの蜂だのが唸ることもない。肌に冷たいものを感じて、毛虫か蛭かと思って目をやっても、汗の大粒が滑っているだけだ。きっと彼岸に来てしまったんだと笑って歩くことにした。死後の世界とあからさまに言っては興が削がれる。そんな大それた越境を、こんなに簡単にできてたまるか。皆がいるところから誰もいないところへ、転がり出てしまった。それだけのことだ。
 ここは何という山だ。これは何という木だ。問うても答えはないのがたまらなく快かった。対話をしたくない。ただ歩いていたかった。体を巡るものに気をやると、いっそ清々しいほど疲れしかなかった。熱くも冷たくもないものが、流れも蠢きもしないまま、徹底的に体を充たしていた。切り取ることも押し伸ばすこともできそうにない。手を加えられない強力な維持が始まっていた。座り仕事でなまった体には、少しも余裕がなかった。だからこそ、話し相手のいないことがありがたかった。自分の疲れを一人で扱うのは、大した手間ではない。
吸った息が胸に渡ると、体の芯から皮膚へと雨が注ぐような潤いを味わう。植物に囲まれているということは水に囲まれているということなのだと分かった。しかし喉は渇いていた。しばらく体はもちそうだが、どこかで水を飲まないといけない。湧き水でもあればいい。泥が混じっていようが飲もう。人に出くわすことはなさそうだった。この山を見上げたとき、目に映ったのは木の葉だけだった。道が見当たらなかった。重機や、鋸の音もしない。木を伐る人はいないのだろう。しかし野草を採るとか、鳥獣を愛でるとかで、山に入る人がいるかもしれない。人に見られたくなかった。間違いなく引き止められるだろう。命を落とすぞと咎められるかもしれない。別に死にたい気持ちでいま歩いている訳ではなかったが、誰かにそう諭されたとき、構いませんよと返事をしそうな自分に気が付いた。もしそんな返事をしたなら、狂っていると思って放っておかれるだろうか。相手にちょっとした想像力や優しさがあったなら、自暴自棄になった輩と思って優しく扱ってくれるだろうか。無関心とお節介を天秤にかけたが、どちらがありがたいかは分からない。
 心の底から生きたいと思ったことはない。しかし、どうにかして今すぐ死にたいと思ったこともなかった。皆そんな風にして生きているのだと、いつからか思って暮らしてきた。天才というのは、生きたいとか死にたいとか心から思って、何かに打ち込んだ人間のことだ。自分は違う。大抵の人も違う。
 もしかして、凡才である自分を振り切ろうと、いま歩いているのだろうか? 何だか真理めいた発想だったが、言葉の思いつき方が、あまりに素直で明確だった。疲れが考えを単純にしている。論拠もなければ願望さえ伴っていない。どうしたって信用できない言葉だった。裏付けのない主張に身を預けることはできないし、感情抜きに捧げられたものは特別でありえない。
傾斜の草に足を滑らせて、左膝が土に着いた。服を抱えていた左手を使わないと転がってしまう。一旦は手で姿勢を保ったが、そうしてしまおうかと思っただけで手の力が抜けて、腕は簡単に折れ、その場にうずくまる格好になった。顔が地面に近づき、草や土の濡れたにおいを濃く感じた。肘や膝を使って体を支える気も起きなかった。ゆっくりと横に倒れ、脇や腹が地面に触れる。土は冷たく柔らかかった。そのために服の生地は汚れただろう。そんなことはどうでもよかった。体の不如意が何にも勝っていた。疲れというものをこんなにありありと感じたことは今までにない。学校で長い距離を走らされた後の、爽快感のようなものはこれっぽっちもない。あれは、走れば終わりだったからだ。今どんなに疲れ切っていたとしても、決して終わりなどではない。終わりがあるかも分からない。疲れとは癒されるべきものだが、その快癒の後にあるのは結局仕事だ。今、疲れを取るためのものもなく、いつ終わるともしれない道程を前にして、気持ちよくなれるはずはない。
 息が整わない。どうしても呼吸が浅くなる。少し苦しくても、息を深く吸い、ゆっくりと吐くようにした。なかなか落ち着きはしなかったが、そうやって心がけていると、葉擦れの音がよく聴こえた。山や森は自分の出す音を聴いているだろうか。止めようのないこの広く大きい葉擦れの中で、ぜえぜえ言っているこの人間の動悸や呼吸が、山とも森とも馴染まない体温の中から漏れ響くのを、山も森も聴きたがらないだろうか。口の中が粘つく。
 ついに呼吸は落ち着いたが、それと同時に短い眠りに落ちていたようだった。眠りというより、瞬きをしている間に五分か十分経ったような感じだった。携帯電話を見て、時間を確かめたが、そもそも最後に時計を見たのがいつだったかよく覚えていないので、眠った時間を推し量るのは難しかった。足の疲れは取れるべくもなかったが、意識はずいぶんはっきりした。体にがたが来るまでは歩けるだろう。思ったより楽に体は起き、二本の足は立つのも歩くのもこなした。盲滅法に歩くので、いつの間にか足が傾斜を下っていることもあったが、そもそも頂上を目指していたわけではない。到着するということを一切考えず、足が向く方へだけ歩いた。
 数えきれない木だ、数えきれない葉だ。数えようのない森だ、山だ。汗が冷えたせいだけではない、確かで素早い寒気が、体の中となく外となくを走り抜けて、その後を震えが追いかけた。もはやこの体を動かしているのは自分の心や筋肉だけではあるまい。肉は呪われてしまっている。骨は魅せられてしまっている。何かを続けることは難しいと誰もが言う。そうだろうか? 始めることと終えることこそ何よりも難しく、続ける最中こそ人間は一番楽をしている。辛いのは継続ではなく反復だ。特に見返りのない反復。この森に、この山に、始まりがあっただろうか。舗装路から歩み出て、木陰に入ったあれが始まりか、傾斜を踏めば山への入り口か。
 日が傾き始めたせいか、それとも人里から離れたせいか、涼しさが強まっている。涼しさが気になり出すと、陰と自分との隔たりが少し狭まる。木の皮に、草葉の下に眠っていた陰がまったく緩やかに這い出てきては、日の出から今まで蓄えられていた熱という熱を食んでいく。こうして昼は夕になり夜になる。日が陰っていく。茶色の木が黒く見え、緑の草が青く見えてくる。今、こうして色合いを変えていくのは本当に植物なのか。光や風が、冷えて変色したのではないか。光量の具合で色が違って見えるという気がしない。今まで見ていたところに違う色が混じりだしたようにしか思えなかった。
 ついに踏み込んだのだろうか。ここに来たかったのかもしれない。初めてそう思った。自分の求めている場所がこの森には、この山にはあるのではないか……それは頂上のような極端な地点だろうか、それとも、森という一つの範囲のいちばん中心、そのただ一点ではないだろうか、それとも、何の変哲もない何の目印もない、しかしそれに相応しい唐突な地点こそがその場所なのではないか……そう思って歩いてきた。
それはきっと天然の場所だった。人の手の加えられていない景色。人知の及ばない造形。利便が付帯されていないありよう。それは特別美しいわけではない。人が美しいと思うのは人の業だ。人が人の美にすり寄ったものや、人が人の美を貫こうとしたものからこそ、美しさは感知される。いま目にしている光景に美しさは感じなかった。感じたのは抗いがたい安息だった。ここには人がいない。植物しかない、土しかない、菌や微生物しかいない。永らえよう、生き延びようというだけの単純な力だけが溢れ返っている。情報を放たない生だ。意図がない。衒いがない。だから生きろとも死ねとも指示を受けずにいられる。静けさとは無音のことではないのだと思った。今、とても静かだ。独りの静けさだ。空間を満たす轟音の中に一粒の意味も含まれていない、それを自分が反響させてもその音を誰も聴かない、たった独りだから感じる本当の静けさだ。
 独りであることを諌めようとするように、せめて代わりに幻を見ろと体がせっついてきた。耳を澄ますと声が聞こえるのではないかという気になった。泣いたらすぐに誰かが抱いてくれる気がした。人の気配も察知できない独りの地点で、自分に向けられているたくさんの愛をこの眼に見ているような気がする。それが不気味だった。底なし沼に自分の精神が沈んでいくのを、体だけが見ているような心地。このままでは取り返しがつかなくなる。理性は狂気を制御しようとするが、狂気は理性を駆逐しようとする。理性の足場を命懸けで支えても、狂う恐れからは決して逃れられないのに、狂気の跋扈をひとたび許せば、理性は根絶やしにされてしまい、回復の望みの一切は消え失せる。今、趨勢が決まりかねない。闇が濃くなるにつれて、自分の中にある闇と同じぐらいなめらかで手の施しようのないものが強まっていく。そうだろう、お前の言う通りだろう。誰も近くにいなければ生きていけないだろう。しかし独りになりたいのも本当なんだ。
 歩く。先へ行く。いま実際に独りだが、もっともっと独りになりたい。人はこの歩みをこそ気狂いの所業と言うのかもしれない。しかし人の目は今ない。人の声は今ない。自分独りなら正気も狂気もない。あんまり気が楽で、思わず笑った。狂っているかという自問に答えが出せないのはいつでも同じだった。夜になろうとしていた。月も星も見え始めた。ここからは沈んだように見える太陽から、月は確かに光を受け取り、月と同じような輝きでもって疲れと眠気が冴えかかっていた。