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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

Alfred Beach Sandal について

音楽

まずもって、ぼくはアルフレッドビーチサンダル主宰、すなわち北里彰久の音楽が大好きで、ファンとして屈服さえしている。音源がリリースされたなら発売日に買いたい。予定が合う限りライブに行きたい、っていうかつまんない用事なら蹴っ飛ばしてライブに行きたい。アルフレッドビーチサンダルはそういうミュージシャンだ。
2012年の冬、仲原達彦 a.k.a. サンキュータッツさんの主催したTOIROCK FESで初めてライブを観て以来、そういう気持ちだ。そのあとすぐに、もうその時には手に入らなくなっていたアルバムを先輩から借りて聴きまくったりした。
惚れたのはリズムだった。『Mountain Boys』や『中国のシャンプー』を聴いて、これはぼくの知らない日本語だと思った。捉えどころのないリズムの中で、日常的な用法からはかけ離れた形で言葉が連なり、それが美しいボーカルでもって歌われる。特に『One Day Calypso』の曲に関してはその魅力がほんとに強くて、この人は現在進行形で活動を続けるミュージシャンのうち、ものすごく新しい音楽をきっと聴かせてくれる人だろうと信仰してしまった。2013年はのべつビーサンのCDを聴いたし、弾き語りのライブもバンドセットのライブも観に行った。同一ミュージシャンを複数回観た回数で言えば、2013年はビーサンが一番になる。

そんなところにニューアルバムの発売と、レコ発ワンマンだ。ワクワクしないわけがない。しかも会場は渋谷WWW。昨夏にも、オシリペンペンズヒカシューとの3マンをWWWで観ていたので、ビーサンと会場とのミスマッチがないのは知っていた。
しかし、あそこまで素晴らしいワンマンライブになるとは思わなかった。きっと期待以上になるだろうと勝手な期待をして行ったら、それを上回る感動をしてしまった。
正直に言うと、ぼくにとってのビーサンのベストアクトは、トイロックでの演奏だった。それ以後に観たライブもいちいちとんでもなく面白かったが、出会いの衝撃が下駄を履かせてしまったこともあるかもしれない、最初に観た時ほどの感動を覚えたことはなかった。あれが現在のトリオ編成での初めてのライブだったそうなので、もしかしたらお三方がこんな感想を聞いたら、「『花鳥風月』が一番いいよね」と言われたスピッツのメンバーのような気持ちになってしまうかもしれない。ごめんなさい。でもあの日も最高でした。そして昨夜のワンマンは、それに勝るとも劣らないぐらいに。様々な編成で活動した末に、北里さんが「最強のリズム隊」と呼ぶ二人を見つけ、その編成でライブをしてアルバム(『Dead Montano』)を作り、そのレコ発であるだけあって、スキがなかった。
『Dead Montano』からも全曲やったし、それ以前のアルバムからもたくさん曲を持ってきた。ファーストの『キャンピングカーイズデッド』や『US&A』があんな風にリアレンジされてトリオで演奏されるとは思わなんだ。『キャンピングカーイズデッド』は現代音楽におけるひとつの奇跡だと思ってるので、原曲を上回るとまでは思わなかったのだが、軽快なんだけど複雑極まる展開には恐れ入ったし、その直後の『US&A』は同じニュアンスの展開がより一層マッチしていた。原曲にもあるどんどん昇りつめていく感覚が強調されていて、これファンクバンドみたく5分ぐらいのセッションがラストに入ったらエクスタシーに到達すると思われるぜなどと思いながら踊っていた。
途中でリズム隊の二人がはけると、北里さんによる弾き語りが挟まり、またメンバーが戻ってきてバンドセットでの演奏……という構成もあって、本当にワンマンの中でビーサンの音楽を堪能できる夜だった。

おおげさに言おうというつもりは全然ないけど、本当にライブを観ているその最中に「ああ、音楽って面白いなあ」と心底から思った。重々承知しているつもりだったが、とにかく、岩見継吾(ウッドベース。ex.ミドリ、Zycosなど)、光永渉(ドラム。ex.チムニィ、ランタンパレードなど)のリズム隊がぶっとんでる。『仕立屋』の間奏なんて、コレ二人とも譜面通りやってるんだったら本物の変態だぜと思うぐらい、複雑かつデタラメに聴こえた(帰りしな、北里さんのインタビューを読んで知ったが、岩見さんは前のライブで弾いたフレーズをすっかり忘れるプレイヤーであるらしい。ぼくがヤベエと思ったパートもアドリブだったのかも)。
今のビーサンの編成の面白い所は、北里さんがコードを鳴らしたりアルペジオを弾いたりすることが曲の基底になって、むしろ活発に動くのがベースやドラムである所だ。拍子が何だか変わっていて、ギター自体のリズムが面白く聴こえてくる時だってある。でも、光永さんは淡々とリズムを刻んでいたと思ったらものすごく唐突に連打を入れたりするし、岩見さんは岩見さんでいきなりエフェクター使ってとんでもない音出したりするし、またその変化が基本となるリズムを崩さないまま訪れるのだ。
WWWのような天井の高い会場でやられると、そしてそれを一段目、つまり一番天井から遠いフロアで観ていると、まるでプラネタリウムを見るようにステージを眺めることになった。一個の星座が消えて別の星座が輝きだすように、ある瞬間にリズムパターンがガラッと変わる。もちろん音源通りじゃないこともザラだ。概ねの曲では、北里さんの歌とギターが音源からかけ離れていないだけあって、その変化に受ける印象の違いが明確になる。よく知ったメロディに新鮮なビートが掛け合わされると、その曲の今まで知らなかった表情が浮かび上がってくる。そんな瞬間が何度もあって、そのたび「音楽って面白いなあ」と思った。

ここで少し、最近は光永さんも参加しているceroと絡めた話がしたい。
ceroを初めて観たのは、2012年の春に催されたTOIROCKだった。(開催のあいだに間があったとはいえ)ビーサンと同じイベントで知り、ビーサンと関わりのあるバンドだと後々知ったからか、ぼくにはずっとceroビーサンの間に何らかの繋がりを感じていた。実はそれは単純な話で、彼らは両方とも黒人音楽を演奏することについての意識を強く持っているバンドだ、ということなのかもしれないと、昨夜思った。
いま流行っている日本のロックバンドが「洋楽は意識して聴いたことない」「自分たちの素地は、少し上の世代のロキノンバンドに作られた」と発言することに対して、ぼくは批判的だ。洋楽を手本にしたからって偉いわけでは全くないが、〈《自分たちのルーツになった音楽》を形づくった音楽〉を聴こうと思わないことが信じられないのだ、単純に。何ならもう一段階だって二段階だって、彼らは世代を遡って音楽を聴ける年齢なのに。ぼくが音楽にせよ何にせよ、新規開拓することを一生やめたくないと思うのは、結局「自分の知らない所に、今の自分のベストテンを別物にしてしまう何かが隠れているかもしれない」という期待による。世の中には「名作」が溢れかえっていて一生かかっても補完はしきれない。音楽なり何なりを愛していれば、それはそのまま生きる希望だ。音楽について言えば、タテとヨコのつながりから趣味を広げていくのが容易な分野なのだし。
そうしてバンドサウンドのルーツを探っていくと、アメリカの黒人文化に行き当たらないわけはない。ジャンルを「ロック」と絞っても、どうしたっていつしかビートルズにぶち当たる。そして近田春夫なんかも言ってた記憶があるけど、初期のビートルズは「黒人になりたい」という音楽、いわばチャック・ベリーとかのコピーだった。
ロックはカウンターカルチャーだった。ロックバンドはある種のテロリストだった。全部「だった」だ。少なくとも、日本の少年少女がバンドを組む場合、当節その多くが「オシャレ」の一語でひっくるめられていき、そこに反骨とか無頼みたいな美学はない。もちろんその傍らで、オーケンのようにバンドを結成するマニアたちもいまだにいる。それらのバンドは思想的に対立するかもしれない。作品やライブを見比べたら、何か二極的な関係にあるように映るかもしれない。でも、どっち側の人間にしたって、好きで始めた人間は絶対にどこかで「音楽をやるのは楽しい」と気付くはずだ。音楽は楽しい。合奏はなお楽しい。流行音楽における合奏のいちばんポピュラーな形がバンドを組むということだと、そう思う人には、ルーツである黒人音楽をちょっとかじってみてほしいと思う。そこにはむやみにスケールのデカい懐かしさとか、野趣に溢れた味がある。誰しも好きになれるなんてことはないけど、そのテの音楽を聴くなら一回通ってほしいと思う。ぼくが10年ぐらい前はヒップホップを聴いていたので過敏になっているところもあるかもしれないが、現代において音楽をやるにあたって、黒人音楽に敬意を払うことはプレイヤーの必須条件のひとつぐらいに思っているのである。音楽においても、ザ・グレート・ジャーニーってもんがあるんじゃないかと。
ceroにしても今のトリオのビーサンにしても、本当に楽しそうに演奏をする。彼らに惚れ込んだのはそれも大きい。バンドが仲良しである必要は別にないけど、演奏が好きなのだと表情から伝わってくるバンドを見るのは、音楽が好きなら誰だって嬉しいし、そういう人たちの音楽は無条件に信頼できる。愛らしいものだと思える。ビーサンの三人は全員、別の活動の場を持っている(oono yuukiがバンドでのライブ活動を休止したので、ビーサンのキーボードはしばらく聴けないかもしれないが)。彼らはプロのミュージシャンだ。オファーされて「やろう」となった仕事も多いはずだ。でも、イヤいつ観てもそうなんだけど、今のトリオは三人とも、本当に屈託なく笑う。昨夜もそうだった。岩見さんと光永さんが頻繁にアイコンタクトをしては笑顔になる。彼らがお互いの人格をどう思ってるかは知る由もないし、知る必要のないことだけど、あの表情は彼らがお互いの音楽を好きでいる証拠だとしか思えない。
今の日本のインディシーンの風潮でもあるようだが、ceroのメンバーは、ひんぱんに楽器を持ち替える。ボーカルの高城晶平がベースを置いてギターを弾いたり、フルートを吹き始めたりする。キーボードの荒内佑がギターを持ったりもするし、特殊サポーターとしてceroを支えてきたMC.sirafuやあだち麗三郎もマルチプレイヤーだ。何度彼らのライブを観ても、ぼくには彼らが、より音楽を楽しむために色々な楽器を習熟しているようにしか見えない。
だからぼくはビーサンceroの音楽が好きなのだ。


いいかげん、昨夜のライブの話に戻ろう。
新曲を聴いていた時のこと。「サルガッソー」とか「ペーパームーン」とか「ドン・キホーテ」とか、独特なニュアンスを含む言葉をふんだんに使っているのに、どうしてか、これという情感が伝わってこなかった。これはビーサンの歌を聴いていてよく思うことで、例えば「ニジマスの鱗に反射する夏の太陽 七月の背中に八月が張り付いているよう(『Finally Summer Has Come』)」とか「迷子の子供だけが立ち止まり今宵の喧噪の目撃者となる(『Night Bazaar』)」とかいう抒情的で印象に残るフレーズはたくさんあれど、それが言葉以上の意味をもって伝わってくることがないのだ。
Phew七尾旅人の『わたしの赤ちゃん』を歌った時に感じたことと似ている(これもTOIROCK FESでのことだ。本当にタッツさんには足を向けて寝られない)。あの曲には「今にこの子はしゃべるわ 魔法の言葉を」というフレーズがあり、これを七尾が歌うと祝福に満ちた美しい一節になるところなのだが、Phewが歌うとものすごくのっぺらぼうな、痩せた言葉の並びに聴こえた。これはもちろんほめ言葉だ。そんなこと誰もができる芸当じゃない。歌詞が書かれた瞬間に孕んだものを、ボーカルが漂白してしまっているわけだから。
マカロニウエスタンで始まったかと思ったら、不自然な継ぎ目のないままデジファンクみたいになっていく、昨夜のビーサンのあの展開の妙は、上記のリズム隊が具体化してるのかなと思うんだけど、何よりあのビーサンの嘘っぱちの世界観から成り立っているんだと思う。
以前友達にビーサンを勧めた時、口をついて出た形容に「嘘のモンド」っていうのがあったんだけど、今ならもっと自信をもってその言い方を遣える。ぼくはビーサンの歌に感じる嘘が大好きなのだ。言葉が自然に帯びたはずの力を奪った上で繰り広げられる物語、つまりメッセージもバイアスもない真摯なフィクション。人間は想像力を使ってしか物を言えない、真実を真実のまま他者に伝達することなどできないのだ、という絶望的な事実を突きつけながら、「でも面白いことっていっぱいあるよな」というホニャッとした真理をポジティブに見つめることも、その世界観の中に含んでいる。
『Dead Montano』の収録曲、『Coke,Summer time』や『モノポリー』にそんな魅力が色濃く出ている。TOTEでのインタビュー⊂[TOTE | INTERVIEW | Alfred Beach Sandal ](すばらしい記事。ビーサンやDead Montanoを面白く感じた人なら必読)や、ライブ特典として配布された新間功人による地獄インタビュー(レイアウトが狂気じみてるが内容が濃くて熱い)でも語られているが、『Coke,Summer time』は「梅雨明け直後の晴れた日に自転車で走ってた時に感じた、マリオでスターとった時のような感じ」から着想を得て詞が書かれたそうだ。人生単位で見たら一瞬だけど、確かに誰にも経験しうる無敵時間。それを切り取る視線、それを「なんか調子いい雰囲気ッスね今日」なんてサラッと歌える力加減。過剰な力みがないスタンスだからこそ、レゲエとかボサノバのようないわゆる南国調の楽曲と、どうにも抹茶のように日本的な渋味のする歌詞が合わせられるのかもしれない(『typhoon sketch』の歌詞なんか、ほんと日本語詩としていいなあと思う)。『モノポリー』にしても「億万長者の僕らにはもう人生なんて優雅な暇つぶし」という一節があるが、曲を聴けば分かるように、これはモノポリーやってるだけの歌で多分「億万長者」ってのもモノポリーの中での話だ。それなのに「人生なんて……」ときたもんだ。初めて聴いた去年の5月からずっと「この嘘すごいな」と思っている。

でも『One day Calypso』〜『Night Bazaar』〜『Dead Montano』という三枚のアルバムを聴いた限り、どんどん歌心みたいなものがあらわになってきたというか、聴き手をセンチにさせることについてのためらいみたいなものがなくなってきていると思う。ファーストに入っている『Finally Summer Has Come』なんか別の曲のようだ。アルバムではシンセっぽい音と一緒に訥々と歌われるのに、最近のライブでの弾き語りだと、本当に切なげに歌い上げられる。夏の夕間暮れなんかに野外で聴いてたら泣くかもしれない。
昨日の最後に歌われた新曲、「私の好きなものには名前がない」というような意味の一節があったのが印象的だった。あの人が歌おうとしているものには、本当に名前がないかもしれない。北里さんが歌って、ファンや批評家がやっと名前をつけるものかもしれない。
『Dead Montano』の特典の一つに、北里さんが10代のころに作っていたという音源のCD-Rがある。「糞音源集」と銘打たれたそのRだが、ぼくはクソとは思わなかった。ずっとリピート再生して聴ける(ギャグとしてしか聴けない所もあるけど)。昨夜のMCの中で「やってる時はいつでも、あーコレしかねーって思ってやってるけど、あとで振り返ると自分でも謎なんですよ」という言葉があった。確かに糞音源集は、Alfred Beach Sandal名義の音楽からものすごく乖離している。彼の音楽は一つの理想を目指して変形していくタイプのものじゃなくて、発明の連続のなかで何かことのほかヤバいものを生み出すタイプのものなんだろう。ぼくはその発明に興味がある。資産があるなら援助をしたい。そういえば錬金術師は貴族をだまくらかして研究資金を調達していたらしいけど、あんなに素晴らしいワンマンを見せられたら、嘘を感じていようがいまいが「ビーサン、金、作れるかも」みたいに思ってしまうね。