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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

ごく私的な2011年3月1日の足取り

休日だった。バフマン・ゴバディ監督の二本立てを朝イチの回から観ようと、高田馬場早稲田松竹へ赴いていた。『亀も空を飛ぶ』も、『ペルシャ猫を誰も知らない』もすばらしくて、家に帰って夕食を作ったら、気合を入れて感想を書くつもりでいた。
二本立てを朝から観るスケジュールの短所は、昼食のタイミングを逸することだ。上の二作はどちらも2時間足らずで、午後2時前には映画館を出ることができた。番組によっては3時を回ることだってある。近場でメシを食って帰ろうと思って、看板だけは見たことのあった「ファミリア」というスペイン料理屋に入り、イベリコ豚の生姜焼きを頼んだ。生姜醤油の匂いに負けない肉の香りが感じられて、おいしかった。目をみはるほど安くはない店だったが、店内でフラメンコを観ながら飲める店らしく、誰かを誘って飲みに来ても面白そうだなと思った。
ファミリアはこの翌月に閉店している。
駅前の通りに面したビルに、芳林堂書店が入っている。そこにも初めて入ってみたが、以前入った駅向こうの書店よりもよっぽど品ぞろえが良くて、地元では手に入りそうもないマンガを見繕った。手持ちがあまりなかったので、『娚の一生』の1巻を諦めて、新井英樹『Rin』の1、2巻だけを手に取った。

そのとき初めて揺れを感じた。間違いなく地震だと思った。店内に吊られたパネルが揺れていたし、周りの客さえ「地震?」と口走っていた。レジに向かおうとしたが、揺れの収まる気配がない。ようやく、普通の揺れとは呼びがたい、と思った。レジよりも非常口の近くにいよう。その方がいい。
しばらく立っていた。階段を降りるのを躊躇する人がいて、その背に作中のセリフを方言に直した『3月のライオン』のポスターが貼られていたのを、妙に鮮明に憶えている。ポスターに気付くや、揺れが強まったためだ。
新宿区で観測された揺れは、震度5弱のものだったらしい。女性の弱い悲鳴と、男性の楽しげですらある「おお」という声が聞こえた。ぼくも危機感を覚えて、その場にしゃがみ込んだ。誰もがそうしていた。ビルの中の誰もがそうしていると思った。悲鳴の方を見ると、母親であろう女性が、小学校低学年ぐらいの男の子と身を寄せ合いしゃがんでいた。体感したことのない揺れがわずかに死を予感させて、「俺はと言えば死んだら一人だ」と思った。何人か、会いたい人の顔が浮かんだ。
程なく揺れが収まり、書店員の方の誘導のもと、階下に降りて、非常口から外に出た。外に出るのは、ものすごく恐かった。周りの風景が様変わりしているかもしれない。壁や割れた窓や看板が落ちて、誰かが血を流しているかもしれない。人がごった返して、救助どころではないかもしれない。どれだけ想像しても、それ以上のことが起きているかもしれないと思うと恐ろしかった。
幸いにも、それは杞憂だった(少なくとも高田馬場の周辺では)。しかし、人は歩道に溢れかえっていた。高田馬場で見たことのない人口密度から、非常の事態であることを肌で感じた。
すぐそばにあるのを知っていたので、多くの人が既にそうしていたように、戸塚第二小学校の校庭に落ち着いた。生徒が保護者に迎えられるのを眺めながら、仕事も年齢もばらばらの人たちがグラウンドに座り、余震の揺れを感じるたびに木や遊具を見て揺れの程度を計ろうとした。
持っていたデジタルウォークマンで、NHKのTV放送の音声を聴くことができた。東北の被害が甚大であることを知り、またマグニチュード7.9との初期報道に驚かされた。「東京マグニチュード8.0なんてアニメがあったな」などとのんきなことを考えていたが、まさか翌日、翌々日とその値が上がっていくとは思わなかった。アナウンサーが、津波によって船が桟橋に叩き付けられる様を必死に口述するのを聴きながら、漠然と、本当に何の考えも衒いもひとつもないまま漠然と「この先どうなるんだろう」と思った。電話もメールもろくに機能していないと分かってはいたが、当時まだ赤ん坊だった甥っ子のことが気になって、兄嫁に安否を気遣うメールを送った。
しばらくして、東西線の駅の様子を見に行くと、まず汚水の臭いが鼻を突いた。改札の前で、駅員がどこかから漏れ出した水を掃いていた。案の定、東京メトロの全線で運転が見合わされていた。JRの運行状況は確認する気にもならなかった。
駅から地上に出ると、一度にたくさんの人からメールが入った。滞っていた流れが解放されたのだろう着信の仕方だった。兄嫁からも無事を知らせる返事をもらった。ぽつぽつと返信を行ないながら、Twitterにもアクセスしてみた。それまでのメールでのツイートがまともに反映されていなかったので、直接ツイートを行なって、都内にいながらも無事であることを主張した。 すると同僚から、新宿で孤立しているとのリプライが入った。どうせ埼玉には帰れそうもないのだ、一人でケータイのバッテリーを消費し続けるなら人と話そうと思い、新宿まで小走りで向かった。
東南口のGAPの前で同僚と合流して、ひとまず座れる場所を探そうとまた歩いた。西武もらんぶるも既に閉店していた。うろうろした挙句、靖国通り沿いのHUBに入ったところ、席に余裕があったのでしばらく居座った。ハッピーアワーだったので、気晴らしに少しカクテルを飲んだ。いま思うと何がハッピーアワーか。
モニターには、当然ながら震災の映像が映し出されていた。このとき初めて、ぼくは災害の模様を目にしたことになる。 阪神大震災を思い出していた。青灰色の夜明けの中、街が崩れて燃えている様が空撮されていたあの様。埼玉の小学生からすると、あの映像は現実味を欠いていた。今回は違った。ぼくが揺れを体感し、その影響で電車が停まって難儀しているこの現象は、多くの街並みを海水に襲わせて、沿岸地域の製油所を爆発させたのである。ぼくの感じた比較的微弱な恐怖と地続きのところに、凄まじい悲劇がある。そんな中でぼくは家に帰れるか分からずにいる。
TVの報道を観ていて、電車の復旧は望めそうにないと分かった。二人のケータイ(というか主に彼女が持っていたスマートフォン)を頼りに宿泊先を探したが、タイミングが遅かったせいも場所柄のせいもあるだろう、既にシティホテルはどこも満室だった。うまいものを口に入れないとめげそうだったので、サダハルアオキでラスクかなんかを買って、歩きながら食べた。長いこと新宿を彷徨した末「同僚の恋人の上司にピックアップしてもらって、埼玉まで送ってもらえるかもしれない」との報を受け、合流地点に程良い高田馬場まで戻ることになった。
日付が変わる少し前に、高田馬場に戻った。12日は出勤する予定だったので、空いている電話ボックスを見つけて職場に「明朝出勤できるかは微妙だ」と連絡を入れた。次いで同僚も電話ボックスを使い始めたが、通りすがりの男がなぜか電話ボックスの扉を蹴りつけて、すぐに歩き去って行った。脇に立つぼくを見て「彼女が電話を占有している」と思ったのだろうか? 元気な時だったら文句の一つも言えたかもしれないが、そんな余裕はなかった。
多くの店が閉まっていて、時間を潰すのにも苦労した。駅前のHUBで座ることはできたが、もうその時分になると半ばやけくそになって飲んでいる輩がたくさんいて、長い時間いるのはしんどかった。過ごしやすいところを探しているうちに、東京メトロが復旧したことを知った。東西線に乗れれば、一度乗り換えるだけで地元に着ける。女の子を一人置いていくのは気が引けたが「もうすぐ彼氏と合流できるし、車での移動ではいつ埼玉に着くか分からない」「明日出勤できるならそれに越したことはない」という熱心な勧めに負け、電車に乗った。言葉どおり、彼女はすぐに彼氏さんと合流できたそうだ。良かった。
東西線から南北線への乗り換えには死ぬほど時間がかかって、立ったまま何回か寝てしまったが、何とか乗り換え自体はできた。
最寄り駅では、東京に戻ろうとしていたのだろう人たちが、毛布やシートを支給されて改札の周りに座り込んでいた。ぼくが帰って来られたのだから、彼らもまた日中には帰路につけるはずだと思った。そうあってほしかった。
それから3時間ぐらい寝て出勤した。