キャベツは至る所に

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早稲田松竹 5/24-5/30

かなり久しぶりに、早稲田松竹に映画を観に行った。いつぶりかと気になってアーカイブスを見てみたら、去年の8月末にカサヴェテスの二本立て(『ラヴ・ストリームス』と『こわれゆく女』)を観て以来だ。半年以上。その間、観たかったプログラムがいくつもあったのに、全くたるんでる。
地元のパン屋で昼飯を買っていくつもりだったが、この前買った『スター・レッド』を夢中で読んでしまい、家を出るのがぎりぎりになってしまった。結局、まずは駅に向かって電車を待つことにして、昼飯は高田馬場駅前のサンジェルマンであつらえることにしたのだった。胃の調子を崩してから食が細くなっているんだけど、サンドイッチの1パックで腹が落ち着くのは、望ましい状態なのかもしれない。

『ウォールフラワー』

スティーブン・チョボスキー監督、2012年/103分。ぼくが「ハイティーン」の物語に弱いことを差し引いても、すばらしい映画だった。
高校生活に楽しみを感じられない主人公が、友情や恋愛を育み始めるのを主な描写としながら、孤独や内省を悪しざまに描かない所がとても真摯だ。他者を大切に思い、捧げ合うように言葉を交わすことは尊い。だけどそれは、一人の時間を相対的に貧しくするものではない。
主人公・チャーリーは、劣等感やトラウマを持ったまま、魅力的な友人たちとの交流を通じてその世界を広げていく。昼食時のバカ話や、日々の節目に催すパーティーのような楽しい時間がある。それがかえって、ひとりの時間に這い寄ってくる苦い連想を加速させる時がある。軽率さゆえの失敗で友人関係にヒビを入れて、調子を持ち崩すことがある。その関係を修復できたとき、かけがえのない喜びを感じる。そうした明暗をしっかりと地続きに描いている。虚飾で無理に盛り上げることもなく、また露悪的な現実味によってどん底の気分になることもない。特に、チャーリーが押し殺していたトラウマの細部がよみがえってゆく終盤の表現はすさまじかった。キャラクターに愛着を感じていたせいも大きいが、カタストロフを予感しながら「そっちに行くな」と祈るようにスクリーンを観るのは久しぶりのことだった。
主演のローガン・ラーマンもさることながら、チャーリーの成長のための大きなファクターとなる義兄妹を演じた二人が素晴らしかった。ゲイであるために秘密の恋愛を強いられながら、いつも飄々と振る舞う兄・パトリックを演じるエズラ・ミラーが本当にすごい。軽妙かつ下品に軽口を叩く一方で、一見して誠実と分かるような顔を見せることもある。破顔したときの表情がまた、めちゃくちゃに無垢でチャーミングだった。チャーリーが惹かれる妹・サム役は、ハリー・ポッターシリーズのハーマイオニー役でおなじみのエマ・ワトソン。目を潤ませて弱さをさらけ出すシーンの彼女がとても綺麗だった。高校の頃に観ていたら、当時ぼくが『GO』柴咲コウとか、岩井俊二作品の蒼井優とかに感じたモノを感じていたのではないか。
サムの語る「自分の気持ちより他人への気遣いを優先させるのは、やさしさかもしれないが愛じゃない」というセリフにはどきっとさせられた。

『ムード・インディゴ うたかたの日々(ディレクターズカット版)』

ミシェル・ゴンドリー監督、2013年/131分。『日々の泡』は2回読んだが、『うたかたの日々』は読んでいない。
ボリス・ヴィアンの原作の傾斜を再現しているのが見事。軽薄で疑いようのない幸せから始まり、笑ってしまえるほど悲惨な終焉を迎えるその様。果たしてこの映画の観客のうち、どれだけの数の人が原作を読んでいないかは知らないが、とても忠実に、原作を、映像で、再現するので、原作を知らずに観た人が取り残されやしないかは不安になった。
クロエを診た医師の言う「愛というのは美しくなければいけないものか?」というセリフは、『うたかたの日々』(あるいは『日々の泡』)の本質を射んとする言葉だ。クロエが病に臥し、幸福で見目麗しく暇に満ち足りた日々が終わり、コランは働きに出る。暮らしが小さく薄汚くなる。そこで慰め合う二人は哀れで、あまりにもみすぼらしい。だからといって、それが愛ではないとは言えない。しかし徹底的な不仕合せを愛でごまかしきることもできない。
細部を比較したくて『日々の泡』の文庫本を引っ張り出してみた(ものすンごく金がない時期に買った本なのだが、同時期にイメージフォーラム想田和弘監督からサインを頂くのに使った為、今や門外不出の品となっている。普段サインなど欲しがらないのだが、『精神』が余りに素晴らしかったので……。そしてパンフを買う金もケチりたくなるような状況だったので……)。
訳者の曾根元吉氏がヴィアンを評するのに用いた、「表現に仮装をたのしみ、虚と実との転調あそびをこのんだ」とか、「冗談の煙幕につつんで護ろうとしたのは、なによりも自由な自己」といった表現は、ミシェル・ゴンドリーの映画にも適合するのではないか。近作『ウィ・アンド・アイ』でも、いかにもミュージックビデオ然とした編集と加工と、リアリティを伴う深刻さの表現との両立にはブチのめされたものだが、本作においてもその力は否応なく感じさせられた。
※上記イタリック体の部分は、新潮文庫『日々の泡』p.294からの引用。


鑑賞後、TIMEかユニオンで中古CDでも掘りたかったのだが、散髪の予約があったのですぐ帰った。美容師さんに「こんな時間の予約は珍しいですね」と言われたので、こういう映画を観てきて……と説明したところ、「一応聞きますけど、学生時代ぜんぜん青春らしさに恵まれなかった反動が今キてるわけじゃないですよね」と言われた。
帰宅後、青山七恵『窓の灯』を読了。タイトルにある「窓の灯」は、「窓の奥にあるものへの好奇心」というけっこう直接的な表現として出てくるのだが、それよりも作中でぼかされている部分に向かう自分の興味が、まるでカーテン越しに見る部屋の明かりさながらに思える。晩飯は具だくさんの皿うどんと梅わさび冷奴。『きのう何食べた?』で観て以来やりたかったのだが、ウスターソースをかけた皿うどんも結構うまい。