キャベツは至る所に

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最近聴いているアルバム

pupa 『floating pupa』

floating pupa

floating pupa

確か最初に聴いたのは大学3年か4年ぐらいの頃で、当時はオルタナ〜日本の70年代パンク〜フォークを行ったり来たりしていた。最近DJをやらせてもらう機会があって、CDの整理をしていたところ目に留まって久しぶりにかけてみたんだけど、懐かしさよりはるかに強い愛着が湧き起こってきて、ひんぱんに聴くようになっている。初めて聴いた時も、歌詞カードにくぎづけになりながら二回続けて聴いたようなアルバムなので、今なおときめく音楽であることに、そこまで不思議はないんだけど。
2008年のライジングサン・ロックフェスティバルで『Laika』を演奏している映像を観て、なんてきれいな音楽をやる集団なんだと感動した経緯もあり、『Laika』とか『At dawn』のような、みずみずしい電子音が印象に残る楽曲が好みだったんだけど、今聴くと『Tameiki』や『How?』といった高野寛がボーカルをとっている曲がすごく耳に心地よい。高橋幸宏原田知世のボーカルは、ポップサウンドを洗練させるための抑制をとてもよく具えているけれど、高野のボーカルにはもっと生々しい温もりがある。
ちょうどpupaを聴き始めたのは、シンガーソングライターの音楽への偏愛が少し落ち着いた頃だった。pupaによる影響もあってか、趣味が少しずつポップスへと移っていったんだけど、今はまた「歌」と括られる音楽に興味を抱く時期を迎えている。ツボが変わっているのも当然かもしれない。

GRAPEVINE 『Circulat∞r』

Circulator(サーキュレーター)

Circulator(サーキュレーター)

バインはずっと好きではあったけど、「本当にすごいバンドだな」と思ったのは『From a smalltown』からで、それまでは何というか「良いバンド」としか認識していなかった。ただ最近になって古いものから聴き直したら、一時期のバインってこんなに良かったのかと驚いてしまった。当時どこを聴いてたんだオレは。まず感動したのは粒ぞろいの『HERE』だったのだが、それ以上に本作がとても好きだ。
『風待ち』とか『ふれていたい』のような曲を取り上げれば「素敵なメロディを歌うバンドだ」と言える一方、『Buster Blaster』とか『(All the young)Yellow』には、こっちは勝手に踊ってるからずっとリズムを刻み続けてくれと言いたくなるファンクネスがある。耳に入ってくる音色は、オルタナに分類すべきギターロックのそれなんだけど、腰から下がブラックミュージックとして聴いている面白いアルバム。


*ここまで聴き直し。 以下、(比較的)最近聴いているもの。

butaji 『シティーボーイ☆』

いつも新規開拓で大変お世話になっている大宮MORE RECORDSで去年末に買ったep。\1,000という価格設定にびっくりしてしまうぐらい良かった。ペンネンネンネンネン・ネネムズのスタッフでもある方で、ネネムズをバックに演奏したこともあるらしい。
アコギの弾き語りとシンセサウンドや打ち込みを組み合わせた音楽というだけでも喉笛に喰らいつかれたところはあるのだが、モアレコのポップにあった「七尾旅人・ランタンパレードが好きな方にオススメ」という売り文句通りの魅力が本当に強い。何と言えばいいか、ループ・ミュージックについて回る "いけなさ" と歌の魅力とが噛み合うことで、感傷やビジョンが自分の中で勝手に始まる、そういう感動をさせる力がある。
日本でも今まさにダンス営業の法規制が取りざたされているが、1994年、イギリスでも「野外で複数人が集まって、ビートが反復する音楽を流してはいけない(クリミナル・ジャスティス・アクト)」というモノスゴイ法規制が為された。日本でもイギリスでも、クラブ/レイヴ規制の大義名分は、違法薬物の取引・売買春の撲滅だ。そうした治安維持のためにクラブを潰すというアクションが果たして効果的なものか、ということについてこのエントリでは触れない。ただ、社会がこうした動きを見せる以上、やはり音楽の反復性は "いけない" 雰囲気を帯びるものと認識されているのではないか。第一、音楽に敏感な人なら、反復がドラッグ的・アルコール的な快楽を生み出すことを大なり小なり感じているだろう。あと、これは一般的な話ではないかもしれないが、ぼくの周りのテクノやヒップホップを愛してやまない人たちは、だいたい逸脱的な個性を持っている。
七尾旅人もランタンパレードも、自分の音楽が狂気や不道徳を孕むことを受け入れていると思う。二人が唐突に繰り出してくる、抜き身の刃物を見せつけられるような危機感は、butajiのこのアルバムにはない。しかしループ・ミュージックが持つ別種の "いけなさ" ――自分の部屋で適度なボリュームでかけると、度を越してプライベートな時間が生まれてくる、そういうちょっと深すぎる聴きやすさがある。アルバムの傾斜としては、淡口から濃口へと高揚感が変わっていき、最後には完全なチルアウトになるのだが、コンポでかけている時とヘッドフォンで聴いている時とで、ダイナミズムが全然違って感じられる。打ち込みだからというせいもあろうが、スピーカーから流れてくる分には全身をくるまれるような安心感を覚えるのに対し、ヘッドフォンで聴くと没入感がとても強い。ラーメンのスープを飲むとき、どんぶりに口を付けて飲むのと蓮華で飲むことの違いというのか。
はてブの商品検索ではヒットしないので、モアレコの通販ページへのリンクを載せておきます。Soundcloudで試聴もできるよ。
http://morerecords.jp/?pid=65221719

MINOTAUR SHOCK 『Maritime

Maritime (Dig)

Maritime (Dig)

ユニオンで100円で買っちゃったけど良かったのかよシリーズ。
フォークトロニカというジャンルに興味だけ持って何となく買ったけど、すごく良かった。この捉えどころのないジャケットとよくマッチする楽曲が揃っている。電子音の中に混ざり込んでくる耳慣れない牧歌的な管楽器の音。でたらめというわけではないんだけど、全体的に噛み合ってるんだか噛み合ってないんだか分からないリズム。
前にTwitterで言ったけど、クラフトワークなどが興して、日本ではYMOP-MODELが引き受けた電子音楽の無機質さは、幾世代かのフォローの末にずいぶん有機的に、温かくなったと思う。例えばこのエントリの最初で触れたpupaなんかにもそういうものを感じるし、pupaのメンバー(特に権藤知彦)の別の活動に目を向けても、電子的なアプローチをしながら温かみのある音楽を見つけやすい。ぼくはミノタウロ・ショックのルーツを知らない。だから、単に楽器の音色のせいでそう思うだけなのかもしれないが、このアルバムにもそうした鮮度の良い温かさを感じる。

タラ・ジェイン・オニール 『Where Shine New Lights』

Where Shine New Lights

Where Shine New Lights

アルバムというのは、その一枚にしか通用しない感動の単位というものを作る音源のことだ。抽象的な音像で、優しく美しいメロディを紡ぎ続けるアルバムの感動を「天上的」と喩えることがある。本作も実際そういうサウンドのアルバムではあるけれど、その喩えを用いるには抵抗がある。「新しい光の輝くところ」。このタイトルが指し示すそこは、天国のような永遠性のあるところではないと思う。
茫漠としたトラックや繊細な弾き語りは確かに神秘的で、メロディやタラ・ジェイン・オニールの歌声のやわらかさもあいまって、超然とした雰囲気を漂わせ、聴いていると何とも心地よい弛緩へ誘われる。だけどそれは、上記のループ・ミュージックについての記述にあるような、シラフから麻痺へ移ることによる弛緩ではない、もっと単純なリラックスだ。大島弓子の格言に「お茶を飲むのにキバはいらない」というのがあるが、まさにそういう意味合いのリラックス。
このアルバムをじっくり聴いていると、彼岸と呼ばれるようなところへの意識は、確かに強まる。霞みがかった景色の先にある、こことは違うどこかのことを想わせる音楽だ。多分このアルバムを聴く人の多くが、そのサウンドスケープに自然的な要素を感じると思う。地水火風の四大元素、アルバムタイトルにあるような光(と闇)のような、それそのものを引用して歴史や信仰を語ることが出来そうな、形を限らないのに確たる本質は揺るがないもの。何枚かタラ・ジェイン・オニールのアルバムを聴いて、打ち込みをふんだんに使ったものを聴いた時も、似たような感動は覚えてきた。本作はそうした特徴がとても顕著だ。そう、「新しい」という言葉は、死者の国には似つかわしくない。天国とは永遠の安らぎと憩いの場であり、そこには新しさは必要ないのだ。この世界では、熾った火は消える。流れ去った水や風は戻らないし、均された土もいつか掘り乱される。しかし朝の次に夜は来るし、夜の次に朝は来る。
言い方が詩的に過ぎるが、始まりと終わりは繰り返す。何かの消滅は、元あったスペースにより良いものが配置される可能性を生む。有機的なものの死は何かしらの肥料となって、大きなサイクルから外れることはない。言わずもがな、死は悲しく、また大きい。しかし、新しさをことほぐことを忘れては生きていけない。
本作の#6『The Lull The Going』に、こんな一節がある。

 when you go you go far and wild and free       旅立つなら遠くへ 思いきって自由に
 and you carry the gold of every last loving thing   過ぎ去ったすべての愛しいものたちの輝きを連れて

やはりこのアルバムには、天上的という比喩は似合わない。美しさやとりとめのなさの中に、結わえつけたように繋がれている悲しみや苦みがあって、それを見つけた時、確かな重力を思い出すことができる。このアルバムは確かに抽象的ではあるけれど、ただ綺麗なだけでなく、辛い現実をごまかすためのものでなく、うまく足場を踏みしめるための音楽なのだと信じて疑わない。そして恐らく、そうして踏み出す歩みの先にこそ新しいものがある。

スカート 『サイダーの庭』

サイダーの庭

サイダーの庭

まったくスカートはどこまで行くのだろうかと思う。いつかYouTubeキリンジの曲を聴いていた時に見かけたコメントで「こんなに凝った曲を出していつか枯れちゃうじゃないかと心配しても、次のアルバムを聴いて取り越し苦労だと思い知る、その繰り返し」というようなものがあった。澤部渡自身、キリンジについては何度も話に出しているけれど、ぼくはスカートを知って以来、澤部氏にも似たような感服を何度かしている。
これまでの三作に感じてきた、春や秋の始まりといった肌寒さと暖かさがごっちゃになった季節特有の、体も心も少しだけざわめいて、その「少しだけ」があんまり気持ち悪くていたたまれないあの感じ、あれが本作では鳴りを潜めている。ちょうどリリースの時節と重なる初夏の感じ、汗ばむのも久しぶりだからと陽気を受け入れるような潔い軽薄さを湛えたアルバムになっている。出だしのリズム、特にギターの刻むリズムがどことなくトロピカルで、軽やかに進むふうに聴こえるせいだろうか? だけどそれはceroのような物語風のエキゾチシズムとは違うし、ましてや南米土着のトロピカリズモとも全然違う、日本のポップスとしてのトロピカルだ。その愛すべき軽薄さは、#4『ラジオのように』の落ち着きで一呼吸を置いて、#5のタイトル曲『サイダーの庭』で最高の盛り上がりを迎える。スピッツの『船乗り』を彷彿させるワクワクするようなイントロから始まり、ドラムはトリッキーに変化を付けつつ、一方メロディは軽やかで鮮やかな展開を続けていく。おおげさなコーダを付け足さずに、ほんの少しのリピートでもって曲を締める手並みは、まさに前作の『月光密造の夜』に連なる、文句のつけようがないポップスだ。そして最後の三曲は、初夏の終わり、梅雨にさしかかった日の夜の湿度や涼しさの中で響かせるのにとても適した、物憂げできれいな楽曲が続く。洒落た包装をほどいて気の利いたプレゼントを目にするようだと思う。
Lilmagの購入特典にあるインタビューの中で、澤部氏は「飲み物で言うなら、缶でもペットボトルでもなく、瓶のようなサイズのアルバムになった」と語っている。瓶というのは、アナクロな趣味を持つ者の心をくすぐるちょっとした詩情がある。それが風情として固着しているのがラムネの瓶だ。しかし本作がタイトルに採ったのは「サイダー」。ビー玉が入っていないからゴムパッキンもくぼみもない。その飾り気のなさがむしろ愛しい。25分という再生時間が具えさせた切れ味の良さがたまらなくて、これから何度もかけてしまうだろう。
各所での発言を見るに、澤部氏も解消しがたい問題として意識しているようだから、ぼく風情一介のリスナーがああだこうだ言うのははばかられるのだけど、もっとハイエンドな音で聴きたいというのも正直なところだ。それぐらい演奏や組み立てのみならず、歌詞の表現の引き出しも増え続けている。#7『古い写真』の「ひどい雨が君の作業の手を止めて 暗い窓に指を這わせている」なんて、今までより抑制が効きながら情感はたっぷりの歌い出しだと思うし、#3『都市の呪文』の多重録音でのコーラスワークなんて、良い音で聴いたらより一層の鳥肌モノになったろう。先述のインタビューの中で「いつか理想に辿り着くとして、そこに今近づけないなら、別のものを目指した方がいいんじゃないか」と仰っておられることだし、いちリスナーは活動を追いかけながら成り行きを見守るしかないのだが。
今よりたくさんの自由が利くスカートを見てみたい。何の制約もなく音楽を作っているミュージシャンなんて、ほとんど存在しないだろうけど。

土井玄臣 『The Illuminated Nightingale』

The Illuminated Nightingale

The Illuminated Nightingale

このアルバムについては批判的にもなれなければ、批評的なこともろくに言えない。好きすぎるからだ。今までも本を読んだり、音楽を聴いたりして、自分の生まれ持ったくぼみにぴったりあてがえるように好きになれるものと出くわしてきた。本当に少ないながら。その中でもこのアルバムは、自信をもって「そういう風に、一番好きだ」と言い切れる。
サポートはまったく入れず、楽曲は土井玄臣その人がひとりで作っている。組み立て自体は簡素なトラック、そこに組み込まれたギターやピアノなどの旋律、添えられるノイズ。頼りなげに震えてかすれたかと思えば、氷のように輝く歌声。日本語的なそれから乖離して発音される歌詞は、どれも儚く、それでいてものすごく多量な意味を充溢させている。それがたった一人の手技から成り立ち、一枚のアルバムにまでなっている。初めて買って再生させたときは、自ずと立ち向かう姿勢になった。けれど何度も聴き込むうちに、一貫して感じられる哀しさに気付いていき、ああ、これは自分を攻撃なんてしない音楽なんだと思った。警戒したのはぼくの勝手だった。たぶん、それぐらい、自分の知っている類の哀しみが、この人が歌おうとしているものの中に含まれるものなんだと思った。人の死を味わったそれだけのために、自分がどうして生きているのか疑問になったこととか。自分の成し遂げたことがとてもみみっちい感動しか生まなかった時や、本気を出した時の自分の力の小ささを目の当たりにした気持ちとか。
リリースを受けてのインタビュー(社会からこぼれ落ちる悲しさよ 土井玄臣インタビュー - インタビュー : CINRA.NET)で「社会の中で落伍者・敗残者と渾名される人のことを自然と歌っている」と話しているのを知り、この人の歌を聴いていて狂おしい気持ちになるのはそのせいなのかな、と思っている。表現は、すべからく弱い者を描き助けるため存在するべきだ、とは思わない。過不足ない幸せを切り取った表現だってあっていいし、例えば慰撫するのではなくて、抗うべき人を鼓舞するような表現にも価値はあると思う。だけど、弱い者に鞭打つのに加わる表現はあってはならない。当然に聞こえるかもしれないけど、それを全うするのはひどく難しい。難しいからこそ、この人の音楽にある、説明のつかない、感動的な何かとしか呼べない、だけど確実にその中に優しさがあると信じさせてくれるものは、凄まじい。
昨日、アルバムリリース一周年を記念するライブを観た。土井さんは大阪で生活をしておられるので、都内でライブを観られる機会は本当に稀だ。何に代えても観に行こうと心に決めて、観に行った。生で観て聴いて、やっと言葉にできてこの程度だ。
ぼくは小説を書くが、もしこの人の音楽に力がないとするなら、ぼくの書くものになんて永遠に力は宿らないだろう。それぐらいこの人の音楽を愛している。この人の音楽を消化して生きないと、ぼくは満足いく死に方をできないと思う。

このアルバムを聴くきっかけを与えてくださった方々として、アルバムの感想を生々しく物したホームランさん、プレイリストに曲を入れておられるのを見かけて「この方も聴いているんだ、きっと良いミュージシャンなのだろう」と興味を補強してくださったQ_delicさん、このアルバムを買わせてくれたモアレコにも深く感謝している。この場を借りてお礼を言わせてください。こんな夜中に書き殴った出せないラブレターみたいな駄文の末尾に、お名前を載せて申し訳ありません……。


土井玄臣もbutajiも、七尾旅人へのリスペクトを語っている。三人のミュージシャンに通底する何かについても、稿を改めて書いてみたい。