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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

もう一冊いかがですか

本読みが好きな人には「何かもう一冊買いたい」と思う瞬間がある。目当ての本は見つけた、しかしレジへ向かうには何かが足りない。いま携えている本を読む前か後、もう一個食えるぐらいには腹が空いている――もう一冊欲しい。それはマンガ読みによくある欲動だ。
一冊で完結するマンガには独特の魅力がある。エピソードを増やして引き延ばせば、長いこと誌面を賑わせたかもしれないが、収まりよく収まってしまった作品。週刊少年誌にありがちな連載打ち切りによるのではなく、わざわざ一巻きりで終わらせた作品。無駄なく均整の取れたドラマがそこで始まって終わっている時、もはや筋書そのものと関係ない「一冊」という単位・ボリュームにまで愛着を覚えるほどの感動が生まれる。
というわけで、一巻完結の素晴らしいマンガをフィーチャーしたい。「もう一冊」と思うとき、ハズレは引きたくない。誰かのチョイスの一助になればうれしい。

よしながふみ『愛すべき娘たち』

愛すべき娘たち (Jets comics)

瞠目すべき『大奥』の面白さと、『きのう何食べた?』のロングヒットによって、すっかり稀代の作家としての風格を帯びてきたよしながふみだが、一巻完結の作品だったらこれがずば抜けていると思う。ボーイズラブ「の、においがする」くらいの作品なら読めるという人には『こどもの体温』などを、BLでもどんと来いという人には近年文庫化された『ジェラールとジャック』『1限めはやる気の民法』などを薦めてもいいのだが、ゲイ要素が少しもない本作は万人に推せるし、じっさい万人に読んでほしい出来栄えだ。
本作の題には「娘」と採られている。語り手に男性キャラが立っている話もあるが、一貫しているテーマは女性の愛である。無論、愛と言っても男性への恋情に限った話ではなく、家族愛・友愛もまたそこに含まれる。そして愛は通じ合ったり、ないがしろにされたり、摩擦し合ったりする。愛がテーマと聞いて、何はともあれ幸せや満足を期待して、痛みや苦しみをまったく予想しない人たちは、果たしてよしながふみを、特にこの作品を面白いと思うだろうか? 母親の再婚に驚く娘、心から愛せる人を見つけられるかとお見合いをする女性、かつては夢を語り合ったが長ずるにつれ理想を諦めていった友人同士。様々な人物が様々な愛にもがく。
この作品の何がそんなに良いかというと、作品のエネルギー全てがその「もがき」を目掛けたベクトルとして働いている、この一点に尽きる。『西洋骨董洋菓子店』ならパティスリー、『フラワー・オブ・ライフ』なら高校生活、『大奥』なら(よりスリリングな改変のための)歴史考証――つまり「設定」という、お話を面白くするための装置がある。ストーリーテラーとして装置を動かすよしながの手技は超一流だが、設定を活かすには、どうしても設定を解らせるための描写が必要となる。短編というサイズは、読者を長く確かにノせるための設定を必要としない(必要ないというのは言い過ぎかもしれないが、長編ほどには重要としない)。本作は、人物が直面している「愛」というなまなましい問題それ自体をテーマとしていて、話を展開させる橋頭堡としての「設定」を持たない。つまり多くの描写が、作品を保つようにではなく、人物の心の動きを浮かび立たせるために働く。
そうして人の心理を描写するのが、誰あろう、よしながふみなのだ。たったひとコマで、それも人物の姿(時には後姿)だけが描かれて背景もないようなひとコマで、それまで長くしっかりと続いていた一つの空気を根こそぎ変えてしまう展開の妙。食べ物にしろブランドにしろ有名人にしろ、チョイスの理由を読者にスルッと納得させてしまうアイテムの選び方。表情の微妙な変化をこれでもかというほど意識的に描く手法。残酷なストーリーを本当に無残に描出しながら、人を不必要に傷つけまいという一線をかたくなに守ろうとする姿勢。そういう表現が、業界ものとか青春ものとか歴史ものとかのくびきを離れ、ただ人の心の動きをとらえようと働く。これが大変に面白い。

作中で、足が悪く普通に歩けない男性が、映画『ハッシュ!』の感想として語る次のことばが忘れられない。
多い方と少ない方の 少ない方の人間でも 自分の生きる世界を好きになろうとしてる」(112頁より)
ゲイムービーとしての表情がある『ハッシュ!』に向けて、男性キャラにこうした感想を寄せさせることを、BL作家の趣味的表現だと断じるのは簡単だろう。しかしマイノリティとしての生きづらい生を、被虐者としての語り口にも楽観主義者の調子にも拠ることなく、見事なほど端的に言祝いでいるこのセリフを、そんなに簡単に評価してはいけない。
よしながは自身の少女マンガ観について、こう語っている。
でも結局私、少女マンガって一様に言えるのはやっぱりマイノリティのためのものだなって思う。女の子って、もう女性っていうだけで経済的にも権力の担い手としても腕力の世界でもマイノリティだから、社会のなかで。で、そういう人の、たたかって勝ち取って一番になるっていうことが基本的にできない人たちが読むマンガだと思ってる。頑張ればなんとかできると、いくら少年マンガを読んでも思えないっていう人たちのために、その人たちがどうやって生きてくかっていうことを、それは恋愛だったり、友情だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女マンガは提示している」(太田出版刊『あのひととここだけのおしゃべり』26頁、やまだないと福田里香との鼎談より)
本作はこの「マイノリティ」としての思想に悖るところがまったくない。直接的に《女性は自分を失わずに生きる、そのために働くということ》をテーマとしたエピソードも、本作には実際に織り込まれている。その中で描かれる複雑さと深刻さ、それと向き合いながら真摯に生きようとする登場人物の姿勢の綺麗さは、筆舌に尽くしがたい。マジョリティ(男性)であるぼくには、この思想に対して「そうですよね」と相槌を打つことすら簡単ではない。もしかして、そういう簡単な返事ぐらいしか自分には一生できないのではないかと思い、恥ずかしくなることがある。けれど、その羞恥はたぶん忘れてはいけない気付きだと思う。個人的なこだわりを言うと、そういう啓蒙をうながされたからこの本を愛している、というところもある。

近作ほど元来の線とデフォルメの線を極端に使い分けていない、人の顔においては、美しさも卑小さも微笑ましさもおぞましさも、一本の物差しに刻まれた一線なのだというような絵もまたいい。『大奥』などよりも、『西洋骨董洋菓子店』に近い線だ。また、よしながふみのネーム(マンガの文字部分)にはいつも、作者が人生を活かして書いているのを物語る、生々しさと説得力、それから使い込まれた言葉の感じが満ちているけれど、そうした口調で愛について語ることで、とても強い迫真性が紙面に宿っている。絵とネームの調和が、そういうレベルで起きている単行本である。

阿部共実ちーちゃんはちょっと足りない

ちーちゃんはちょっと足りない (少年チャンピオン・コミックスエクストラもっと!)
昨年、理化学研究所が「代理感情」という心理学的な概念を提唱した。なぜ人間は悲劇を観たがるのか? より抽象的に言えば、どうして進んで不快な表現を鑑賞したがるのか? それはその表現に悲しみだけでなく何らかの快を見出しているからだ、人は芸術鑑賞の場において「代理感情」と呼ぶべき感情を用いていて、そのような自分自身に危害が及ぼされない環境下では悲しみのような不快な感情も快と並存する、というのだ(詳細についてはこちらのリンクを参照されたい「悲しい音楽はロマンチックな感情ももたらす | 理化学研究所」)。知識のないぼくからするとコジツケ論のようにも聞こえるが、「ウツ」「重い」「暗い」だのと形容される作品を鑑賞することの動機を、的確に言い表されている気もする。
……なぜにわざわざこんな枕を置いたかというと、こういう理屈で防御の構えを取りたくなるぐらい心をズタズタにされたからである。しかもドラマそのものではなくて、語りの巧妙さにまでも。
ちーちゃんはちょっと足りない」とある通り、表紙にも描かれている「ちーちゃん」という女の子が前面に立って話が進んでいく。ちーちゃんは中学生だが、九九がおぼつかない・物事をうまく説明できない・すぐ泣く・足のサイズは18cmもないなど、色々「足りない」。というか、無思慮な表現をあえてするなら、「頭が足りない」人物として描かれる。しかしこれを軸としてドタバタギャグをやっているのは全8話のうちのせいぜい3話までで、その3話までで描かれるちーちゃんや親友のナツや旭の人物像や背景が、後半になるにつれてものすごく残酷に活用され始める。語りの巧みさを称賛した以上、ネタバレはなるべく避けたいのだが、ちーちゃんを話の漕ぎ手としながらも《語り手》が別に付き始める。そして「足りない」という言葉に篭っていた、切実で惨いものがもうもうと噴き出し始める。そうなってくると、タイトルから覚えた「頭が足りない」なんていう印象はスッ飛んでしまい、ものすごいトルクでもって、物語が絶望の孤峰へと登っていくのを感じるほかなくなる。その登り方の着実さ、避けようのなさがまた絶望を強める。
ぼくが「学生特有の悪夢」と勝手に呼んでいるジャンルがある。例えば安達哲の『さくらの唄』、HEROの『堀さんと宮村くん』、(原作を読んでいないが)映画『桐島、部活やめるってよ』、詞でそれを表しているのが椎名林檎の『17』、もしかしたらCoccoの『Raining』も……。学校という世界の中心に誰の価値観も支配されていて、その世界から脱せない人間の悲喜劇。本作の3話までの愉快な雰囲気は、こうした世界の上澄みに過ぎない。上澄みは風味も口当たりもいいかもしれないが、えぐみがない。後半で描かれるのはどろどろと沈殿している部分、つまり「悪夢」と呼びたくなる部分だ。誰もが多かれ少なかれ味わったことがあるだろう。八つ当たりでしかない怒りの後味の悪さ。後ろめたいことの一口目の甘い刺激、その甘味の代価としては重すぎる胃もたれ。
オタク向けっぽい絵柄(実際ギャグ的な言葉選びにもオタク趣味っぽいものを感じる)を見て、キャラクターで押すタイプの作品と見紛うと、本当にえらい目に遭う。キャラクターには背景と内面があって、キャラのそうした部分を闘わせるのが物語であることを思い知らせてくれる作品で、なおかつ人の思考の痛々しい部分にわざわざスポットを当て続ける。しかもその苦悩に対して、美意識とか貧富の差とか劣等感とか自己弁護とか、もう全部乗せ。露悪的な表現すべてが攻撃目的のものではないと思うし、本作全体が希望を否定しているかというとそうでもないと思うのだが、何と言うか、正直死にたくなりましたよコレ読んで。正確に言うと、死にたかった頃をありありと思い出した。社会が少しずつ見え始めてきたから分かり出す自分の価値と、その価値の貧しさとか。子供の頃「あのグループは何かしら秀でたものがあるから、あちらに属したい」と、自分のカラーや趣味も弁えず考えていた記憶とかをほじくり返されてホントマジヤバかった。

さっきの「沈殿していたものが後半から描かれ始める」という喩えを自ら引いてよいなら、作品の底に手を突っ込んで掻き乱す、その手つきのえげつなさに大変な非凡さがある。ぼくが初めて読んだ阿部共実の作品は、Pixivに掲載された作品(「大好きが虫はタダシくんの」漫画/アベ [pixiv])だが、この短編のキレが一冊というスパンの中で、複数のエピソードによる奥行きと起伏を兼ね備えたと思っていただいてよい。蛇足かもしれないが、この本を薦めてくれた友人と読後に話をした時、「一話目の最後のコマは、後々さりげなく伏線として回収されている」と教えてもらい、後でどういうことか確かめて絶句した。マンガは画面で語る以上、ある程度のインパクトがないと面白いと感じづらいところがあって、マンガのすごさイコール馬力と思ってしまうのだが、こういう繊細さを見落とす読み方はよくないと痛感した。本作も、展開のしかた・させかたに半端じゃないエネルギーを感じるが、この人はそれだけではなく、巧い。

尾崎かおり『神様がうそをつく。』

神様がうそをつく。 (アフタヌーンKC)

すごく久しぶりにジャケ買いをした作品。アフタヌーンコミックスと確認して買ったので、レーベル買いも入っているのかもしれないが。夏の装いと空のグラデーションの視覚的な情報だけではなくて、温度や湿度が表現されているようなカラー絵にグッと来た。
小学校最後の夏休みが迫る頃。サッカー少年・なつるが、家で面倒を見られない捨て猫の扱いに困っていると、クラスの女子・理生とばったり出くわす。「養育費を払ってくれたらうちで飼ってもいい」と提案する理生。なつるは猫を連れてそのまま彼女の家を訪ねるが、そこに親の姿はなく、理生は弟と二人で生活していることを知る……。
読んでみて、「新しい物語」を読んだという感覚はまったくない。ジュブナイル、ボーイミーツガール。二人の仲立ちは捨て猫。大人には言えない秘密。強まっていく夏の気配。フィクション慣れしている人は、何となく空気感を想像できるだろう。盛り上がり方や結末も、何となく、ぼんやりと思い浮かべられるだろう。何なら「どこかで読んだ」なんて思うだろう。マンガ的にブッチギれた表現があるわけでもないし、絵柄もハチャメチャに独特なわけではない。上に挙げたよしながふみ阿部共実のように、穏やかな空気の中に一瞬で魔を差し込むような演出的恐怖もない。予想の範疇を大きく超えるものは皆無に等しい。
ただ、この作品の面白さは、そういう予想の容易さとは関係ない。予想が裏切られないことが興を醒めさせるのではなく、そうだ、これだという無条件な肯定を誘う。アクのない絵柄もそれを邪魔しない。趣味の広がりが一旦落ち着いてきたり、自分の解釈能力が煮詰まってきたりすると、裏切られたい・置いてけぼりにされたいという欲求が強まってくる。ややもするとその欲求は安定して、型通りの表現一般を笑い飛ばすようになってしまうけれど、それは往々にしてケレン味の麻酔効果によるものだ(そういう「型」に対して芯から醒め切っている人もいるが、ごく少数に限られると思う)。
しかし、これほどオーソドックスな作品をどうしてここまで好きになるんだろうと、自分で自分の感想が不思議だったのだが、それは丁寧さに感動しているからではないかと、最近思うようになってきた。キャラクターが同じでも笑顔や泣き顔を場面場面で描き分ける細やかさや、季節の花で画面を飾るマメさ。気持ちが次のステップを踏んだのがよく分かる描写、そのテンポ。エフェクトをかけない楽器で丹念に弾かれるメロディを聴く時おぼえる、耳で聴くと同時に音を目で見ているような気持ちのいい錯覚、あれが本作にはある。

上の「ちーちゃん」の項で遣った「学生特有の悪夢」と、ボーイミーツガールだ子供だけの秘密だというのはコインの両面のようなもので、本質はほとんど変わらない。つまり「世界が狭く幼く閉じている」ことを同じ条件として、起きる現象が発酵であるか腐敗であるかの違いだ。感傷的すぎると言われようが、ぼくは「学生特有の悪夢」も好きなら、その裏面に刻印されたロマンチシズムも好きだ。本作で丹念に描かれている、きらきらと淡い色に輝いているのに、しかし現実と触れ合うと乾ききって茶けてしまう感情の瞬きは、まさにコインのエッジに位置するものだ。あとほんの少しで逆の面に踏み込んでしまう、夢が悪夢に転じるぎりぎり、そこで軋みを立てている現実と、そこに佇むほかない少年少女。丁寧だなんだと評しておいてなんだが、その点においては、めちゃくちゃスリリングだ。