キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

『風立ちぬ』について'87年生まれのオタクが思ったこと

風立ちぬ』のネタバレとか、シーンや演出への直接的言及を幾ばくか含みます。


別に観返したりしたわけではないのだが、富野由悠季botが下のようなツイートをしていたのを見て、走り書きしたまま放っておいた『風立ちぬ』についての述懐を、とりあえずまとめてみようかという気になった。下のツイートは、ぼくが『風立ちぬ』の面白さとして感じた異常な何かの説明であるように思える。



航空映画。
この言葉を読んで、どうしてもファーストシーンのことが思い出された。二郎少年が夢の中で、屋根の鬼瓦のところに碇泊させている飛行機に乗り込むあのシーン。二郎少年はエンジンをふかし、プロペラを回し、慎重に操縦桿を動かして、飛行機を浮揚させる。あの手さばきだけで「飛行機を飛ばすには知識と訓練が要る」ということが語られている。
どうしてそこが気にかかるかというと、ぼくが子供のころから観てきたアニメは、そういう風にメカを動かさなかったからだ。アニメ、特にリミテッドアニメで機械やロボットのようなもの、つまり大きくて複雑なものを動かそうとするとき、主に二種類の方法がとられる。簡略化するか、ハッタリを効かせるかだ。80〜90年代はキーワードとしての「魔法」が活きていたし、「異世界」というのも流行りの要素としてあった。そうした世界観では「メカがなぜ動くか」という根拠は二の次になりがちだ。例えば、『トップをねらえ!』やエヴァといった庵野秀明作品などは逆に、(庵野が元ネタは『ヤマト』だといつだか言っていたが)大仰なインターフェイスを舞台装置にし、専門用語や固有名詞を飛び交わせて、「大きくて複雑なものを動かしている」ことを印象付ける。ぼくは90年前後のサンライズのアニメにわくわくする幼少期を送った、いわゆる第三〜第四世代のオタクである。庵野のおたく(≠オタク)としての出自は、ぼくなどよりも宮崎駿のそれに近いはずだが、庵野作品にあるリアリティと、宮崎が航空機を描くにあたって使ったリアリティにはギャップがあり、ぼくからすると宮崎的リアリティには馴染みがなく、だからこそ面白く感じられた。
ちょうど『風立ちぬ』を観たころ、『絶対無敵ライジンオー』('91年)をレンタルで観返していた。ライジンオーには、ガジェットとしてパソコンがぎりぎり出てくる(巨大ロボを操作するデバイスを、小学校のパソコンで解析するという微笑ましい描写に使われている)。それからキャラが座る司令室の席にも、モニターとキーボードが設置される。
子供の触る電子機器のレベルは、ライジンオー放映以前から今に至るまで、ものすごい速度で上がり続けている。PCとスマホに照らしてみるのが一番分かりやすいかと思うが、デバイスの利便性が高まるにつれ、開発者は常に「知識のないユーザーがいかに直感的に操作できるか」という課題と闘ってきた。そうした世界、というより社会で生み出されるロボットもののフィクションの中では、やはり直感や意志で操縦されるロボットこそ、リアリティのあるものになる。
航空映画たる『風立ちぬ』は違う。航空機が緻密で正確な設計・発明のための閃き・それを実現する製造技術の結晶体であることにロマンを見出し、それが動くためには燃料を必要とし、それが飛ぶためには力学を理解しなければならず、それを作るためには企業が必要で、それが飛ぶ理由として戦争がある、作品を描き出すためにそうした全てから逃げない矜持がある。
それが、ぼくがアニメを観るのにベースとしている判断に関係しない、何かしら異常なものとして見えた。
だからこそ、航空機が墜ちる作画に痛みがあったのだ。公開当時、「人の死を描くことから逃避している」という批判を目にして「そうか?」と思ったのは、あの映画の中では間違いなく数多の飛行機が死んでいるからだ。確かに、その描写の中で 主に 死んだのは人ではなく、二郎やユンカースやカプローニの夢なのかもしれない。二郎は零戦の原型として銀色の航空機を夢に見るが、その機体はのっぺらぼうで武装がない。戦闘機の設計案について議論しながら「機関銃さえ積まなければ、もっと軽くできるんだが」という旨のことを言う。そして終戦を迎えているだろう時の夢の中で、「一機も戻ってきませんでした」と悲痛な顔で言う。飛行機が飛ぶことに必然的に死がまとわりつくことを二郎は悲しんでいる、それでもあの作品は、人の死の描写から逃げているだろうか。


とりあえず今書きたいことはそこについてのことではないので、話を戻す。『風立ちぬ』は、ぼくには馴染みの薄いパッションで作られた映画だ、という話に。
近年は人をオタクと定義する要素として、「どれだけ情熱を傾けて対象を愛好しているか」に拠るところが大きくなってきたと思うが、従来のような「知識の多さをアイデンティティとしているか」に拠るところも、未だ大きい。というより、「どれだけ情熱的に知識の補充に努めているか」と言うべきか。何かで「現存するすべての映画を観ようとすると、人生を80年としても、その全てを何回分も費やさなければならない」と読んだが、もう「名作」は網羅できない。括りを広くサブカルと取れば、それこそ名作の網羅は絶望的な試みと言える。誰もが言葉や画像を発信できるようになった、今やフリックやタップだけで。真偽とか質の良し悪しは別として、とりあえず情報は溢れている。
状況に立ち向かう手段として、恐らく多くのオタクがいま採っている情報収集のスタンスが、圧縮的なスタンスだ。Twitterのタイムラインとか2chのスレッドとかを日常的に眺めていると、ばらばらにポストされた未編集の情報を繋ぎ合わせて、一個の総体として理解する編集能力が培われてくる。当節風に言えば「空気を読む」と言い換えられるかもしれない(こうした思考の億劫さに配慮し、代行してやろうという善意の押し付けが「まとめ記事」だと言える)。そうした態度の二次的な効果として、ハズレを引かなくなる、ということもあるだろう。例えば、ニコ動を観る人はよく分かると思うが、再生回数の多さは面白さのバロメーターにはなるが保証にはならない(再生回数の多さにつられて有象無象が寄ってきてつまらないコメントを吐き捨て、動画を見苦しくするケースは多い)。再生回数のほか、キャプション・タグの雰囲気などの要素を見て、これまで引いたアタリとハズレとの照合を行ない、面白さを試算する。つまり、勘とか直感とかいう反応だ。
風立ちぬ』はそうして補充された知識では作れない。かといって、丹念に考証を重ねただけで作れる映画でもない。初めに引用した富野の発言、「あれが零戦をやるってこと」、この言葉が暗に指している宮崎の中で発した何か、まさにそれが必要なのだ。それは戦闘機に対する愛と造詣が混然となったものであり、それをアニメーションとして作画することへの情念なのだ。趣味的な表現がああしたフォルムをかたどるには、圧縮的なスタンスを保ったままでは難しいだろう。

情報を編集するというのは、スマートに生きる/知性的に振る舞うのに不可欠なスキルだが、編集という行為は余剰をそぎ落とす行為であり、シャレではなく余剰には余情がある。編集されたそれは合理的で切れ味がいいかもしれない。しかし、まずい料理がどうまずいか知ろうとせず何故まずくなったか考えようとしない人間が美食家や料理人として半出来であるのと同じく、無駄や失敗を鑑賞したとき噛みしだこうとせず直ぐに吐き出すことは、決してその人の理解を深めない。
ここ数年、Twitterで、音楽の趣味が合う人たちと相互フォローの関係を築くことが多い。そういう人たちの音楽に寄せる情熱と、音楽をさほど愛好しない友人知人たちの体温には、とてつもない落差がある。この一年は特に強く感じたが、そうした情熱の匂いが移ったツイートを読むのはすごく楽しい。どうして音楽に関係してフォローし合うことが増えるんだろう。もちろん「友達の友達」的脈絡でフォローし合うとか、お互いを意識して音楽の話を続けていたら別の音楽好きの目に留まった、なんて要因もあるだろう。しかし最近思うのは、音楽が圧縮できない芸術だからではあるまいかということだ。あらすじを読んで、小説やマンガを分かったような気になることはできる。しかし音楽は優しいことに、そうした錯覚を許してくれない。早回しで聴いたらナンノコッチャだし、メロディのおいしい所をつまみ食いするだけでは展開のスリルが味わえない。駄曲の中の救いになるような部分を継ぎ接ぎして佳曲にするようなことも難しい。音源を聴いている分にはスキップで逃げられるが、好きなミュージシャンのライブに行って駄曲が始まったとして、ダッシュで会場から逃げ出すことはなかなか現実的ではない。

タイトルにも書いたようにぼくは1987年生まれで、いい歳なわけだが、Webやスマホに慣れ、情報を圧縮するのにも慣れたのと同様、自分の感覚を使って生きることにも慣れてきた。別に宮崎駿になれるともなりたいとも思わないが、自分に慣れるにつれて取りこぼすようになったものが、多分あるだろう。ていうか、ある。もしかして、「昔ほど夢中になって本を読めなくなった」みたいな感覚は、単に忙しくなったとかいうだけじゃなくて、ぼくが合理的な判断によって省略したことの中に重要なタスクが含まれていたからではないか。
オタクとして暮らそうとする時、自分はこれでいいのかと思うことがある。いい歳してこんなオタク然とした趣味ばっかでいいのか、という不安じゃなくて、自分のこうした態度は、敬愛する作家や素晴らしい作品に顔向けできるものなのか、という不安だ。この不安を解消するには、もっと真摯に無駄と向き合うべきなのかもしれない。オフラインで出会っていようがTwitterで知り合っていようが、メシがまずかったことを教訓にする人は大体みんな面白くて、自分もそうなりたいのだ。