キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

ここ最近聴いているアルバム

  • Family Basik『A False Dawn And Posthumous Notoriety』

A False Dawn And Posthumous Notoriety

 

加藤遊・加藤りまの2人による兄妹ユニットの1st。

茫漠としたトラックと、宅録の温かさが宿ったギター、(きょうだいによるデュエット特有の)説明しづらい近似を持つボーカルがあまりに心地良い。間違いなく室内楽的ではあるのだが、ラウンジ的とは言いづらい。ラウンジミュージックの特質を、サティが言うところの「家具の音楽」、つまり聞こえることを必ずしも必要としないことだとするならば、このアルバムは全くラウンジ的ではない。

あからさまな興奮を掻き立てるのではないが、このアルバムは神経に影響する。音楽には共感覚や連想を引き起こす効果が含まれている。Family Basikの音楽も例外ではないのだが、彼らの音楽から発想されるものは、現実離れしていて斬新なのに、それに近いものとどこかで出会っている気がしてくるものなのだ。

夢の中で見たものや聴いた音が、夢固有のフィルターを通過して人の記憶に残るとして、Family Basikの音楽は、そのフィルターを人の手で通しているとしか思えない。それぐらい現実らしくなくて、似たものを知っているのに何をどうやって作られているか見当がつかない。ぜんぜん把握できない。ぼくはこのアルバムが把握できないまま大好きなのだ。聴いていて浮かんでくる色があって、その色を自分の印象に写し取ろうとするのだけど、夢を視覚情報として鮮明に記憶しようとした時のように、肌色や灰色のようなありふれた色が浸みてきて、元の色が分からなくなってしまう。そのもどかしさと不気味さが好きだ。

先日Kira Kiraのライブを観に行った時、共演の加藤りまの弾き語りを聴いたが、このアルバムとはまた感触が違った(このアルバムの楽曲はすべて兄の加藤遊が作っているので、違って当然だが)。何となく初期の中島みゆきを思い出す、アメリカンフォークっぽい歌を、今風の若者らしいドライさとためらいのなさで乾燥させて歌うような。

 

DREAMLAND

 

上に続いて男女デュエットだ。ほとんど曲の知識がないままライブを観に行って、すぐ物販でこれを買った。

生で『I Love You』を聴いた時、オクターブの違うユニゾンの気持ちよさに腰砕けになってしまった。後々聴き込んで、声の相性によるところも大きいのだとは気付いたが、その時は何か端的に「高音と低音が関係すると快が生ずるのだなあ」とバカっぽく感動してしまったのだ。

見識を広めようとすれば誰にでもすぐ分かるが、演奏より歌や詞にウェイトを置く音楽はとても多い。物語の叙述は歌にはできるが演奏にはできず、何かの主張のために音楽をやる人間がたくさんいて、物語とはデザインされた主張だと勘違いしている人もたくさんいるからだ。

yojikとwandaの歌はそう聴こえない。このアルバムにはインスト曲だってあるが、やはり最たる魅力と捉えるべきは二人の歌、それもデュエットだろう。細く高いのにどこか直線的な強さがあるyojikの歌声、広い面でもって加圧してくるのになぜか一点のツボを突くwandaの歌声。それらが噛み合った時に生まれる快さは、安直に美しいとか優しいとか言って褒めるのが無責任であるように感じられる。それなのに聴き応えは柔らかくて、歌が好きな人には「まあいいから聴いてよ」と薦めたくなる。

yojikの書く、言葉自体だけでなく言葉に予め映り込んでいるものを想っているような詞も好きなのだけれど、どちらかというとwandaの書く、言葉が人の中に入った時に起こるものを試すような詞の方が好き。

どうでもいいけどwandaさんが叔母に似ている。

 

  • V6 『Ready?』

READY?【ジャケットC】

 

ぼくが買ったのはジャケットCじゃなくてジャケットB(ボーナスCD同梱盤)。

2011年のコンサート・Sexy.Honey.Bunny!ツアーのDVDがすごく好きなのだが、そのツアーのセットリストには、このアルバムの曲が多く並ぶ。ボーナスCDにはトニセン・カミセンの曲、そして6人のソロ曲が収録されているのだが、SHBコンにおけるソロ曲はすべてそのボーナスCDから採られている。

粒ぞろいだが、SHBコンの一曲目を飾る『will』~歌割りの妙が光るラブソング『Air』~CUBE JUICE提供のエレポップチューン『Radio Magic』の流れがとても好きだ。

特に『Air』の歌割りは素晴らしい。声質が比較的プレーンな井ノ原・岡田を主軸にしつつ、坂本のハイノートの美しさ、長野のソフトさ、森田の切なさ、三宅のピーキーさ、それぞれの歌声の特色が節々を彩る。声の個性は本質的に言語化不可能であり、だからこそハーモニーを公式づけることは難しいが、『Air』はV6の歌割りという問題の最適解のひとつだと思う。

ボーナスCDにも西寺郷太提供『Dancing Machine』、スケボーキングのShigeo提供『Magical Mystery Song』など良曲が並ぶが、何と言っても三宅健のソロ『" 悲しいほどにア・イ・ド・ル" ~ガラスの靴~』が目を引く。SHBコンのDVDを買ったのだって、このパフォーマンスが素晴らしいからだった。ギャグにも見紛うタイトルからは想像しがたい、アイドル的に危うい域を描写した歌詞と、クセの強い声とマッチするトラック、ハイクオリティなダンス。

 

  • Satomimagae 『koko』

Koko

 

MORE RECORDの試聴機で一曲目の『Mikkai』を聴いた時、日本の音楽とは思えないほど冷たい感触に絶句した。何の陰にもなっていないところに暗闇がぽつんと、しかし確かに浮かんでいる。それを見れば見るほど自分の視野がカメラのようなズームを働いて、その闇しか目に映らなくなっていく、そういう印象を覚えた。二曲目『Chuya』を聴いても同等のショックがあったので、これは買わないとダメだと思ってすぐ買った。

しかも、その後どれだけ聴いてもはじめの冷たさが失われない。CDでも本でもなんでもそうだが、普通なら鑑賞を繰り返せば繰り返すほど、新鮮さは衰えていく。このアルバムはどれだけ聴いても、自分の体温が移ることもなければ、暗闇の恐怖が薄らぐこともない。何か絶対的なものがあるのだ。

どうしてここまで原始的な不安をあおられながら、かじりつくように聴いてしまうんだろう? 不協和音すれすれのところで波打つメロディとギター、ホラー的にさえ聞こえさせるリバーブ、抑制の効いた歌声、痩せた詞。普通の快楽は全くない。しかし異常な快楽がわずかに意識に紛れ込んできて、時々知覚される。その時、首に通っている神経全部をじかに触られたような戦慄が体を走る。

初めて羅針盤の『がれきの空』を聴いた時のように美しいと思った。しかし羅針盤ほど優しくもストレートでもない。初めてGodspeed You! Black Emperorのライブを観た時みたいに、拒絶的でさえある力強さを感じた。しかしGY!BEほどエネルギッシュでも放射的でもない。このアルバムは峻烈だ。そしてスカラーのように静かだ。

 

  • yukaD 『yukaD in the house』

yukaD in the house

 

盟友・グッドラックヘイワの客演がすばらしいyukaDの2nd。特に伊藤大地のドラミングには目を瞠るべきものがある。『君はDancing Queen』の、手数が増えても性急に聴こえない感じは何なんだ。

1st『Exhibition』より更に曲自体が良くなって、しかしyukaD一流のさりげなさは保たれている。

よしながふみのマンガの中に、こんな批評文が登場する。

「若い時分というのはどうしてもその曲を一小節たりともつまらなくは歌わないぞという力みがあって それが聞いている者をうんざりさせる時があるのだけれど 不思議なことに田中吾妻の歌声にはそれが全く無いのだ むしろあまりにあっけらかんと歌い上げてしまっているので 彼の歌声には一種の悟りのようなものすら感じられるのだ」

白泉社文庫『ソルフェージュ』収録「ソルフェージュ もう飛ぶまいぞこの蝶々」より

 

yukaDの歌にはうまぶったところもなければ、感情を込めまくった節回しもない。素朴な歌詞が淡々と歌われる。その飾り気のなさに超然としたものを感じられる。まさにyukaDが悟りを開いているためなのか、それとも彼女の歌の中に悟りの端緒になるべきものを感じているためなのか、まだ判断はつかないけれど、このアルバムは人生を生き抜くための教えを、多少なりと孕んでいると思う。

以前に1stについて書いた時(夏から秋ぐらいによく聴いていたアルバム - キャベツは至る所に)、yukaDは生活を歌っているから普遍的だとした。

『yukaD in the house』もまたそうだ。中でも『On the corner』は生活の中の悲劇と喜劇のことを簡潔に歌い、そして誰をも励ましている。

「どこかで誰かが歓喜にあふれていれば たまに訪れるだろう 悲しみも海に流せる」

稀なまでに、ポップスとしての力に溢れたパンチラインだ。

アルバム全体の曲の歌詞を少しずつ寄せ集めて、シングルエディションとは違った出来上がりになった『日帰りでいい ~yukaD in the mix~』も素晴らしい。っていうか「本当に時間がなかったら 日帰りでいい 日帰りでいい」の力強さは普通じゃない。つまり「悲しみも海に流せる」ような「歓喜にあふれ」る瞬間を、どうにか作ろうということだ。それを「日帰り」という有り物のような言葉で十全に語ってしまうセンス。やっぱりyukaDさん悟ってんじゃないのかな。