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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

ceroについて

音楽

VJの入っていないZeppのステージで、ceroは今夜、2曲目に『マイロストシティー』を持ってきた。以前のキラーチューンの筆頭であり、VideotapemusicのVJが入る時には、『汚れた血』のジュリエットビノシュがバンドの背後を彩っていた曲だ。その曲で、シンプルな照明がメンバーを照らし、影が大きく映し出されるだけで、「今までのceroではない」と思った。「これまでクライマックスを作っていた曲で、彼らは今、回転数を上げている」。単に練度を増しただけのことで、彼らは今まで観てきたのとは別のバンドになったと実感させられた。

 

ceroを初めて観たのは埼玉の小さなライブスペース・TOIROでのことだったが、たった3年の間にZeppでワンマンをやってソールドアウトをかますバンドになってしまった。ものすごいことだ。
TOIROでも聴き、今夜のZeppでも聴いた『大停電の夜にceroへの好印象を決定的にしたのはこの曲だった。これこそ新しいポップスだと思わせてくれた曲。世界の何かが間違っていると誰もが分かっているのにそれが解消されない感じ、それでもどこかには素晴らしいものがあると疑わない力、その二つが併存した至純の名曲。そんな曲が時を経て、会場のキャパシティをものすごく広げてなお同じように聴けて、とても嬉しかった。もちろんTOIROと今夜とで、音の違いがなかったわけではない。まずドラマーとベーシストが当時とは違うし、ぼくの耳と記憶が確かなら、今夜のギターソロには以前にはない、リングモジュレーターか何かが噛まされていた。けれどホーンを入れず、ツインギター・キーボード・ベース・ドラムだけで奏でられた今夜の『大停電の夜に』には、オリジナルメンバーが奏でた原曲に宿っている、あの奇跡じみた無力感――若者の眼が夜の向こうに世界全体を動かす機構を透かし見るような、あの小ささと美しさが充分に染みていた。

そう、ぼくが知った時のceroは、ものすごく尊い意味で小さかった。ファースト『World Record』に見られる室内楽としての素晴らしさのように。そしてセカンド『My Lost City』は、ファーストで“収められていた”エネルギーが解き放たれたかのようだった。一枚の盤に要素をすっきりと収めてしまうという、ポップスとしてのひとつの理想を既に体現していた『World Record』。そこから然るべき手段で解放を見た『My Lost City』はファンタジックな浮遊感の中に、アイロニーに宿るべき厭世観がちょっとだけ混ぜ込まれた、何とも愛すべきアルバムだった。『My Lost City』以後、当然のようにceroは売れた。観に行くたびに会場が大きくなった。Nabowaとのツーマンだった渋谷Club Quattro、(カクバリズムのパーティーであって単独ではないが)Studio Coast、ワンマンにして盛況を博したAX。そして今夜のZepp東京

今回の『Obscure Ride』で、前作で解き放たれたエネルギーは放散してしまうどころか、新規メンバーの手も加わって、密度を増し続けた。結果として、現実と幻想が混濁した歌詞に負けない、複雑な演奏がかたちづくられた。『My Lost City』にある、遥か遠くを望む時のようなカタルシスはそこにはなかった。もちろんそれとは別物の、麻痺や錯誤を誘う精妙な快楽がある。ぼくはその変化を偉業のように感じたが、リリースツアーにおいて、客席の雰囲気はどうなるのだろうと思っていた。セカンドリリース当時のceroのライブの空気は、今考えても少し熱病的だったと思う。誰もがセカンドのクオリティを疑っておらず、例えば『Contemporary Tokyo Cruise』で誰もが多幸感と一抹の哀しみを同時に感じていたように、例えば『わたしのすがた』で誰もがビートの反復に踊りながら狂気の恐さを舐めたりしていたように、線の引かれた一体感に満ちあふれていた。全てはメロディのキャッチーさと器楽のユーモア、諧謔的な歌詞、そして2011年という年が生んだ清涼剤としてのニーズによる――人によっては《清涼剤》どころではなく、救済としてあのアルバムを聴いていただろう。

『Obscure Ride』は控えめに言って濃密だ。歌詞は諧謔というより眩惑的なものになり、演奏はユーモラスというより、沈鬱さや粘度を取り込んだ複雑なものに変わった。それはセカンドのような、普遍的でオープンな幸福感を作らないかもしれないと思った。しかし実際には違った。観客は皆、髙城晶平に煽られるままに新譜の曲を歌った。実際ぼくも歌った。曲が醸す空気は紛れもなく変わりながら、観客が作る空気はほとんど変わっていなかった。

今実際に『Obscure Ride』を聴きながらこのエントリを書いているのだが、メッチャ踊りたくなりこそすれ、会場で体感したほどに強烈に歌うことを誘発されるとは、なかなか想像しがたい。比較的前列にいたから思うのかもしれないけれど、盛り上がりとしてお膳立てされた曲でもなく、歌詞にシンプルな意味が一貫しているわけでもないところで、あそこまで声を揃えて大勢が歌うのが感動的だった。歌詞が暗示的で情報量も多く、侵しがたい固有の雰囲気をまとった楽曲でも、コーラスパートで平然とシンガロングが起きる。そしてその歌は、楽曲の情感を害することがない。演奏を聴きたくて周りの歌を感じているどころではないという理由もあるはずだが、観客の歌は度を越せば、舞台上の質とは無関係に場を醒めさせるものだ。なぜそうは感じられなかったのだろう。

理想論じみた感想かもしれないが、皆ceroと彼らの楽曲に魅了されているせいではないだろうか? それも判断を失っているのではなく、シラフのままで。

AXでのワンマンで、髙城くんは「AXでワンマンが出来るようになった」ことに感動しながらも、面白そうに「どこまで行くんだろうね」と言ってみせた。頼もしくもあり、どこか他人事のように言うのがおかしかった。ceroは楽曲と演奏を進化させながら、ステージ上での振る舞いを全然変えない。めちゃくちゃにノらせておきながら、直後のMCでさもないことを話してこっちを脱力させてきたりする。奏でる音楽が複雑になってもドッチラケなMCとの繋がりが死んでいないから、曲に酩酊する自分とシラフで笑う自分を自然に行き来できる。そこでは音と自分の境界を失うような狂騒は起きず、妙味を汲み尽くそうとする研究心のような感情と、バンドへのちょっとした畏怖が生まれる。そんな感情を持ちながら、自分が善がるためには曲を害することも辞さないという態度は取れないはずだ。

ceroの楽曲とライブは魔法じみてきているが、彼ら自身がすぐに現実に立ち戻って、やれ井上雄彦の『リアル』読んで泣きそうになってるうちにメンバーがアフロになってたとか、やれライブの日は前は赤フンだったけど今はノーパンに進化したとか言い出すので、ぼくたちも現実に根差したままトリップできる。芸術作品の面白さに確かに触れた人なら知っているだろう、作品の効能によって二極的なものが極としての関係を失う瞬間は、何物にも代えがたいほどの快感をもたらす。軽妙な重厚さ、眩しい闇、甘やかな痛み、美しい醜さ、静かな轟音。

ceroはきっと現と魔の共立を、彼らの音楽の中で体現していくだろう。今夜のライブでそれを確信した。

 

今年の初め、『Yellow Magus』のマジックリアリズムの感触になじめず、しかし『Orphans』では激しく感動して、ぼくはこんなツイートをしていた。 

あれからceroは、素晴らしい楽団でいながらにして、ハーメルンの笛吹きになった。しかし子供たちをちゃんと家に帰してくれる。