キャベツは至る所に

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butaji 『アウトサイド』

Outside

 

全ての曲が体に染みついて、どの曲も歌いたくなるようなアルバムをいつぶりに聴いただろうか。全10曲、34分。決して長くはない再生時間の中に、たくさんのファンタジーと切なさが込められている。

 

一曲一曲の意匠がものすごく丁寧なアルバムだ。ほとんどの曲に予想外の展開が含まれていながら、予想を裏切られた時の驚きがとてもソフトで心地良い。吹きだしてしまう唐突さではない。ピンスポットの下に、白く美しい手が暗闇からまろび出てくるようなやわらかさと鮮やかさ。そんな展開が曲をガタつかせるわけもなく、メロディと歌声の魅力をよりクリアーに聴かせてくれる。

そうして響くbutajiのローキーな歌声は、耳と心をつんざくようにではなく、肌から芯へゆっくりと浸透するように聴く者の中へ入ってくる。ギターでの弾き語りなら、タガのない自由さをもって。シンセサウンドでトラックが組まれているなら、前作『シティーボーイ☆』でも顕著だった幻想的な浮遊感をもって。生のベースやドラム、トランペットが入っている曲では、素直な勇壮さを帯びて。

 

散りばめられた光・速度・時間などのキーワードと、《僕》や《君》《あなた》が関係しあう歌詞もまた、うまくbutajiの歌そのものを抽象化させている。それ自体意味深長なキーワードを含む歌詞が情景を描くとき、キーワードが孕んでいる予感やドラマは、記憶やリアリティといった聴く者固有のものを使って像を結ぶ。きっとこのアルバムを聴く誰しもが、微妙に違った像を瞼の裏に描くことだろう。

ポップスとは、万人に分かりやすいようにと作られたものではない。そんな《万人》を舐めた態度で、訴求力のある表現はできない。ポップスとは、万人のちょうど中間に位置するただ一点を穿とうとしたものだ。その一点を目にする時、人という無数の点は巨大な星座を形成しているのではないかと気付き、その複雑な美しさに震える。それがポップスに対する感動というものだ。

何度も何度もアルバムを通して再生して、#9『Light』の最後の一節に、ぼくはぼくと誰もの中間地点である一点を見た気になっている。

 

   さよなら偉大な情報網よ

   僕は残らず待たず

   ただ綺麗な虹が見たいだけ

   奏でる地形ごとのソウルミュージック

   街のどこかでそれが

   流れるなら歌っていたいだけ

 

 音楽を愛しながら生きようとする人の姿勢を、これだけ端的に無駄なく、これだけ美しく歌った詞があるだろうか。ビジネスとしての存立の問題は抱えているにせよ、良質な音楽は日々生まれ、発信され続けている。ぼくたちは表現を愛するにあたって、表現を選別しなければならない。全ての表現を鑑賞し、理解する余裕は現代の誰にもない。量の厖大さに目を眩ませるのも、意固地に一つ所に留まるのも、そんな環境においては単なる視野狭窄だ。ただ歩き続け、辿り着く所々で出逢ったものを愛でる。言ってしまえば何のことはないが、こんな歌を、あの声で、ギター一本で切々と歌い上げられては、奇跡のようなものを感じずにはいられない。

『Light』を引き合いに出したのは、本当に大好きになってしまったからとしか言えないが、振り返ってみればどの曲にも同じ力がある。局在化されない、一個の抽象的な楽曲として存在し続ける力が。情景と感覚と、今ではない時間とここではないどこかへの意識がそこにはあって、つまりぼくたちはこのアルバムを見てどこかを幻視できる。

このアルバムを聴いて思い出した。小説や映画とはまた違って、音楽は指し示されていないところへと聴く者を飛ばすことができる。音楽そのものが宿している情景や、自分で描く情景に限らない、二つの情景が摩擦し合って生まれた見事な錯覚の地平まで、音楽を愛する者は飛べる。時間の裏側へ、ここより遥かへ飛ばせてくれる名盤。