キャベツは至る所に

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『夜の緩やかな唸り』

夜の感覚の小説です。

 

 

 海のある国の内陸に住む人は、海の記憶を忘却の殻に封じながら生きている。あまりに幼いころ浴びただけで、いつしか忘れてしまった海水の温度。車窓の外に見た海原。古代に最果てと信じられたのも頷ける、人の目を瞠らせるために広がったような水。舌の根と喉が勝手に塩辛さを思い出すにおい。浜の砂粒は夏には汗と雑じり、冬には乾いた肌をやわらかく刺す。そうした記憶はすべて、生活に立ち返ったあと、紀行の思い出用の特別な箱に仕舞われる。

 中国やアメリカのような広い国土の上では、浜辺に一度も近づかず、生まれた土地で、樹のように強固に静かに生きて死んでいく人もいる。その人の舌は海水の狭くて深い塩辛さを知らない。髪は潮風に固まることを知らず、唇は砂粒の小ささを知らない。しかしその無知は釣り針になって、本や映画が食らいつくのを待っている。叙述された海、描かれた海、撮影された海は、まるでそれをあてがうための窪みが人間全部に彫られているかのように、印象的な知識となって彼らの頭脳へ組み込まれる。

 生活の中で褪色するその絵画は、あるとき自然に復元する。風太は内陸の県に住んでいて、海をその目にしたことがない。親に確かめたところ、小さい頃に海へ行ったこともないという。しかし、唾以外の体液が舌に触れたときに味わう、その塩気から生き物の生理を学び取るような感覚は、どうしても彼に海というものを思い起こさせた。記録映像で観た、煙草のけむりのように水中を漂う鯨や鮫の血を思い出しているのか、それとも教科書でカンブリア爆発の想像図を見たとき感じた、極彩色の歴史を学ぶとき特有のふしだらな面白さを、味の刺激から思い出したいのかとも考えた。しかし、どんな理屈も風太を納得させなかった。体液の腥い味は、発想や記憶の混濁といった回路を必要とせずに、彼の決して経験していない海に直結しているようにしか感じられなかった。

 風太は友人とまめに付き合うが、稀にある海水浴の誘いは断ってきた。去年大学に入り、人の車で遠出する機会を持つようになっても、その拒否を続けた――といっても、実際に折り合いがつかないこともあったので、気分を理由に断った回数は、片手で数えても指が余る程度だったが。風太にとって、海に行くことは特別な事件で、運命が予感できない成り行きでそれを迎えるのはなるべく避けたかった。大学二年の夏も、海に行かないまま過ぎた。

 授業が終わった水曜日、すっかり日が暮れているのに学食に居残って、友人たちとさもないことを喋っていた風太は、鞄の中で携帯が震えていることに気付いた。吉野から電話がかかってきていた。すぐに着信は途切れたので、風太は食堂から外へ出て、折り返し電話をかけた。呼び出し音が何回か続き、もう吉野は携帯を仕舞ったのかと思ったその刹那、吉野が電話に出た。

「もしもし」

「吉野さん? どうかしました?」

「いや、金曜の夜、暇かなと思ってさ」

「今週末ですか? 泊まり?」

「そう。忙しい?」

「いや、暇ですけど」

「じゃあ、どう? どうせ家でだらだら酒飲むだけなんだけど」

 吉野は風太よりも十歳近く年上だが、一年前に出会ってから、つるんで遊ぶ仲を続けている。吉野は当時風太バイトしていた店の常連だった。気さくな男で、何度も顔を合わせているうち、風太も彼を憎からず思うようになった。そして吉野は、そうした好意の萌しを見つけるのがとても上手な人物だった。二人は話をするようになり、すぐに友人として付き合うようになった。

 吉野はいつも風太に金を払わせない。財布に入っている金の額や口座の残高が一瞬ちらつき、風太の心は決まった。もっとも、金勘定が決め手になった訳ではなかった。吉野の誘いは、いつも風太にとって嬉しかった。

「じゃあ、久しぶりにお邪魔していいですか」

「よし。多分もう一人増えるけど、いいか?」

 吉野は事もなげにそう言ったが、風太の心には、足元を震源とする地震を感じた時のような素早い不安が生まれた。さして面白くない遊びや会話が二人の間でゆるやかに回転していくうちに、おかしくてたまらないものに見え始めていくあの感覚を、既に風太は予感していた。例えどんなに心安い人物でも、そこに第三者が加われば、愛らしく回転する時間はむしろ、風太と吉野から遠ざかるための遠心力を生んでしまうだろう。しかし三人で集まることを吉野が自然に話す以上、それを嫌がるのはためらわれた。もしそうしたら、自分の病気をうつしてしまうような感じがした。

「いいですよ、誰ですか?」

「倉沢。覚えてる?」

 よりによって、と風太は思い、唇を噛んだ。吉野さんの友達は何人も知っているけど、よりによって一番苦手な奴か。心底から敬うかは別として、年上の人間に向ける言葉を選ぶほどには、風太は礼儀を知っていた。胸の裡で呼ぶにしても、「奴」と呼ぶ年長者はそういなかった。

「吉野さんの友達でしょ、昔からの」

「そうそう、何回か会ってるよね? 行けたら行くとか言ってたけど、そう言ってあいつが来なかったことないから、多分明後日も来るよ」

 明後日が初めての不参加の日になればいいと思いながら、風太は相槌を打った。待ち合わせの予定を適当に決めて、電話は終わった。簡単に行くと返事をしてしまったことを風太は少し悔やみ、倉沢が来ると先に言わなかった吉野の話しぶりを卑怯だと感じ、そう感じたことを子供っぽく思って恥じた。温く湿気た風が吹いていて、風太の気をいっそう滅入らせた。暑いか寒いかはっきりしろと気候にさえ毒づきたかった。風太はそのあと友達の所に戻ってからも、木曜の夜にバイトをしている時にも、期待と厭悪のどちらにも転がり切らない気持ちを持て余した。規則正しい痛みよりも不規則な痒みの方が耐えがたいように、気持ちがひとところに定まらないことが風太を苛立たせたが、小さい頃はこうしたヤジロベエをいつも心に立たせていなかったかという懐古が、時々彼を落ち着かせた。

 

 金曜日、風太は大学から一度家に帰って、通学用の鞄から教科書やノートを出し、代わりに着替えや歯ブラシを入れた。吉野は風太の家の大体の位置を承知しているので、近所まで車を回してきて、風太をピックアップしてくれる。外泊をすることは水曜の時点で知らせてあったので、母親はすんなりと風太を送り出した。高校の時分には夜遊びも酒盛りもしたことのなかった風太が、大学に入るや否や、新歓コンパだ友達の下宿に泊まるだと言いだした頃、母親は眉をひそめたものだったが、もう小言を言われることもなくなった。

 吉野という社会人の友達がいることを、母親に話したことはない。今日も「友達の所へ遊びに行って、そのまま泊まる」とだけ伝えて、それで母親は納得したので、風太は特別な説明の必要を感じなかった。

 風太は待ち合わせ場所のコンビニへ向かう途中、においのない冷たく乾いた秋の風を浴びた。風太の家は高台にある。そこにゆっくりと吹いてくる風には、下の平地を撫でたための地味が含まれるが、強く吹いてくる風には、空気の嵩の多いことを思い知らせる、濃い無臭の実感が充ちている。風太は自分の名前にもなっている風という現象に、秘かな愛着を持ち続けていた。この風に花木の匂いが付いていれば、自分の心を気分に左右させずに保てるという自信を持てただろう。湿ったごみの臭いでも付いていれば、徹底的に気持ちを散らかして、吉野なら好ましく思うであろう割り切った乱暴さを持てたかもしれない。しかし風太の鼻は、土や埃のにおいを微かに捉えただけだった。風太は風が吹いてきた方をじっと見た。建てられた年代にも位置にも統一性のない家屋が点在しているが、平地の大部分は畑や空き地で占められている。畑と更地のあいだに樹が立っているような所もあり、上から眺めただけでは、どこからどこまでが誰の土地かは判断できない。水路のそばには田んぼもあり、すっかり日が暮れた今でも目を凝らすと、肥った稲穂を辛うじて認めることができる。宵闇の中にわずかに白っぽく見える稲穂は、日の光の下で黄金色に照っている時よりも、いずれ人の主食となることについての説得力を強く持っている。

 風太が暮らすこの土地は、古くはもっと盛んな農業地帯であったが、高度成長の中で兼業化が進み、畑を潰す家も増えていった。風太はおぼろげにしかそうした推移を認識していないが、年季の入った家の多くは、土地を売った金で建てられたものか、畑を均して建てられたものだ。今では年若い風太が農業だけでもっている家など果たして近所にあるのかといぶかしむほどである。

 建物の少ないこの土地に吹く広がりのある風のことを、風太は愛していた。その気持ちに濁りはなかった。風太は時々、生まれ育った土地に吹く風を愛せない人はいるのだろうかと思った。そこがどんなに熱く乾いた土地でも、雪や氷で暮らしが締めつけられる土地でも、風を憎んで生きていけるだろうか? たとえば温順な土地で暮らしながら、季節ごとに巡る風をいちいち憎む人がいたなら、その人は貧困より差別より根源的な不幸を持っていることにならないだろうか?

 風太は風に今夜のことを占おうとしたが、何の閃きも得られなかった。しかし体が冷えたことを、風をたくさん取り込んだことのように感じ、少し機嫌を良くした。

 

 コンビニの広い駐車場に、吉野の車が入ってくる。風太は立ち読みをやめ、用意していた二枚の百円玉をポケットから出し、レジでそれを遣って小さなコーヒーを二杯買った。そして店を出ると、一旦は駐車枠に入ろうとしている車へ近づいていった。すると吉野が運転席の窓を開けて、よお、と声をかけてきた。

「後ろ乗ってくれるか」

 その言葉に素直に従って、風太は後部座席のドアを開けた。そして助手席に乗っている倉沢と目が合った瞬間、失敗の鋭い感触がいくつも体を刺し、そこから肌の粟立ちが広がっていくのを感じた。三人以上で遊ぶ場合に吉野が風太を迎えに来る時は、他の面子を吉野の家に残してくるか、風太の後に誰かを拾うかのどちらかだった。「後ろへ」という吉野の指示の意味を汲み取れなかった自分の鈍さが、この後も失策を誘うのだろうと拗ねたあと、手に持ったコーヒーが吉野への差し入れとしての役割を失くして、慎重に着地点を決めねばならないものに変じたことに気が付いた。助手席に乗って、隣の吉野に渡し自分のホルダーに差し込むはずだった、二つのカップ。

 倉沢は一言も発しないまま、しかし明確に手を挙げて、風太に挨拶した。身振りの鷹揚さに腹を立てたことを気取られまいと努めながら、会釈を返す。そして、

「吉野さん、倉沢さん、これどうぞ」

 これがいちばんスマートな解決だと判断して、カップを二つとも前に差し出した。

「おっ、ご馳走さん」

 吉野は喜んでカップを受け取り、ホルダーに落ち着かせた。しかし倉沢は風太の顔もろくに見ず、前を向き直りながら、

「自分の分なんじゃないの? 俺はいいよ」

 にべもなくそう言った。虚しさと怒りと悲しみとが一度に沸き立って、やがてそのうちの一つの感情が風太の心を占めた。

「貰えばいいのに」

「いや、彼のだろうからさ」

 風太の胸に安定したのは悲しみだった。それは吉野と倉沢が二人で会話を続けることで、怒りよりも虚しさよりも速く固化を進めた感情だった。自分の気持ちはこんな風だと言わんばかりに泣き出せるほど風太は子供ではなかったが、かといって軽口で二人の会話に加われるほど気持ちの舵取りがうまくなかったので、黙ってコーヒーを啜った。俺は黙るのだと思い知るために、カップに口を付けた。

 吉野がコンビニを出ようとした時、倉沢がそれを止めた。

「どうした?」

「いや、手持ちが全然なかった。金おろしてくる」

「いいよ、出しとくよ俺、この後なら別に」

「いや、マジで全然ないんだ」

 倉沢はそう言って車を降りて、コンビニへ入っていった。窓越しにその姿を見ていて気付いたが、倉沢は背広を着ていた。運転席の吉野も同様だった。

「悪いね、ちょっと待ってて」

「いえ」

 吉野もコーヒーに口を付けた。カップには上蓋が付いていて、車内の空気とコーヒーは広い接触を持たないが、風太と吉野とがカップを傾けて香り高いものを口へ注ぐたび、熱く複雑な香りがセダンの低い天井に煙り、易々と二人の鼻腔へ戻り来た。密室で濃いものを飲んでいると、口の中に時間の味まで広がる。

「二人とも、仕事からそのままっすか?」

「うん、そうだよ」

 風太は自分の発した言葉が、気持ちのささくれに一度も引っかからなかったことに少し驚いた。先程まで痛みをにじませていた強張りが、今はもう消え失せていた。飲み下したものの熱がそれをほぐしたのかもしれなかったし、味蕾に沁みた味の豊かさが、吉野とのコミュニケーションを促したのかもしれなかった。

 吉野はまたコーヒーを飲み、口や喉にわだかまる熱気を慎重に処理するような息を吐いた。吉野自身は、自分の疲れがその響きをため息のようにしていると気付いてうんざりしたが、風太はその気だるい調子を、コーヒー特有の催眠と覚醒両方の作用の反発、その現れだと感じた。吉野の息は対流を起こし、車内の熱分布を変えた。風太は、いま自分は全面的になじんでいっていると思った。

 倉沢が助手席のドアを開けたので、車内の香りや熱は外気で薄められた。

風太、晩飯、何がいい?」

 車を駐車場から車道へと滑り込ませながら、吉野がそう訊いてきた。

「油っこいものがいいっすね」

「若者らしい!」

 風太は吉野と話しながら、もう自然に笑うことができた。倉沢が携帯を触り始めたことで、会話のハンドルを風太と吉野しか握っていないのが明らかになったせいもあったが、それだけではなかった。先ほど沸騰した哀しみは、まだ風太の意識を火傷させていたが、そこに冷たいものを当てることはできていたし、無傷の部位だけを働かせて心を動かすことも、もう可能だった。

「クラも油っこいものでいい?」

「油っこいものって、例えば何?」

 倉沢は風太の注文にも、吉野のあいまいな質問にも苛立っておらず、微笑しながら質問を返した。風太は自分の火傷を冷やすものが、その冷たさを保つ自信を強めた。

「焼肉とか揚げ物とか? そういうのだろ、風太

「ああ、揚げ物いいですね」

「いいんじゃない」

「じゃあ、カツとかかな」

 店をどこにするかということには言葉が及ばないまま、話が途切れた。風太にも倉沢にも、何も言わなくても適当な店に到着するだろうという安心があったし、吉野も二人がそういうつもりだと分かっていた。風太の地元から吉野の家までは、車で二十分はかかる。仕事でよく訪れる機会があるので、吉野は風太の地元の地理も、自分の家との中間の地理もよく知っている。車はためらいなく進み、二車線の県道に入った。いつもそうであるように、吉野は音楽をかけていなかった。タイヤがアスファルトから吸い上げてくる、摩擦と振動の音が車内を充たしていた。それは音というより、簡素な呟きでも引き裂けるほどの脆い静寂に近い。三人の車を追い抜いていく原付の排気音や、対向して走ってくる大型車の風切り音が、紛れもないうるささとして時折三人のからだ全体を浅く刺した。

 秋の日が暮れて、ヘッドライトの白さや、外灯の光の赤さを際立っていた。宵闇と光のあわいは必ず柔らかい。風太は同乗者の特権を活かし、思い切り気分を弛緩させて、流れていく景色を見遣っていた。家の近くを通る道だけに、風太が生活の中で触れてきたものがたくさん見つかる。両親の実家に行く手土産に菓子を買った店、友達と自転車で訪れた古本屋、ゲームショップ、駄菓子屋、そうした店が閉まった跡。吉野の車に乗ってこの道を走るのは初めてではないが、いつも風太はこんな時、自分はいま哀しいのかもしれないという気分になった。ぼやけ過ぎていて輪郭も掴めそうにない気分だった。哀しみのように思えながら、正体を突き止めたらそれが幸せだったと知るのかもしれないとも思えた。新しい友達の車で走る馴染みの道には、冷たいとも熱いとも知れない気配が広がっていて、風太の言語野の働きを鈍らせた。

 風太の舌の根に、コーヒーによるのではない苦味が広がる。味のない液体で洗い流したくなるようなその味は、実はそれは一時的な腫れであったかのように、舌が正常な形へ萎んでいくみたいにだんだん消え去ってしまう。この感覚は、正体不明の感動を持て余したときに起こりがちな、風太のよく知っている錯覚だった。風太はこの味覚的刺激らしきものを、言葉にしなければ害になる、しかし自分の能力ではまとめ切れない感懐を鎮静させるための分泌液だと思うことにしていた。

 海に潜るのはこんな気分かもしれない。そう妄想した途端、風太は暗く透明な周りの外気から、海底の静謐を聴いた。先ほど浴びたばかりの冷たい風の肌ざわりが、風太の中で急速に建て上げられていく海のイメージを、不均整でぐらぐらした妄想ではない、皮膚感覚と詩情を漆喰とする堅牢なものにした。吉野が走らせる車はもはや遊覧船の気楽さのある海底探査船で、街路灯はその船のサーチライトだった。日光を分解しきった海底の闇、そのごく一部を貫く照明が砂や岩を時折照らす、天然が作った眠りの直喩のような光景を、風太は思い出していた。いくつの時に観たのだかも忘れてしまった、テレビ番組か教材ビデオの映像。

 夜の海はただ暗く、溺れた人を夜に助けるのは至難の業だという。月明かりも星明かりも水が吸い、海面の平坦さが闇の広がりをより確かに感じさせる、残酷なまでに空間的な暗さ。すばらしい知識や美しい記憶を持った人間さえ、単なる栄養の粒の集合としてしか飲み込まない機構。息をするのがとても簡単な故郷の街に、今まで数多の人の肺に水を充たしてきた海の写し絵を貼り付けながら、風太はまだ熱いコーヒーを飲んだ。故郷と海とが混ざり合い、分類のしづらい色で心が染まっていく感覚は、海が生死の混濁によって塩辛い味になっているのと無関係だとは思えなかった。

 風太が家から遠ざかったことによる淡い高揚を感じ始め、吉野が家に近づいたことによる使い込まれた安堵を感じ始めるような場所で、車は危なげなく左折し、トンカツのチェーン店に入った。風太は海のことに囚われていたが、あまりに自然に気を取られていたがために、そこから逃れることも同じぐらい簡単にできた。

 

 店は週末の夕食時だけあって賑わっていたが、ちょうど僅かな空席があって、三人はすぐに座敷席へ案内された。自分の踵を踏みつけるようにして風太がスニーカーを脱ぐのとあまり変わらぬ速さで、吉野と倉沢は紐の付いた革靴を脱いだ。革靴を履き慣れていない風太は、二人の所作の滑らかさに年長者としてのものを感じた。吉野と倉沢も靴が三足並んだのを見て、風太がいることで、自分たちがどういう集団か推し量るのが難しくなっているだろうと思った。

 三人とも、何となくその並びが当たり前だろうとぼんやり思いながら、席を決めた。吉野と倉沢が隣り合って座り、風太はその向かいに座った。

 風太は初めて入る店だったが、奢ってもらう立場を弁えて、どういう物を頼もうか考えていたので、すぐに注文を決めた。吉野と倉沢はこの店や、同じチェーンの違う店舗を使ったことがあったので、すぐに品書きを閉じ、店員を呼んだ。恐らく高校生だろう、マニュアルを覚えたまま話しているのが発音から明らかな男の店員が、三人の前に水を置いた後、注文を取り始めた。風太は品書きの初めに載っていたシンプルな定食を頼み、普通の量と値が変わらないので飯は大盛りでと付け加えた。吉野はカツの他に海老フライも添えられた定食を頼み、倉沢は一人分の揚げ物の盛り合わせと瓶ビールと枝豆を注文して、飯は頼まなかった。

風太くんは飲まなくていいの?」

「はい、まだいいです」

 倉沢は吉野に遠慮しない。運転を任せながら自分だけ酒を飲むことをためらわないし、それを前もって断ることもしない。自分がそう振る舞うのだから、風太一人に遠慮をさせるのは気持ちよくないとは思って風太にも声をかけたが、風太は吉野に先んじて酒を飲むつもりにはなれなかった。風太にとってその態度は、世話をしてくれる人への仁義でもあったが、吉野個人への好意の示し方でもあった。

 吉野と倉沢の付き合いは古い。小学校から大学まで、同じ学校に通った。高校に上がるまで、二人は連絡先を教え合ってはいたが、とびきり親しくはなかった。しかしその頃、特に何のきっかけもなく、十年近く付かず離れずの距離を保ち続けていることがおかしくなって、どちらからともなく声をかけ合うようになった。大学に入っても二人は下宿をせず、寝起きする家が近いままであったから、気まぐれに夜中に待ち合わせることもあった。

 四年前、大学を卒業して三年が過ぎた年のこと、吉野の両親が亡くなった。バス旅行中の交通事故による死だった。吉野は信金に就職してからも家に残っていたが、彼には兄弟がないので、住まいは吉野が守ることになった。保険金と給料を合わせれば、戸建の家を維持するのはさほど難しくなかったが、両親を突然喪ったことは、いつも明るかった吉野の顔からたくさんのものを奪った。若い男なりの杜撰はあるにせよ、家事を少しずつこなせるようになった頃、吉野は家に友達を呼びまくるようになった。親しい者をよく泊めるようになったし、新しい友人も気軽に家に上げた。ただ同然で間借りをさせたり、恋人と同棲をしていたりしたこともあった。吉野が干渉しないことに甘えて、長く居候をする輩もいたが、吉野は少しも嫌がらなかった。全ては家で一人過ごすことから逃れるためだった。

 こうした話を、風太もこの一年で断片的に聞いていた。だからお前みたいな子まで引っかけてるんだよと、吉野はしらふのとき冗談めかして言った。葬式に出たことのない風太には、身内の死をなまなましく想像することもできなければ、吉野の顔や話を見聞きして胸に熾った火が、吉野への同情なのか彼の両親への追悼なのかさえ判らなかった。親の死を語る吉野の眼には、悲劇の残滓らしい涙は見えなかったが、もっと不思議な、もっと毒々しい光が見えた。

 料理が来る前に、倉沢が頼んだビールと枝豆が運ばれてきた。じゃあお先に、とだけ言って、倉沢はビールを注ぎ、一杯をすぐ乾した。

「いかん、スーツ脱ぎたくなってくるな」

 倉沢は二杯目を注ぐ前にネクタイを取り、背広のポケットに仕舞い、シャツの第一ボタンを外した。その姿は、吉野にはいかにも金曜の夜のサラリーマンという風に見えたが、スーツを着慣れていない風太には却って洒落て見えた。

 倉沢が二杯目に口を付けても、これという会話が生まれなかった。吉野と二人でいたなら、風太も黙っていて苦ではなかったが、倉沢という人が加わると、沈黙は風太を浮き足立たせた。風太は手持ち無沙汰になり、喉も乾いていないのに水を何度も口に含み、コーヒーの感触がいよいよ薄くなっていく感じを味わいながら、今の自分は誰の目にもひどくつまらない人物に見えるだろうと思った。三人で黙っている時の不自然な挙動を好まないために、倉沢は自分を軽んじているのかと思うことがあったが、それは風太自身、安定剤代わりの屁理屈とも思えていたし、実際倉沢に風太を軽んじているつもりはなかった。

 吉野と倉沢も、話をしなくても辛くない間柄で、今も沈黙をはっきりと耳にしながら、会話を生まねばならないという焦りを風太ほどには覚えていなかった。吉野は飲んだ倉沢としらふのまま話すのが少し億劫だったし、倉沢は酔って饒舌になるたちではなかった。

「吉野さん、今でもあそこ行ってるんですか?」

「あそこ?」

 風太はちょうどいい話題を探し当てたと思って、吉野に質問した。吉野はすぐに風太の言葉の意味するところを理解した。

「ああ、風太が前までバイトしてたとこかあ、あのダーツとかバッセンとか、色々くっ付いてる」

「そうです」

 風太は以前、ゲームセンターやカラオケなどが併設された複合アミューズメント施設で働いていたが、四月から始まった授業とシフトの折り合いが付かないのでそこを辞めていた。今はコンビニのバイトで小遣いを稼いでいる。

「何かお前が辞めちゃってから行かなくなっちゃったな」

「あ、そうなんですか。今も昔も客として行ったことないから、今どんな風なのかなって思っただけなんですけど」

「あれだろ、加奈ちゃんが今どんな風なのかだろ、気になってるのは」

「違いますよ」

 加奈というのは風太の先輩だったフリーターで、風太は加奈と一度だけ寝たことがあった。それが今のところ、風太にとって最初で最後のセックスだった。風太が吉野を敬おうと努めるのは、加奈の部屋に泊まるきっかけを作った吉野に恩を感じていることも大きかった。加奈をどういう目で見ているか、風太に聞かされた吉野は、二人を呼んで酒の席を設けた。吉野は展開をうまく導いた。二人きりになった後、熱病的な親密さが風太と加奈を蝕み、加奈は風太の些か不躾な求愛を拒まなかった。風太はその夜、加奈を抱いた。彼女はセックスをする相手に恋人であることを求めず、風太のことをも今後特別に扱いはしないと前置きしたが、そう言われてなお風太には彼女が恋しかった。バイトを辞める時、また飲もうと加奈は言ったが、それから連絡は取り合っていない。

「加奈って誰?」

 事情を知らない倉沢が、風太と吉野どちらへともなく問いかける。吉野は企みについて訊かれた悪戯っ子のように笑いながら、風太を見た。風太はその企みをつまらなく思う仲間の顔でそっぽを向いた。

「何なんだよ」

 思わせぶりな二人の態度に笑いながら、倉沢がせっついてくる。

「いや、多分クラも見たことあるよ、あの店にいた女の子で」

風太くんの彼女? 元カノ?」

「いや、まあ」

 風太が茶を濁そうとしたところに、ちょうど風太と吉野の食事が運ばれてきた。愛想の良い中年の女性店員が定食の名前を述べ始めたので、風太は話が途切れると思ったが、吉野は進んで膳を受け取って、自分と風太の前に置きながら話を続けた。

風太の初体験のお相手で、それでいて彼女とか元カノではないんだよ」

「へえ、風太くんにそんな子いたんだ」

 店員のそばで自分のセックスの話をされて、風太は羞恥と苛立ちを感じ、またあさっての方向に顔をやった。しかし、近くに座っていた、自分と同じくらいの歳の男の客がこちらを見ているのに気付くと、新たな羞恥がこみ上げてきたので、仕方なく目の前の飯に向き直った。その時、ロースカツの衣から漂う熱と油の匂いが、狼煙のようにまっすぐ上がってきていると感じるほど明確に鼻孔へ届き、唾があふれた。これ以上不愉快にならないために、俺はこれを食うべきだと思った。

 

 三人は口の中から油の香りを濃く嗅ぎ続けていたので、車内に戻った時、今日初めに車に乗り込んだ時には分からなかった車のにおいに気付くことができた。固着したつまらない汚れが密閉空間の中で根を張って立てるにおいが、新鮮さだけはある油の香りとはっきり反発していた。仕事で車に乗ることの多い吉野や倉沢は、車からそんなにおいを嗅ぐことにいくらか慣れていたが、二人ほど車に乗らない風太には、その反発がうざったかった。

風太さあ、ちょっと寄り道するから」

「はい」

 吉野からそう言われて、風太はつい相槌を打ったが、どこに連れて行かれるのかという不安は、細く強い光のように胸を走った。

「まさか、さっき話してた所じゃないっすよね」

「違うよ、バカ、ちょっとDVD借りたいんだよ」

 あまりに心配そうな風太の声音に、吉野は笑いながら答えたが、風太は笑いが染みたその声に不満を感じた。これからどこへ何をしに行くのか気がかりなだけで、加奈のいる店に向かうのが特別恐い訳ではなかった。吉野に彼女のことをからかわれるのも、自分が彼女のことを引きずっていると思われるのも面白くなかった。

「しかし、何ですか、DVDって。何観るんすか」

 吉野の家に遊びに行って、DVDを観たことなど一度もない。

「観たいもんがある訳じゃないんだけど、土日の間、あまりにも暇になった時に観ようと思ってさ」

「いつもあまりにも暇になるじゃないっすか」

「それは言いっこなしよ」

 今日に限って、暇を持て余した時のための保険を用意する訳は、何となく風太にも分かっていた。倉沢が先んじて酒を飲んでいるせいだ。このまま酔いの足並みが揃わなかったなら、映像を流して視線を一か所に集めることは、時間を楽なものにするだろう。

 助手席に座った倉沢は、会った時と変わらない表情をしているが、どことなく元々の無口をひけらかしているように見える。ビール瓶を二本空にして、倉沢はビールのそれらしくない根深い酩酊を感じて、自分から話を切り出す意欲を失くしていた。倉沢自身は、一週間の疲れが弱い酒ともがっしりと結びついて、分解しがたい酔いを作っていることを自然に諒解したが、風太には自分の目に映る彼の酔いを許すことが難しかった。彼が調和を崩していると思えて不快だった。

 車が動き出してから、風太も吉野も何も言わずにいた。胃が重くなった実感が、何か気の利いたことを言って雰囲気を良くしようという心の動きを妨げていた。そもそも、と風太は思った。そもそも雰囲気は、良くせねばならないものではない。良くせねば居づらいから良くしようというだけのものだ。つまらない雰囲気でも居づらくなければ、無理な振る舞いでそれを改める必要はない。倉沢が話に加わろうとしないことが風太たちの無言をも誘い、新しく感じた倉沢への不快は、風太を消極的にした。

 車が県道から一車線の道へ曲がると、風太の土地勘が働かない、繁華の色のない町並みが窓の外を滑り始めた。県道沿いのGEOに向かうとばかり思っていた風太の体に、先ほど感じた不安が、いくらか薄まりながらも再び広がった。

 しかし、全員が沈黙を受け入れている中を走る車は、意外に早く目的地に着いてしまう。風太には唐突に思えるところで車はウインカーを点け、路地に面した狭い駐車場に停まった。風太のよく知るレンタルショップは、大体にして球技でもやれそうな広い敷地に建っているものだが、この駐車場には車はそう何台も停まれそうにない。

 吉野と倉沢が車を降りるので、風太もそれに続いた。どうやら車と隣り合っているこの建物が、目的の店であるらしい。倉沢の歩みには吉野と同じなめらかさがあったが、行き先を教えられず目的も聞かされたばかりの風太は、歩きながら関節が錆びているような錯覚をおぼえた。

 二人に続いて入った店には、確かにレンタルショップのそれらしい、昼夜通して営業しているのを物語る空気が溜まっていた。大量の品物が並んでいる間を多くの人が歩き、その人たちの手がそこかしこに触れたためのにおいをその空気は逃がさず、しかし悪臭としては堆積させずに、のっぺらぼうな淀みとして店内を飽和させていた。もしかしたら、人によってはそれを不潔と捉えて、悪臭と言って憚らないかもしれない。しかし風太はそのにおいに図書館を思い出した。(一つの個体によるのではなく)領域によって自分の無知を教え示してくる圧迫が、攻撃として自分を刺すのではなく、発見として甘く働くことが、図書館の本の並びを想わせた。ぼんやりと全体を見てしまえば、今までに入った店と大差ない陳列や内装をしているのに、何か特別なものを感じて仕方なかった。心地よさよりも不思議さが勝ったがために、風太の眼は入念な分析を始めて、これが「特別」の出どころかと思われるものをすぐに見つけた。店の一画に、DVDではなく、辞書のように分厚く背の高いものが並べてある。ビデオだった。風太がまだ小さかった頃、家でビデオデッキを使っていた記憶はあるが、商品としてビデオソフトを見るのは初めてだった。ハードカバーの本に似た形のものが並んでいるから図書館を思い出したのかという結論に、一瞬風太は鼻白んだが、一人で店内を練り歩いているうちに、必ずしもそれだけが不思議さの所以ではないと分かり始めた。見覚えのないタイトルがあまりにも多い。映画に明るくない風太にも、セレクトに何かしらの偏りがあることはありありと感じられた。未知の広がり方と深さが、図書館のそれを想わせているのかもしれない。そう考えると、ぎこちなく動いていた体にくすぐったいものが巡った。

風太、観たいのあったら選んでいいよ」

 いつの間にか吉野が隣にいた。吉野は小さな籠を持って歩いていたが、籠は空のままだった。

「何か、知らないのばっかりで、選びようがないんですけど」

「そう、ここ、渋いだろ」

「渋いかは分かりませんけど……」

「最近の大学生って、みんな深夜アニメとか観てるんじゃないの?」

「みんなが詳しい訳じゃないし、知ってるやつほとんど置いてないですよ、アニメにしても、何かよく分かんない劇場版みたいなのばっかり置いてある」

「じゃあフィーリングで」

 吉野はそこで会話を切り上げて、棚の方を向いた。風太は吉野の背中に声をかけた。

「ねえ、吉野さんの家ってビデオ観られるんですか」

「ビデオ?」

「さっき、DVDじゃなくてビデオ置いてあったから」

「ああ……デッキ出せば観れると思うよ。何か観たいのあった?」

「別に、そういうんじゃないんですけど」

「ビデオか、ビデオ懐かしいな、何かあるかな」

 眺めていた棚に拘りがなかった吉野は、ビデオの棚へと歩いて行ってしまった。風太は吉野が見ていた棚に目をやった。今までにこうした店で目に映したことのあるパッケージは、やはり少ない。その割合に見応えがあった。しかしそこへ手を伸ばすためのきっかけを、なかなか見つけられなかった。根気強く調べれば、狂いなく数えられるだろう数のソフトしか並んでいないのに、風太は自分では処理しきれない厖大さを肌に感じ始めていた。

 不如意はむず痒かったが、その中に快楽を見つけられる予感があった。風太はまったく無作為に、見覚えのないパッケージを取り出した。制作元が同じなのか、同じデザインのパッケージが一塊になって並んでいて、風太が選んだのはそのうちのひとつだった。自分でもおかしいと思うほど慎重に指が動いた。白黒の映画だった。監督はおろか俳優の名前も知らないもので、書かれている名前を、パッケージの写真に写っている誰のものと思えばいいか分からない。裏面にはあらすじや作品の受賞歴が書かれていたが、どうしてか、文章の意味をうまく噛みほぐせなかった。話の筋というものは、読んでいれば勝手なシーンを思い浮かべられるものだが、それができない。二十歳になる年に、子供のような混乱に出くわしたことに、風太は少し戦慄した。

 何が原因なのだろう? 誇るほどの理知はないにしても、ものごとを理解する力が自分に乏しいと思ったことはない。万人に向けた説明書きを読んで、内容が解らないことは、恥ずかしいとか情けないというより、とにかく不思議だった。レイアウトや文の調子が、見慣れぬものであるせいだと思うこともできた。しかし何度あらすじを読んでも、起伏を想像することもできなければ、ぼかされた結末を推し量ることもできなかった。一旦そのDVDを棚に戻し、別の店で目に留めた覚えのあるDVDや、実際に観たことのある作品のパッケージを手に取った。やはり当たり前の読み方ができる。

 ただその広さと深さとを感じていた厖大さが、ひとつの要素が大きな形をとったものではなく、凝集された意味が一粒ずつ寄り集まって出来ていることを、風太は徐々に実感した。すると、自分の認識が追い付かないこの空間に期待されていた快楽の尻尾が、今はその気配さえ嗅がせてはくれないことに気付いた。しかしその気付きは落胆ではなく、むしろ期待以上の快楽を得た驚きに風太を浸した。

 あまり健康的ではない軽やかさが足に宿って、風太は店の中を素早く歩き回った。吟味しているようには見えない足取りだが、風太の眼は必死にパッケージを追い、何かを探していた。何を探しているか自分では分からなかった。彼は手に取った途端これを探していたのだと思えるものを探していた。時々、自分の神経を掴んでくるようなタイトルを見つけ、棚から出してみる。今までに見た覚えのないもののあらすじを読んでも、初めに手に取った一本のように、やはりうまく理解が進まない。喜劇と悲劇の区別ぐらいはつくが、自分の理解に自信は持てなかった。文字列をほぐして自分に取り込もうとすると、いつの間にか消え失せていき、「取り込もうとした」という空転に終わった動作だけが、それにまつわる記憶として残った。

 その繰り返しだった。白黒のヨーロッパの映画も、最近のものらしい韓国の映画も、けばけばしい衣装のロックバンドのライブ映像も、見なれない絵柄の劇場版アニメも、いくら眼差しを寄せても自分に落ち着かず、ひたすらパッケージとしてあった。実際に中身を観れば、いま自分が取りこぼすしかないものを確かな情報に出来るかもしれないと、そういう考えを持つのに時間がかかった。そう考えたところで、これを観てみようと思えるわけでもなかった。

 風太は自分の中の深みに引きずりこめない獲物の影を、憑かれたように追って飽きなかった。吉野にも倉沢にも風太の姿は狂騒的に見えたが、海水浴に浮かれた友達が砂浜を走っている、という程度に思った。

 

 しばらく後、また車は三人を乗せて走り出した。三人は吉野の会員カードで、風太が赤ん坊の頃に流行ったコント番組のビデオと、今はけっこうな歳になった大女優の銀幕デビュー作、そして三人の誰にも聞き覚えのないタイトルのOVAを借りた。コント番組以外の二本は風太が選んだ。吉野は県道に戻らず、細く明るくない道を走り続ける。風太にはよく分からないが、きっとこれが吉野の家へ向かう近道なのだろう。見慣れない町並みはもうあまり恐くなかった。