キャベツは至る所に

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細野晴臣の『アンビエント・ドライヴァー』を読み始めた。Twitterでフォローしている方に勧めていただいた本だ。そのセンスと知識、電子音楽に関する審美眼に対して、全幅の信頼を寄せている方の勧めなので、きっと有意義な読書体験ができるだろうと思っていたが、案の定めちゃくちゃに面白い。

内容には稿を改めて触れる(かもしれない)として、ぼくはエッセイのたぐいをあまり読まない。雑誌を読む習慣がほとんどないので、気に入った連載の単行本を買うということ自体、マンガ以外では皆無に等しい。

だからというか何というか、文章を読んでいて、細野さんの話し声と顔があざやかに浮かび上がってくるのが面白い。話し声を聴いたことがない作家のエッセイでは、こうもいかない。声をよく知っていても、こうあざやかにはならない。俳優やアイドルがブログで書いた稚拙な文章を読んでも、ちょっと頑張らないと細野さんのような精度では声も顔も浮かんでこない。声とビジュアルが自分のなかにデータとして多く蓄積されていて、なおかつ著者のノリが文章にちゃんと染み渡っている時に限り、こういう感覚に陥るものなのだろうか。

 

文章を読むとき、文章を頭の中で「音読」している人とそうでない人がいる、という研究の話を聞いた。ぼくはどんな文章を読んでいても、(声の記憶があざやかであれば)誰の声ででも、意識下で音読させることができる。メディアミックスされているマンガを読んで、キャスト以外の人の声でセリフを再生させるのは日常茶飯事だ。役者の声でも、友達の声でもできる。

そういえば、記憶力は食い意地とイコールである、という話を聞いたこともある。つまり、美味いものの記憶があざやかであるほど、それをまた食べたいという欲求もいや増すということだ。そういえば、ぼくは食い意地もめちゃくちゃ張っている。記憶力の良さは自他ともに認めるところだ。

 

なんだか記憶力のよいことがそのまま業深さに繋がっている気がしてきた。死のう。それとも『アンビエント・ドライヴァー』に、Mr.マリックから聞いたという記憶消去術が載っていたので、そのうちやってみようか。