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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

『ヒメアノ~ル』について

映画『ヒメアノ~ル』、並びに原作マンガ『ヒメアノ~ル』についてのネタバレを多分に含みます。

 

 

 

 

 

赤字で注意喚起をしておいて何だが、恐らくこのエントリに辿り着く方は、『ヒメアノ~ル』について十分な事前知識を持っているだろう。前置きは省いて、感想をまくしたてたい。

 

吉田恵輔監督の作品は『純喫茶磯辺』しか観たことがなかったが、ギャグとシリアスの対照が巧みで、飽きの来ないテンポをうまく作る印象があった。実際、森田剛濱田岳の事実上ダブル主演のような本作においても、殺人鬼と平凡な人間を描く中で、そうしたスキルが発揮されている。

中盤で挿まれるタイトルバックの後に、印象的なシーンがある。濱田岳演じる岡田のセックスと、森田剛演じる森田の殺人を、あたかもシンクロする運動であるかのように編集したシーンだ。濱田岳は腰を振って喘ぎ、森田剛は息を継ぎながら鈍器を振るう。二人が正反対のドラマを生きている様を、これでもかというほど見せつける。しかしと言おうか勿論と言おうか、二人の正反対のドラマは結局交叉することになるのだが、その結末まで暗示させてしまう煽情的な演出だ。

しかし、そこは軸なのだろうか?  映画『ヒメアノ~ル』において、対照という言葉は、作品の最たる魅力を説明しないのではないか? これは「極」の映画ではない。善と悪、光と闇、異常と平凡、甘美なセックスと粗野な暴力。そうした二極の映画ではない。幸せに過ごす者と幸せを見込まない者という両極端なキャラクターの配置から、「物事の二分化とは、安心を得るための単なる空論ではないか?」と提示する映画だ。

 

時間的サイズを整えるためだろうか、コミックス全6巻の原作から省略・改変されたエピソードや設定は多い(ヒロインの造形など最たる例で、古谷実特有の「非現実的に強くて美しいヒロイン」ではない、もっとありきたりなヒロイン像が採用されている)が、中には付け足された要素もある。

ひとつは、イジメを受けた過去を森田が引きずっていることが、演出の中で明確に語られること。逆に、原作にあった「性的快感を得られるから人を殺す」という説明は省かれ、映画では動機が語られない。快楽殺人者という《特徴》に森田自身絶望しながら紡がれる自己弁護や呪詛の独白は、マンガ『ヒメアノ~ル』に、不気味にゆっくりとした推進力を宿していた。しかし映画の森田は語らない。ただイジメのフラッシュバックや、原作でも語られた「死ぬか殺すかだ」というカオティックな感情を、幻聴として聞く様が描かれるだけだ。

森田の犯行そのものには、同情する余地がない。劇中で「どうせ死刑になる」と自分で語っている通り、現実に起これば、残虐の極みと評されるだろう。しかし、原作が、異常者の苦悩によって物語を進めた(言うなれば「内面を掘り下げた」)のに対して、映画はその部分をあえてオブスキュアにしている。森田が殺人を楽しんで笑っていれば、あの映画で安心する人が多く出てくる。あれだけ人がじっくりと殺される映画でも。それだけ森田はただ殺す。

展開においてはより重要であるのが、自分がイジメの対象になるのを恐れ、岡田が森田へのイジメに加担したことがあるという設定の追加だ。終盤で岡田自身が明かすその罪は、同じことをした記憶がなくとも、恐らく多くの人の罪悪感を掻き立てるものだろう。岡田は自分を殺そうとする森田に、あの時は悪かったと謝罪する――しかし森田はそのことを覚えていない。隠していた罪を告白し、懺悔するのは、物語を節目付けるお決まりのパターンだが、本作では惨劇に対するブレーキとして働かなかった。それはサイコキラー・森田の暴力における感情の乏しさに拠るものなのか? そうではない。むしろ紋切り型の無力さに拠るものなのだ。

森田は人を殺しまくる。そんな彼にも辛い過去があった。岡田は平平凡凡に暮らしてきた。そんな彼にも後ろ暗い記憶がある。いかにも面白いドラマが広がっていきそうな素材だ。しかし映画『ヒメアノ~ル』はそれを思い切り蹴っ飛ばす。森田が「悪い奴」で岡田が「良い奴」だと、お前は正しく説明できるからそう分けているのか、と言うかのように。

岡田が罪を懺悔するが、森田は許すでも責めるでもなく忘れていて、それとは関係なく岡田を殺そうとする。この点を通過するだけで、善と悪の対照とか対立といった構図はついにぐにゃりと歪み、慣れない場所で起きた停電のような不安が観客を襲う。いや、深読みをする観客には、森田のリアクションは想定できるだろう。しかしそこから続く一連のシークエンスは別だ。岡田を人質に逃げる途中事故を起こし、朦朧となった森田は、同級生だったころの意識で岡田に語りかける。素朴で幼い口調、そして片足を千切れさせながら微笑んで言う「またいつでも遊びに来てよ」。サイコキラーが見せた柔和な笑顔はグロテスクにも感じられるが、しかし限りなく無垢に近い。叙情的な回想へフェードしていくラストが実に哀切だが、あの「またいつでも遊びに来てよ」がとにかく凄まじすぎる。ここまで述べてきたような、断絶や対照に見せかけられたキャラクターの関係の隠された複雑さが、抽象性を保ったままクライマックスにまで高まっている。

森田剛の表現力の底知れなさと、濱田岳の芝居の巧妙さが織り上げる名シーンだ。芝居においてもダンスにおいても、技巧とか計算ではない、センスから生じたものを磨き上げて素晴らしいパフォーマンスを見せる森田剛。子役時代から様々な役を演じ分けてきて、なおかつ引き出しの尽きる気配のない俳優である濱田岳。かなり特異なシーンではあるが、二人の持ち味が当て書きのように活かされている。

それまで共感を許さないほど無機的だった森田から、人間味と呼べるオーラが初めて、それも濃厚に立ちのぼる。その瞬間、異常者と一般人という構図が完全に無効化される。森田が悪行を重ねてきたからこそ、幸せに日々を過ごすだけの岡田には、善めいた属性を誰もが錯視している――それは森田という太陽を直視させられ、網膜に焼き付いた残像でしかないのだが。その前に語られている、イジメに「加担した」という懺悔も小市民的で、錯覚される善をかき消さない。しかし、殺人鬼としての表情も、諦観者としてのボキャブラリーもすり込まれきった観客には、そうした特徴を失った森田が、どうしようもなく純粋に見えてしまう。そんな森田は、岡田の中のありもしなかった善を全て吸い上げてしまう。そして森田の中に明確な悪行と架空の善が共存した時、ホラー映画のモンスターとしての殺人鬼でもなく、人間の内面を描く文学的偶像でもない、「市井に当たり前にいる殺人鬼」という実に不条理な、しかし歴史上にも存在してきた人物へと、初めて完全に変態する。森田剛の言う「またいつでも……」という台詞は、引力として架空の善を引きつけ、濱田岳のひり出したとしか言いようのない感じの相槌は、それを丁重に差し出す手なのだ。そして異常と平凡という対立構図に見えていたものが収束すると、出会ったころの森田と岡田の回想が綴られる。直前の岡田の、君はどうして変わってしまったのかという言葉が余韻を響かせて、まるでこの時からやり直せば、作中の惨劇は起こらなかったのではないかと言うように……。

 

 

 

   みんな得体の知れない恐怖や 正体不明の不安と

   死ぬまでずっと闘っていくんだろう?

   あらゆる手段を使って少しでもそれを正当化し・・・・

   正体を暴き 安心を得る

   例えば通り魔が出た 人を殺した

   殺した理由がほしいだろう?

   それは何でもいいはずだ

   "わからないもの" ほど怖いものはないんだ

   (古谷実『ヒメアノ~ル』3巻より)

 

 

善と悪、光と闇。(ぼく自身そうだが)フィクションに慣れた人たちが好んだり、醒めた目で見たり、何かと意識してしまう《対立》。本来そこに境目など存在しないのだと、善人と悪人の境界がぼやけ切った世界を見せつけられて、残るのは爽快感やストレス解消になる涙ではない。ただひたすらな胸苦しさだ。けれど、感動というのはもともとそういうものではないか。原作や映画が暗に語るように、「わからない」ものを思考の埒外へと排斥し続けることは、安心にしがみつこうという態度でしかない。

森田が人を殺す理由は分からない。岡田に彼女が出来る理由も分からない(この点の「分からなさ」は古谷作品の雰囲気を見事に再現していると思う)。しかし、提示されたすべての分からなさに、自分が持っているすべての力を使って挑むことでしか、誠実である方法は無いのではないか? そして誠実であろうと努める以外に、自分の正しさを閲する方法があるだろうか?

中高のころ『ヒミズ』を読んだときのような、死にまつわる素直な自問が、『ヒメアノ~ル』を観てから時々聞こえる。自分は人を殺したことがない。ぼくに何が備わったら、ぼくから何が失われたら森田になるのか?