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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

九月十一日 @ 久喜カフェクウワ

昼間のマーケットも可愛らしいものが目白押しで楽しかった(そしてクレープがうまかった)が、やはり目当ては夜のライブ。しかも出演する4組全組楽しみ。そして期待を裏切られないどころか全編興奮しっ放しだったので、久しぶりに長大なレポートを書きました。

 

 

折坂悠太

間違いなくロケーションをいちばん味方につけていたのがこの人。裸電球による照り返しと陰影のハイキーな対照。背後には裏庭があり、更にその向こうには用水が流れていて、窓の外は灯りが少しもなくたっぷりと暗い。その中で白シャツがひときわ映える。ギターを弾く時には傍らでピアノが待っていて、ピアノを弾く時には傍らでギターが待っている。こうした条件が彼の歌と合わさると、もう今が西暦何年だったか分からなくなる。

発声と口の形の操作だけでさまざまな歌唱を使い分ける技術、ギャロップする裏声、自在にリズムをつくるギター。日本の民謡やフォークの中に、滑らかにホーミーなんかも挿し込まれる。初めて彼を観たのは、北浦和クークーバードでのことだった。牧野琢磨、桜井芳樹、伴瀬朝彦、AZUMI、そのほか数えきれない腕っこきのギタリストを短期間のうちにクークーで観て、「ギターって国際的な楽器なんだなあ」と感じ入ったものだが、折坂悠太のギターはまさに〈邦楽〉の伴奏のため、十全に使われている。床や建具から醸される年季の入った木材のやわらかさとあいまって、日本ではあるが今この時ではないいつかにトリップする感覚が途絶えなかった。

クウワのライブの醍醐味は、梁や天井のあいだでぐるぐる音が渦巻いているのを観ているうちに、今まで見えていなかったミュージシャンの実相が垣間見えることで、目の当たりにしているものを手放しに肯定できるようになるところだ。会場の環境があったかく、またミュージシャンにそれだけの〈可食部〉がないと実現しない面白味。折坂悠太が食いでのある歌手だということは、上記のようなぼくの説明など省いたとしても明々白々だ。

直近でライブを観たのは3か月前ぐらいで、新譜『たむけ』の発売前のことだったが、正確なピッチで歌い抜いていくというより、むしろ生の歌唱だから出せるニュアンスを濃く出そうという感じが伝わってきた。完璧に近い形でピンポイントの音を出すより、いちばん効く音程を中心にして揺れるように、声を〈撓らせている〉と言えばいいんだろうか? その震えがたまらなく強力だった。

『よるべ』でピアノに移った時、ライブビデオやアーティスト写真に遣われそうな画角で、前髪の垂れた折坂さんの横顔を観て「眼福だ」と思ったのは、イベント通したハイライトのひとつです。

 

フジワラサトシ

音源を初めて買ったのは3……もう3年前なの!? 何にせよ『い、のる』を買ってずっと聴いていて、今年の2月に弾き語りのソロも初めて観た。その時に一文字一文字ゆっくりと歌っていくスタイルについて「コーヒーをドリップしていくようなイメージ」と話していたのが印象的だった(今回は「何をまどろっこしくやってるんだと思われるでしょうが、全速力です」と語っていた)。

一文字一文字、時には音を切りながら朴訥な感じで歌っていく様は、一見のんきだが、その実スリリングだ。曲の展開する流れに乗っていくより、一音一音こまぎれに歌っていく方が音程を守るのは難しくて、音をわずかに外す時もあるけど、それは大した問題じゃない。一個の文節があらわれるまでに時間のかかる歌唱だからこそ、フレーズの意味を咀嚼するだけの時間が、曲中に生じる。つまり、耳を澄まして聴くことが許されている。こういう芸術は、感動を自分のものに出来る。あんまり遠くのものとして捉えられず、好きだという思いを掌に乗せられる感じがする。インパクトとは全く別のたぐいの魅力。

2月に初めて観た弾き語りではギターの音数もそれほど多くなくて、まさに歌の魅力がストレートに出た形態だったけど、カルテット編成の今回も、同じ感動ができたのが今にしてみれば驚きだ。ギターがリズムを守っていくのに対し、例えばピアノがそこから離れて修飾的な役割を担い始めても、フジワラサトシ本人が守っている部分は破調せずに続く。ああ、そうだ、「守っている」という表現が、あの人の歌にはしっくり来るのだ。眉をしかめて訥々と歌っていく姿が、良いものも悪いものも、何かを壊すというイメージに決して結びつかない。それを壊すのは受け取った我々なのだ、というシビアさまでが、そこに含まれている。ギャグに取らないでいただきたいんだけど、空也上人像とかを思い出すんですよね。念仏がそのまま仏になるみたいな。

雪舟えま作詞『エルメス』『夏の虫』はやはり名曲。残暑もやっと穏やかになった夜に、石油ストーブのようなぬくみを感じながら、不思議にもそれが心地よかった。

 

山田真未

小岩bushbashをホームに活動する山田さん。ぼくは先日、黄金町試聴室の主催イベント「キメうたカラオケ選手権」の東京予選 @ bushbash に一般参加したのですが、そのとき彼女の歌声を(カラオケで)聴いて「あっ、この人のオリジナル、絶対サイコーじゃん」と思っておりまして、案の定サイコーだったわけです。

TIALAの谷口圭祐をサポートコントラバスに迎えたデュオ編成。さっそく会場で買った『まばたき』にも谷口氏は参加しているけど、もう付き合いは長いのだろうか? 今回のライブでも素晴らしいコンビネーションを見せていた。歌声そのものの味わい深さとメロディの暖かみが、見事に拡張されている。

良い曲だ! と純粋に感動したのは『晴天のパレード』。小気味よく進む明るい曲調、サビの「出発しよう 人生はパレード 僕らだけの小さな冒険」という見晴らしのいい道のような爽快極まるフレーズ。もうこれだけで、これまで自分が取り込んできたジュブナイル作品が全部ひっくり返されてまた輝き始める。個人的なツボを押されたのが、酔っぱらって川で寝る、という内容の『七夕』。「無限に寝返りうてるし」という一節に、ああもうこの曲のことは忘れられないと思った。皆さん、ご存知ですか、外で寝ると無限に寝返りを打てるんですよ。何となれば、ジブリ映画のエンディングに流れそうなノスタルジーを充分湛えていながら、同一線上に(結構ランキング上位の)酔っ払いしか知らないことを表した歌が並ぶところに、完全にやられた。

 

butaji with 樺山太地(from Taiko Super Kicks)

前週のTaiko Super Kicksの企画・omatsuri 2 で、一曲だけ共演したのを観ていたのだが、もうその時点で虜になっていたのでことのほか楽しみだった。

何と言おうか、樺山太地のギタリストとしての怪物ぶりが際立っていた。序盤の『あかね空の彼方』などでは、ボトルネックを使って高音を散発的に鳴らしたり、エフェクトを付け足すような演奏が目立ったが、『EYES』のあたりからはむしろ、ボーカルのメロディに寄り添うようなアプローチを取り始める。そこから続く、アルバム『アウトサイド』の中でも白眉と呼ぶべき名曲『Light』、omatsuri 2 でも披露した『Faded』では、互いの魅力が混ざり合ったとんでもない名演が繰り広げられた。

 Twitterや『アウトサイド』のレビューで、butajiの歌がきわめて上質である旨を、ぼくはのべつ語りまくっている。心臓を締めつける繊細さと、身体を物理的に震わせるような強い低音の響きのどちらをも持つ歌声。どれだけ哀切でもどれだけ孤独でも、底深くには必ず快さを隠しているメロディ。その魅力を表現しまくる歌声の周りを、今回は樺山太地の天才的なギターが飛び回る。べらぼうな技術と、素人には説明できない多彩さの空間系エフェクトの駆使をもって、変幻自在に展開するギターの音。従来の自由さを失わず、しかし普段よりもストロークを強めたりといった微妙な調整は欠かさないbutajiの演奏に、注意深く視線を投げながら、さしてオーバーなアクションも取らず、しかしこっちが思わず笑ってしまうぐらい奔放に、弾きまくる。Taiko Super Kicksでやってる時より伸び伸びやってると思う。天井知らずとはあのことだ。上の折坂さんについての記述で「今ではない時にトリップする感じ」と書いたが、今度は音響派のメッカ・シカゴとかカナダとかのロッジにトリップした感じだった。だめだ、もう言葉が追い付かない。最後は『東京タワーとスカイツリー』。この時のギターはむしろTaikoでのプレイを彷彿とさせる、ちょっとレゲエとかスカまじりのオルタナな感じ。この辺り、やっぱりソニック・ユースも思い出す。

全曲何度も聴いてきた、耳に馴染みのある曲だったこともあり、樺山くんがやっていることの効果が(効果だけは)よく分かった。思わず笑いがこみ上げてくるほどかっこいいソロなんていつぶりに聴いただろう。今回の編成でのライブの予定は、いまのところないようだけど、これはもっとたくさんやって、たくさんの人に観てもらいたい。7th floorあたりでどうですか。どうでしょう。

 

最後にbutajiがMCで「夏の締めくくり」という言葉を遣ったが、本当に夕方から夜にかけては風が心地よく涼しくて、秋の足音が聞こえてくるような日のライブだった。これは単なるコジツケだが、トップの折坂さんは『犬ふぐり』をやり、次のフジワラさんは『夏の虫』を、山田さんは『ひぐらし』を、butajiさんは雪の情景を撮ったビデオが記憶に新しい『EYES』をやった。季節のめぐりを暗示する、玄妙な順番だったと思う。

暗示といえば、各出演者の最新音源のタイトルも、豊かな意味を孕んだ秀逸なものばかりだ。

行ってしまう人への餞別、何かへの願い、無意識のもとで繰り返される運動、ここではない何処か。

名前は必ずしもすべてを表しはしないが、そのものの核にはなり得る。アルバムというひとつの集成を見た彼らの歌が、会場の天井にぎっしり満ちて、手を伸ばせば一瞬ぐらいは触れられそうな気がした一夜だった。

最近たくさんはライブに行けていないし、酒にかまけて言語化を怠ったりしてきたが、もうそういうのはなしにしよう。結局、霞のような姿しか持たない、だけどそこにある奇跡が尊いからこそ、芸術を、例えばステージに立ってくれるひとを追いかけずにいられないのだから。幸い、音楽はいろいろなところに流れる。都心にも、郊外にも、平野にも、山裾にも、公園にも、地下にも、田舎の町にも音楽は鳴り響くのだ。

とりあえず、昨夜もフードがすんごいうまかったので、クウワにメシを食いに行くことが喫緊の課題であります。

 

 

たむけ (デジパック仕様)

たむけ (デジパック仕様)

 

 

い、のる

い、のる

 

 

まばたき

まばたき

 

 

Outside

Outside