読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

ペンネンネンネンネン・ネネムズ 『whim』

 

whim

whim

 

 

純粋とは何かをかんがえた瞬間に、その人はもう永遠に純粋にはなれなくなる。まじりけのないありようを純粋と呼ぶのなら、「純粋とは何か」というかんがえ自体、混ぜものに他ならないからだ。

感動するという行為も同じだと思う。人はよく「難しく考えるな」「素直に受け取れ」とか言う。そんな人たちの言う「素直な」感動をぼくはあまり信じない。確かに人間は、芸術に、ドラマに、偶然に、人の愛に感動する。一部の人間においては、それはもう激しく、それはもう敏捷に。けれどその人の興奮や、反射の速度は、決して感動の「純粋さ」は担保しない。人間は、感動しようと思って感動できるものだからだ。

マニアとかオタクとかの人種を、「感動の訓練を積んだ人間」と定義してみてもいい。ぼくは繰り返し本を読むし、映画館に行くし、ライブを観に行く。そこでの感動の仕方をぼくはある程度知っていて、いくつもある「あの高揚」をもう一度味わいたくて集中する。この集中がシチュエーションと噛み合った時の快楽は、文字どおり筆舌に尽くしがたい。けれど、いかに快かったとしても、これは本当に〈純粋〉な行動だろうか? もしかしたらぼくは繰り返しの中で、ぼく自身が善がるための最適化されたプロセスを構築してしまっていて、作者や演奏家のオリジナルな要素や、そのときどきの再現不可能な状況を、自分が処理しやすいよう勝手に整序しているだけではないだろうか?

本当のところは分からない。ぼくの不安こそ強迫観念なのかもしれない。だけど分からないからこそ恐くなることがある。「愛してやまない」ものがある、でもそれは「愛してやまないと思おうとしている」ものかもしれない。しかも自分が気持ちよくなるためにそう思おうとしている――。こんなに恐ろしいことはない。芸術家たちに対する大きな不実だ。

けれど初めに書いたように、純粋は取り戻せるものではない。ランタンパレードもこう歌っていた、「純粋になりたいのかい でもそうありたいと願うところまでが 人の限界というものだよ」。少なくともぼくは、もう自分は純粋ではないのだろうというつまらなさを自覚しながら、純粋ではない自分をつかって芸術をなるべくありのまま観る努力を続けるしかない。それがしんどくなったなら、全ての芸術と関わりを絶つだけだ。そのあとどれだけ生きていけるか分からないけれど。

 

 

ペンネンネンネンネン・ネネムズの音楽にはそういう「もう純粋ではないこと」へのまなざしを感じる。本当に勝手な言い種だが、シンパシーさえ感じることがある。小説や楽曲の一節が、映画のワンカットが、自分の体と記憶を鐘のように震わせた時。あの瞬間の何物にも代えがたい快楽。全くその通りに生きられなくても、それに殉じて死ねたら良いかもしれないと思える刹那が、確かにある。その価値を疑うときが来るかもしれなくても、だ。けれどペネムズの音楽には、ぼくがべらべら述懐した苦悩を何度か越えたような複雑な味わいを感じる。それを「別にいいじゃん?」みたいに放り投げたのではなく、どろどろしたいくつもの夜に布団の中で格闘して何とかねじ伏せたような説得力で、でも「別にいいじゃん?」みたいなさりげなさでもって歌にしている。

確か、東浩紀だっただろうか、「純文学とは、作者の頭脳に10あるものが読者に伝わるまでに6や7に減衰し、失われただろう3や4について考えられるべき小説であり、ライトノベルは初めから6や7しか描かれておらず、読者が10に補完していく小説だ」と語っていたのは(出典も詳細もすこぶるあやふやです)。

ぼくたちはどんなものに対しても、10を捉えることは多分できない。10を捉えられたらきっと一生ものの記憶になるけれど、それには奇跡が必要になる。ぼくがペネムズに対して真摯でありたいと思うゆえんは、ペネムズの音楽が、10を期待し続けている人たちの音楽だからだ。ペネムズには藤井毅と神ノ口智和という二人のソングライターがいるけれど、どちらにもその要素を見いだしている。

『ベルリン 天使の詩』で、悲しみに暮れる電車の乗客を天使が抱きしめるシーンを見て、愛する人が弱っていたならこうして抱きしめるべきなのだと思ったことがある。そんなように、難解な映画とか、めちゃくちゃな引用とメタフィジックスの洪水のような映画の中にも、自分の生活にも持ち帰れる宝石を見つけた時のうれしさが、『whim』を聴いた時にあったのだ。いや、「ベルリン」は言うほど難解じゃないし、機会があったら誰にも観てほしいのだが。

それを実現させているのはメロディか、歌詞か、演奏か? 乱暴に聞こえるかもしれないけれど、全部なんだろう。一曲一曲の方向を定めているのはソングライターそれぞれの力だろうけれど、結局、いわゆる「音像」がとても良い。ギターの音色がひずんだ瞬間の、ロックバンドだけに求めている魅力がぱっと光る感じ。ハイテンポな曲では高揚感を持続させてくれ、ローテンポな曲では甘やかさを助長させてくれるベース。それだけで魅力的なポップソングを、一筋縄ではいかなくしてくれるシンセ。窓を開けるみたいに曲を新鮮にさせるフルート。一個一個の効果を挙げるのが簡単なほど、ばっちり効いている各セクションだが、その噛み合わせが素晴らしい。

一番好きなのは#4『すこしふしぎ』。先に述べた各メンバーの演奏もさることながら、サポートバイオリンが素晴らしい。ストリングスが楽曲のスケールを壮大にするというより、ここまでがこの曲のスケールだと線を引いて、いたずらに広げるよりももっと確かに、空間の大きさを示してくれる。地上から見上げた空にブイが浮かんでいて、ここがオゾン層だよ、大気圏って広いでしょうと、紫外線を吸収しながら教えてくれるような、そんな優しさ。俺は何を言ってるんだ? とにかく郊外のありふれた光景をファンタジーに変える(変えようとする)歌詞と、すべての音がマッチしていて、柔らかな感動を生んでいる。これは世に出た順番が逆だったら、『エイリアンズ』が「キリンジによる『すこしふしぎ』」と言われてた出来映えですよ。そういえばキリンジも埼玉出身だし。

 

 

すべての楽曲に絶妙な浮遊感が通底しているのは、どこかに現実のつまらなさとかめんどくささをちゃんと宿していることの逆説的な証明だろう。ペネムズをじっくり聴いて、ユートピア的な〈箱庭〉だけを思い描く人はたぶん少ない。ペネムズが箱庭を奏でる時は、箱庭なんてどこにもないこととか、箱庭の意義のなさをうたう時ではないだろうか。それがバンド名の大元である宮沢賢治との共通点だと思う。

 

   けれどもいまごろちょうどおまえの年ごろで
   おまえの素質と力をもっているものは
   町と村との一万人のなかになら
   おそらく五人はあるだろう
   それらのひとのどの人もまたどのひとも
   五年のあいだにそれを大抵無くすのだ
   生活のためにけずられたり
   自分でそれをなくすのだ   

   (宮沢賢治『訣別』より)

 

何度読んでも、というか、歳を負うごとに背筋の震えが激しくなる詩だが、いっときのひらめきなんて少し才能がある人なら作れるもので、そんなものはかんたんに風化する。本や円盤がその残照をいつまでもぼくたちに見せてくれるという、一応の救済はあるにせよ、美しいものを追い求める以上、同じだけつまらないものもぼくたちを追いかけてくるようになる。

ペネムズはその事実から逃げていない。逃避を歌う時にはそれを逃避として歌う誠実さがある。ありもしない素敵な現実を歌うよりも、こういう歌は、生きのびていくことを肯定させてくれる。甘みと苦みのバランスがコーヒー豆入りのチョコレートみたいで、素敵なアルバムでした。