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キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

『水中学校』

 窓の外を、久しぶりに蟹が通った。海底にやっと届いた頼りない光をあつめて、甲羅は黒く輝いている。僕は理科室に向かう途中で、寄り道をしている暇はなかったのだが、自分たち以外の歩行する生物を見る懐かしさに、つい目を奪われていた。

「何してるんだ?」

 イチバンが声をかけてきた。いつまで経っても理科室に移ってこない僕を気にかけて、廊下を戻ってきてくれたのだろう。

「ほら、あれ」

「ああ……。いつぶりに見たかな」

 蟹を見るのは、イチバンも久しぶりだったようだ。細い足を複雑に動かして、ゆっくりと移動していく蟹を、僕たちは二人で少し見つめた。遅々とした歩みは、僕の心をやさしくさせた。

「魚は綺麗だけど、すぐに泳いでいっちゃうだろう。あれを見ると、少し怖くなるんだ」

「どうして?」

「あんなに速いものを見ると、この海まで恐くなるから。もしかして、強い海流が校舎を包んでいて、いつか外壁が破られるんじゃないかって」

「ここらへんの海流が穏やかで安定していることは、もう何回も教わったろ」

「うん、でも……」

 その時、予鈴が鳴った。イチバンは僕の肩を軽く叩いて、移動を促した。

 今日のセンセイの授業は、もう何度目になるだろうか、食用植物の栽培方法の説明だった。

「人工光による栽培のメリットは、安定した光供給による成長のコントロールでありますが、作物の成長、ひいては収穫量をより正確にするためには、光供給を一定にする以上、水の供給量や温度調節もまた、規則的にしなければならないのです」

 この学校には、もう白墨がない。鉛筆も、ノートのページも使い切った。センセイによる授業は口述で行なわれ、僕たちは聴覚からそれを記憶するしかなかった。

「ニバン、飲用はもちろん、栽培に使われる水はどのように調達されていますか」

 僕は突然の質問に、少しうろたえながら答えた。

「ええと、海水を使います」

「それは当然です。どのようにして海水を、使用に堪える状態にするのですか」

「あっ、海水から塩分などを除きます」

 センセイは僕への質問を止め、イチバンに回答を促した。

「イチバン」

「はい。水圧拡散型採水機によって校舎周辺の海水を採取し、捻転分離器で、海水を水分と不純物とに分けます」

「完璧な回答です」

 センセイは、水圧拡散型採水機と捻転分離器の構造を簡単に説明すると、水分が植物の発育にいかに大切かを講釈し始めた。僕も機械の名前や働きについては熟知しているつもりだが、とっさの質問に答えるのが苦手だ。きっとセンセイも、それが分かっているから、まず僕に質問をしてくるのだろう。

 きりのよいところでチャイムが鳴って、理科の授業が終わった。

「それでは、これで終わります」

「センセイ、今日の体育も発電ですか?」

「いえ、電力量にはまだ余裕があります。体育館を使いましょう」

 僕たちは教室に戻ると体操着に着替え、勇んで体育館に向かった。渡り廊下は壁が薄く、校舎と体育館を行き来するたび、いつも水圧による軋みを聞かされる。

 僕とイチバンはバスケットボールを出して、どちらが多くシュートを決められるか、同じ位置から競ったりして遊んだ。二人でそうするのに飽きてくると、僕とイチバンとでタッグを組んで、ゴールを守るセンセイから点を取るゲームに興じた。僕もイチバンも、プレーの節々で歓声をあげたり破顔したりしたが、センセイはいつも通り、表情を変えなかった。

「センセイ、バスケットは本来、五人のチーム同士で対戦するんですよね」

 僕の質問に、センセイは息を整えながら答えた。

「そうです。敵のコートにボールを運ぶまでに制限時間が設けられていたり、私たちがやっているより、もっと複雑です」

「きっと、そんな人数でやったら、もっと楽しいんだろうな」

「そうですね。しかし、十人いたら、酸素の生成も、食料の生産も追い付きませんから」

 またチャイムが鳴った。ゲームはまだまだ盛り上がっていて、プレーも半端なところだったが、センセイはすぐにコートを離れた。

「整理運動を始めます」

 僕とイチバンはしぶしぶボールを置いて、センセイの動きを真似て、整理運動を始めた。

「では、センセイは給食の支度をします。いつも通り、時間前に来てください。それから、ボールを片付けたら、コートにモップをかけておくように」

「はい」

 僕たちの返事を聞くと、センセイは一人で体育館を後にした。僕たちは指示通りモップをかけた。コートは汚れている風に見えないのだが、モップがけをサボると、センセイはそれを必ず見破るので、僕もイチバンも、センセイの言いつけは破らなかった。

 モップを仕舞って、着替えの時間を差し引いても、夕食までありあまる余裕があった。体育館の高い窓から漏れ入ってくる光は、もう落日が近いせいもあるだろうが、海水に屈折していよいよ頼りなげだった。僕とイチバンはどちらからともなく座り込み、高い天井を見上げた。これほど空間が広い場所は、校舎の中でここだけだった。

「ニバン、減圧室って知ってるか?」

「ゲンアツシツ?」

「ああ、この前、図書室で読んだんだ。人間の体は、気圧の中で生きていけるように出来ているから、真空に出る前には、減圧室で体内気圧を変えないといけないらしい」

「真空、宇宙のことだね」

「ああ、気圧がない空間だ」

「じゃあ、この壁一枚向こうと、真逆だ」

「そうだな」

 ちょうどその時、体育館の屋根が、キキ……と哀しく鳴いた。水圧による軋みだろう。ずっと遠くで火山が動いたか、ガスが噴出したかで、水流が生まれたのかもしれない。

「俺は体育館が、減圧室のようかもしれないって思うんだ」

「減圧室は、こんなに広いものなの?」

「分からない、俺が読んだ本には図録がなかったから。でも、人体の状態を変えるんだ。すごく大がかりな施設なんじゃないかな」

「記録が残っているスペースシャトルって、すごく大きいでしょう。もしかしたら、減圧室に場所を割いてるのかなあ」

「そうか、そうかもしれないな」

 一日の授業が終わると、僕とイチバンは、いつもこんな話に興じた。宇宙に出ることも、海底にあるこの校舎から出て海面へ向かうことも、僕たち三人の誰にも出来ないと分かっているから、こんな話はいつも楽しかった。

 僕たちは着替えて、センセイと三人で食事をした。何種類かの野菜と塩の食事。以前読んだ本で、野菜にかけるドレッシングという油を主成分とした調味液の存在を知り、僕たちは食用油を精製する方法を探しているのだけれど、油脂をたくさん含む植物の種が、ここにはない。

 センセイは宿直室で眠り、僕とイチバンは保健室のベッドで眠る。電力の消費を抑えるため、食後はすぐ床に入って消灯する。イチバンはすぐ寝てしまうのだけれど、僕はいつも消灯してすぐには寝付けない。だから、光が絶えて真っ暗になった海底を見る。ひたすら黒色でしかない窓の外の景色を見ていると、何が覗いたわけでもないのに、胸の中から心臓も骨もなくなったような感覚に襲われることがある。恐いのだけど、それは少し気持ち良かった。窓に顔を近づけて、なるべく上の方を眺める。同じ黒がずっと続いている。昼間に射してくる光は太陽によるもの。海面に出て、まだ強いままの光を汲んでくることができたら、夜の間も本が読めるのに。