読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

『海に花を投げるように』

 父さんは仕事ばかりしていた。ぼくが学校へ行く前には家を出ていて、ぼくが眠るまで帰ってこなかった。土曜日も日曜日も、持ち帰ってきた仕事にいそしんでいた。濃い言葉を交わし合った思い出が、ぼくと父さんの間には数えられるほどしか無い。わずかな数しか無いからこそ、その全ては何度も思い起こされて、油絵のように固まっている。

「お父さんが帰ってくるまでに寝てなさい。お父さんが帰ってくる夜の遅い時間には……お化けが出るから」

 無性に父さんと話をしてみたくなって、帰りを待って起きていた夜、父さんはそう言った。お化けが来ると何をされるの、父さんはお化けが寄ってきても平気なの。いくつかの疑問が生まれたが、それが言葉のかたちを取る前に、父さんは寝室に閉じこもってしまった。質問の機会を失くしたぼくには、ただ言いつけを守ることしかできなかった。

 ぼくの心にも、多くの大人がはめている箍が付き始める、その少し前のことだった。春と夏の間の季節の、夜まで雨の止まない土曜日だった。家事に疲れて昼寝をしたせいか、父さんを真似てインスタントコーヒーを飲んでみたせいか、ぼくはその夜ちっとも眠くならなかった。

 薄い毛布の中に体温が篭っていっても、眠りにくるまることがどうしても出来ず、ただ夜だけが重さを増してゆき、今まさにお化けが迫ってきているのではないかという不安で、ぼくは少し吐きたかった。その頃、お化けをどれだけ信じていたかは、よく覚えていない――というよりも、お化けを信じてよいか判断しあぐねていた時だった。そもそもお化けとは、死んだ人の魂なのか、それとも怪物の一種なのか。それが「在る」と言い切ることは出来るのか、何を材料にどう考えれば「在る」「無い」と言い切れるのか。その判断を誤ると、他の大事なことまでも正しく捉えることが出来なくなってしまいそうな、そんな恐怖があった。今なら言葉にも出来るが、恐怖を放ってくるものかもしれないというより、あまりにひどく分からないものであるがゆえに、お化けが現れるのが恐かったのだ。

 ぼくは布団から飛び出した。家の中の安全な場所を見つけて、お化けから逃げおおせられるように。昼間、本やゲームを片付けたから、家の中は動きやすかった。ぼくたちが住む家はアパートの二階にあったが、きっとお化けには高さなど関係ないだろう。

 しかし、お化けの目から逃れることは――お化けに目があるのかさえ分からないが――果たして可能なのだろうか? 押し入れや箱の中に閉じこもっても、お化けはそれをすり抜けてくるのではないか?

 そして、ぼくはベランダに出た。見渡せる限りを見渡して、お化けが近付いてくるのを、出来るだけ早く見つけられるようにするしかない。そう考えたのだ。壁という壁をすり抜けて、反対側からお化けがやってくる可能性については考えなかった。

 あれが時刻にして何時ごろのことだったか、今でも少し気になっているのだが、ぼくは泣き出した。不安に耐え切れなくなってすすり泣いた。家にいながら誰からも守られていない自分を感じながら、来るのか来ないのか分からない正体不明の何かの姿を思い描き続けていた。涙がいくら流れても、頭の中にある嫌なものは一つも出ていかなかった。

 そのうち、父さんが帰ってきた。玄関の鍵が開く音を聞いて、それまでの恐怖とは違う、筋道の立った恐怖がぼくを襲った。言いつけを守れずに起きていることや泣いていることの言い訳をどう広げたものか必死で考え始めたが、その前から引きずっていた恐怖が混乱をもたらして、考えはまとまらなかった。

 父さんはぼくを見つけたが、怒りはしなかった。何も言わなかった。座り込んで泣いているぼくを見て、何を言えばよいのか分からず、困っているようだった。ぼくも何と言えばよいか分からなくて、ぼくは泣き続け、父さんは立ち尽くし、無言と困惑だけがぼくたちを支配する時間が続いた。

「……お化け、来ない……?」

 ぼくはやっとそれだけの言葉を絞り出した。そして、言葉を発せたというだけのことに安堵して、新しい涙を流した。父さんはぼくの心の縁取りぐらいは目にしてくれたのか、苦笑いしてベランダに出てきた。ぼくは今更になって、泣き顔を見せ続けていたことを恥じ、膝に顔をうずめた。

 隣に立っている父さんが、静かに音を立てた。紙のがさがさ言う音と、その後に、爪先で砂利を少し踏んだような音を。音の正体が気になって顔を上げると、何か細いものを咥えた父さんがぼくの方を向いて、目が合った。視線が合うのは初めてだと、その時思った。

「来ても大丈夫だよ、お父さんがいるから」

 洗濯機に物を入れるようにそう言いながら、父さんは咥えていたものを口から離し、それから何か白いものを宙に吐いた。瞼の裏に何回か、こんな姿ではないかとぼくが描いていた、お化けのような何か。それは本来白いものだと目で見て分かるのだけれど、雲の残っている暗い夜気の中で灰色に見えた。

「お化けが行っちゃう」

 白いものは風の中に溶けて、ぼくたちから遠ざかっていった。そしてぼくは、甘く苦い香りもまた、ぼくたちの周囲を泳いでいるのを見た。いつも父さんがまとっていた香りの、もっと濃くなったもの。

 父さんは、ぼくが何を見てお化けと言ったのか、最初はよく分からないようだったが、そのうち気付いたようだった。父さんはまたお化けを、今度は細く速く吐き出した。お化けは先程より遠くまで、色を保ったまま飛び、そのうちまた風に溶けた。

「お化けは、お母さんとは、違うの?」

「……違うよ」

 口をついて出た質問に、父さんは少し悲しそうな顔をしてから、そう答えた。父さんに訊きたいことは、今の時間に属することもそうでないこともたくさんあったけれど、その顔を見たらもう何も訊けなかった。その夜も、夜が明けて何日経っても。

 

 ぼくが中学生の頃、父さんは死んだ。脳梗塞で、まったく突然のことだった。そして初めて、父さんはぼくにとっての叔父であり、ぼくが生まれてすぐ事故で死んだ両親に代わって、若く収入も少ないのに、ぼくを育ててくれていたことを知った。その後ぼくはキリスト教系の養護施設に入り、人の生き死ににまつわるいろいろな説諭を受けたが、それが父さんや、記憶の中にはいない実の両親への想いを、心にすっきりと収めてくれるということはなかった。

 施設に入った頃から、人の目を盗んで煙草を吸っている。煙草のけむりが記憶をよみがえらせてくれるので、いつも父さんのことを考える。父さんはいつ両親のことを話すつもりだったのか。ぼくへの愛情がないから、早くに家を出て遅くまで帰ってこなかったのか。ぼくは父さんの人生を駄目にしたのか。

 煙草を吸い終わる前はいつも、大好きだと、胸の中で唱える。面と向かって一度も言ったことがなかった言葉。返事はない。どれだけ遅くまで起きていても、お化けが来てくれたことは一度もない。