キャベツは至る所に

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『アルビュメン・プリント』

 夜のうちに乾いた汗は肌を甘やかし、いかなる温度も眠りから締め出してしまう。雨脚と共に激しくなった僕たちの生理は、シーツを温く、後に冷たくした。

 息を継ぐのに動きを緩めた時、不意に思考力を取り戻した頭の中に、「溶」という字が浮かんだのを何となく覚えている。さんずいに「容れる」と書く字が、何とも出来過ぎているように思えて、僕は笑った。お互いここまで汗みずくになって受け容れ合っている二人を、この漢字は当て字のようにかたちどっている。

 僕が曖昧に吐いた息を、笑いなのだと的確に察して、彼女もまた当たり前の思考を取り戻したようだった。「何?」と訊いてくる声に、艶めいたものと心底からの疑問とが両方混じっていた。その声は、普段の愛と今の愛が別個のものであり、しかし同じ火の中で燃えていることをはっきりと思い知らせた。

 

 

 夏の陽は昇り切らないうちから、枕に近い窓を強く染め、冷房の効きを悪くさせていた。エアコンは室温の上昇を食い止めようと、躍起になって風を立て、意識が通った僕の素肌を荒く撫でた。何も着ず、シャワーも浴びず、おざなりに体を拭っただけで、すぐに眠りに落ちたのだった。

 光のまぶしさと、熱と冷たさのどちらを強く捉えるべきかのためらいが、僕を微睡みの中にぐずぐずと引き留めた。そのうち、体にかけている薄い布団がうごめいた。彼女が起きて、布団を脱け出したのだ。今の今まで、彼女の身じろぎは少しも感じずにいた。僕より先に起きていたのか? 気配を立てないまま? それは珍しいことだった。

 洗面所から、彼女が口を漱ぐ音が微かに聴こえた。水道の水が洗面台の陶器を叩く音を聴いていると、夏の配管の熱が伝わった水の温みが思い起こされ、その想像の精度によって僕の目は冴えていった。

 肘を立てて半身を起こすと、彼女が洗面所から出てきた。

「おはよう」

「おはよう」

 僕が起きていることに彼女が驚いた様子はなく、僕にも彼女にも、裸であることを隠す素振りはなかった。性愛の昂ぶるはずがないと、僕も彼女も了解し合っていた。あらん限りの燃料を燃やしたばかりというせいもあったし、真っ白な太陽の光のもとで見る素肌が健康しか感じさせないせいもあった。

「カーテン、閉めようか。もう暑いよね」

 彼女は窓に近づき、厚いカーテンを引いた。ぐっと部屋が暗くなった。陽の名残りは、部屋が暖まっていたことを却って際立たせた。

「水、冷蔵庫にあったっけ?」

「水も、あと桃があるよ」

「モモ?」

 当たり前の発音の中に挿し込まれた《モモ》という音の列が、彼女には唐突なものに聴こえ、理解からこぼれてしまったようだった。

「実家から送られてきたんだ。季節だから」

 僕が意味をおぎなうと、得心とか期待とか様々な感動がすぐさま起こったらしく、彼女の顔がほころんだ。

「本当だ、すごいよ、香りが」

 扉を開けて冷蔵庫の光に染められた彼女の肌は、暗がりの中でそれ自体が鈍く赤く発光しているようで、今が日中だという時間感覚とたたかう淫靡を宿していた。その肌に、庫内の冷たい空気が、いま指を這わせているだろう。その指にはきっと僕の爪が生えている。

「食べていい?」

「いいよ」

 肘を持ち上げてもう一度仰向けになった時、彼女が流しの戸を開ける音が聞こえた。

「何してんの?」

「え? 包丁」

「何で? 全部食べていいよ」

 先程のように不意を打たれたわけではない、注意をしているのに意味が分からないという不安を、彼女は僕に示していた。それは僕にも伝播しかけたが、混乱に陥る前に察しがついた。

「普通、手で剥いてかぶりつかない? 桃って」

「えー、そんな風にしないよ! 皆そうなの? 君の田舎」

「一人で一個食べる時は普通……」

 僕は布団から出ると、彼女の手の上から果実をそっと握り、汁がこぼれていいように流しの上へ手を持っていった。

「ほら、こう」

 彼女を後ろから抱きしめるように腕を回し、桃を両手で握ると、開きかけた瓶の蓋を開けるように皮を捻る。薄い皮は中心からゆっくりと裂け、肉を露出させていった。桃の赤が、桃の白が、闇を吸っていき、代わりに溢れさせた飴で僕たちの指を濡らした。毎年かじってきた果物を、今初めて見ているような気になって、僕は桃から目が離せなかった。

「どうしたの?」

「いや」

「食べたい?」

「えっ?」

 彼女は桃を僕の手から抜き去り、床にこぼれないよう少しだけ表皮の果汁を流しに落とすと、僕の口もとに近づけた。食べようという気がちっともなかったが、僕は反射的に桃に歯を立てていた。よく熟した桃の果肉の一番上――この世の何より頼りない物質に、僕の体で最も硬いものを擦り付けた。報いとして汁が唇のみならず喉や胸を汚したが、その報いさえ甘い香りを立てた。

「冷たっ」

 彼女の肩にまで汁は垂れ、僕は果肉を噛むより前にその汁を吸っていた。くすぐったがられて、すぐ止めた。

 今度は僕が窓に近づき、カーテンを開けた。熱い光が部屋に差し、僕の肌を焼き始める。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと」

 桃の香が充ちた部屋に、影は少ない方が美しかった。僕は蕩けていく果肉をようやく飲み込み、その快い甘さに、眠りの前と最中に使われた水や血が少しだけ補われていくのを感じた。

 陽の光と空調の風が埃を踊らせて、その向こうで彼女は桃を食べていた。僕よりも咀嚼の音は上品で、指も僕より細い。そして舌は僕のそれより甘い。この狭い部屋に永遠は腰を下ろさないと知りながら、全てをこの眼に灼いておくことは出来ると信じて、僕は瞬きを禁じて彼女を見ていた。