キャベツは至る所に

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『エンブレース!』

――小沢健二によせて――

 

 真冬の高架のホームで、僕たちは始発の電車を待っていた。空は白み始めていたけれど、まだ太陽は地平線に差し掛かっていなかった。夜の闇はまだ固まったまま、電灯の明かりと闘い続けている。病院から駅へ来るまでに一本、駅に着いてからも一本、自販機で買った熱いお茶を飲んでいたが、その熱はもうとっくに僕の体を通って空気へ染み出していた。このホームには待ち合い室がなく、僕とチャコはベンチに座り、風に吹かれている。チャコはマフラーで鼻と口をぐるぐる巻いて、じっと目をつぶっていた。徹夜の後だから眠っていてもおかしくなかったが、どうやらただ目を閉じているだけのようだ。僕は寒さに耐えかねて、また近くの自販機で熱いものを二つ買った。ベンチに戻ると、チャコは目を開けて僕の様子を見ていた。はい、と言って、僕は持っていた缶の一本を差し出した。

「おしるこ……?」

「好きでしょ?」

「今は……」

「じゃあ、こっち飲む?」

「うん」

 自分が飲むつもりだったミルクティーを彼女に譲り、僕はチャコの好物だからと何も考えずに買ったおしるこを飲んだ。甘く、粉っぽく、熱かった。

 こういう時間に、チャコとは何度も一緒に外にいたことがある。今日はその中でも、間違いなく一番寒い。親同士が幼馴染だったために、僕たちは赤ん坊の頃からよく遊んだ。最初に夜明けに会ったのは、小学生の頃だったと思う。車で旅行に行く時、こんな風に日も出ていない時間に出発した。僕は朝っぱらから兄とつまらない喧嘩をして、自分の家の車に乗りたくなくて、チャコの家の車に乗せてもらったのだった。流星群を見に近くの公園へ行ったこともあるし、映画館とかクラブで夜じゅう過ごして一緒に帰ったこともある。雪が降っている時も、中にはあった。それでも今が一番寒い。ひどく冷え込むとは聞いていなかったし、冬の夜遊びの記憶がそれほど遠くにあるわけでもないのに。そういえば、砂糖は体を冷やすと聞いた覚えがある。チャコが集めているマンガで、小豆は甘くない、餡子の甘さは砂糖の甘さだ、とも読んだこともある。もしや、彼女がおしるこを断ったのは、そういう理由からだったのだろうか。何ということだ。せめて熱いうちに取り込んでしまおうと、僕はおしるこを勢いよく飲み下した。

 チャコは口を覗かせて、かすかに音を立てながら紅茶を啜っている。目にはやはり眠気が溜まっておらず、その奥で何かが勢いよく回っていることが、僕には確かに分かった。

「仕事、行けそう?」

「大丈夫」

「寝てもいいよ、起こすから」

 昨日は遅番、今日は夜勤というシフトなので、僕は家に帰ったら眠る余裕がある。チャコは昼の仕事をしているので、そうもいかない。それでもチャコは眠ろうとしなかった。

 いま眠るつもりになれないのは、僕も同じだった。僕たちは兄の妻の出産に立ち会い、赤ん坊の顔を見てきたばかりで、まだ緊張から脱し切れていなかった。

 兄夫婦は高校時代からの仲だった。兄の妻は付き合い出した当初から、まだ中学生だった僕たちを可愛がってくれ、何度も四人で会った。お互い一人っ子であるチャコたちは姉妹のように親しくなり、二人きりでも遊んだ。四人でいる時、僕と兄も、家の中では何となくしづらい話――親の耳に入れたくない話や、家で放つには生臭かったり美しすぎたりする話――を出来るようになり、お互いを特殊な友人としても捉えるようになった。そんな兄夫婦に、子供が生まれた。初めに兄たちから報告を受けて、僕が「命を授かる」とか「宝物が増える」という決まり文句が兄夫婦と結び付いたことについて考えている間に、チャコは喜び、気を揉み、兄の妻とお腹の子を気遣って贈り物を用意し、カフェインやハーブに頼らずにお茶の時間を楽しむ工夫について調べを付けた。彼女の出産は、僕にとっても「血の繋がった赤ん坊が生まれる」という初めての経験だったので、何とか特別な祝福をしたいと思ったし、お産の場に僕もチャコも駆けつけるのは、打ち合わせる必要なく決まったことだった。

 お産は長引いた。そろそろ帰ろうかという段になったのは三時過ぎのことだった。赤ん坊は男の子だった。今思うと、近親者ではないチャコまでずっと同席させてくれたのは、けっこう寛容な病院だったからかもしれない。

 甥が生まれたことは、色々な心配をして結婚に踏み切らない僕に、粉薬が舌に貼り付いたような苦味を味わわせた。後産まで終えて病室に移ってきた兄の妻が、甥の名前について「男の子だったら、一夜って書いて《かずや》にしようって決めてたの。チャコちゃんの《千夜子》から思い付いて」と言って、チャコが涙をこぼした時、確かに僕の心は不安にとらわれた。どうして僕はこの涙を流させるのではなく、拭っているだけなのだろう、と。

 きょうだいとも友人ともつかない二人の間に出来た、まだ生まれて間もない赤ん坊を見たことは、僕たちに愛の姿を見せてもいた。二人の部屋にある全ての生活用品とガラクタや、残高の充分なsuicaや、最寄り駅へ続く線路の枕木の周りに、僕たちの愛はただよい、様々な人たちが揮発させた同じものと混ざり合うのだと思った。きっとチャコも同じだった。壁のある改札の近くではなく、わざわざホームにいるのは、僕たちの胸で強まった炎の温度を、寒さの中で確かめていたいからだった。

 僕は二人ともが眠りを諦めていることを入念に確かめると、チャコに話しかけた。

「可愛かった?」

「カズちゃんのこと?」

「もう“カズちゃん”?」

「もう“カズちゃん”だよ」

「そうか」

「可愛かった。これからもっと可愛くなる。憎たらしくもなるんだろうけど、それでもずっと可愛い」

「分かるの?」

「うん」

 チャコはまた目を閉じた。瞼に甘い未来が踊っている。

「俺は、少し怖かった」

 僕の呟きを、瞳でも見ようとしてくれて、チャコは目を開いた。

「チャコに言うことじゃないって分かってるけど、まだ時々、ちゃんと生きていける気がしなくなる時がある」

「……うん」

「あの子が、一夜が俺も可愛い。チャコもそうなんだろうけど、あの子のためにしてあげたいことが、前から、もういくつもある。別の色んな相手にも同じことをしたら、どんな相手のためにもなるって、真剣に思ってるんだ」

「分かるよ」

「でも、そんなこと俺に本当に出来るのか、恐くなる時がある。……だから……」

 だからプロポーズをためらっている、とまでは言えなかった。僕はチャコを愛している。一生愛したいと思う。しかし僕の稼ぎは少なく、今の仕事を十年二十年あてにしてよいものか分からない。そして愛を維持するのに一番便利なリソースはお金だった。

 チャコの気持ちをはっきり確かめたこともない。彼女は昔から結婚に惹かれていないし、(彼女の親はあまり干渉的ではないけれど)親から何を言われてもどこ吹く風だった。結婚したいともしたくないとも言わないことに甘えて、僕も何も言わないまま永い同棲を続けていた。そして、関係が《収まっていない》という実感だけが、僕にもチャコにもあった。結婚は幸せの担保ではない。しかし、結婚の酬いとして得られる幸せもある。それは分かっていた。ただ、踏ん切りはつかなかった。

 一夜を見た時、僕は「自分がこれまで感じた幸せを彼にも感じてほしい」と思うより先に、「自分がこれまで感じた不幸せを彼には感じてほしくない」と思った。その思いが、僕のためらいの根だったのかもしれない。

 一夜が眠る(もしくは生理的に泣き声を上げている)病院の方を想うと、心がやわらかく温む。その一方で、なかなか縁を切れない絶望を、改めて持て余してもいる。ここは生きるに値するのだろうか? あの子がいつか世界を愛したとする。僕はどうだろうか? あの子が生者としての自分を理解した時、僕はあの子に「いつまでもこの世界に生きていたい」と言えるだろうか? それを言えない僕が、永遠の愛とかいうとてつもないものを人に贈れるのか?

 ぼくが「だから」と言った後でせき止めたものを、チャコはずっと待った。しかし僕が言葉を続けられないと気付くと、ゆっくりと僕から視線を外し、何か考えを巡らせた後、話し始めた。

「私も怖い。カズちゃんのためにしたいことがあっても、それがカズちゃんに嫌がられるのが怖いし、他の人にバカにされたり下らないって思われるのも怖い。やらなきゃ失敗するか成功するか分かんなくても、それは怖いよ。優しさが投げ捨てられたり、綺麗にしたものを汚されるのは」

 そう言われて、僕も一夜に贈ったプレゼントが、あの子に見向きもされない様を想像した。なかなか辛いものがある。

「でも、私はしたいな。したいことがあって、間違ってないと思えるなら、したいよ。そうしなきゃ幸せになれない。いや、違うな。じゃなくて、幸せでい続けられないから」

 最後の訂正は、僕の耳だけでなく心にまで向けられていた。かじかんだ鼻がむず痒くなり、少し泣きそうになっていることに気付いた。泣くのはあまりにも格好悪いと思い、冷え切ったおしるこの缶を握りしめて必死でこらえた。

 しばらくの沈黙の後、右の方から光が射してきて、僕たちはそちらを向いた。太陽が顔を見せたのだ。冷え切った頬は、まだ光に熱をほとんど感じない。それでいて、ひどくまぶしい。こんな熱さも痛みもない単純な光に包まれて、全てが大きなゼロへと回収されていくのは、世界の終わり方としてまっとうであると思った。けれど、まだ僕は終われなかった。

「もうちょっと待っててほしい」

 言葉そのものの情けなさと、前置きを設けなかったことの身勝手さを詫びるために、僕はチャコの眼を見ながらそう言った。チャコには僕が太陽を背負っているように見えるだろうから、果たして僕の貌がどれだけつぶさに見えたかは分からない。

「待ってるよ。ずっとではないけど」

 しばらく僕たちは見つめ合った。僕は彼女の手が僕に触れてくれることを期待した。その期待は拳で脇腹を殴られるという結果によって報われた。じゃれ合いめいたパンチだったが、的確に肝臓を打たれたせいで衝撃が大きく、僕は「ズッ」と呻いて缶を落とした。

「この一発分、〆切は伸ばすからさ。……えっ、嘘、そんな痛くないでしょ?」

 自分の間の抜けた呻き声、小気味よく音を立てて回るおしるこの缶、おしるこの缶がわざわざ小豆色をしていること、チャコの当て勘の良さ、全てがおかしかった。寝不足でハイになりやすくなっていることも味方して、僕はうずくまって笑い続けた。震える僕を見て、チャコは少し心配し始めていた。笑いを噛み殺し、大丈夫大丈夫と繰り返しながら缶を拾い、チャコの手からも空き缶を取り上げ、どちらもゴミ箱に捨てた。

「――綺麗だね」

 改めて東の空を見ながら呟くと、背中の方からチャコが鼻歌をうたうのが聞こえてきた。好きな曲なのに、寝不足の頭ではタイトルを弾き出すのに時間がかかった。ユーミンの『雨の街を』の歌い出しだった。サビに至る前に鼻歌をやめて、チャコが言った。

「何か、ハッピーバースデーじゃなくて、ハッピーニューイヤーって感じ」

 何となく僕にも共感できた。太陽の周りの牛乳色が色づいていき、群青色にまで変わっていく空を見ていると、目に映る限りに住む人たちが、新しく何かを始めようとしているような気がした。

「初日の出って皆ありがたがるけど、何年と何年に見たって、ちゃんと記憶してない」

「ああ、俺もそうかも」

「初日の出以外だと、一回しか見たことないから、よく覚えてるけど」

「震災の次の日?」

「そう。寝られなかったから」

 僕たちはあの日、職場から帰宅を命じられた後、何とか連絡を付けて落ち合い、歩いて帰ろうとした。昼間のうちに移動を始めたのに、家に着いたのは夜も深まってからだった。揺れで散らかった部屋を片付け、冷凍していたカレーを食べても、疲れた身体が緊張を解くことはなかった。僕は夜半少しまどろんだが、日の出を見ているチャコに気付いて目を覚ましたのだった。チャコも僕が起きたことにすぐ気付いた。あの時、空を見て「綺麗」と言ったのは彼女の方だった。僕はチャコが見ていない時にしか、被害の報道を見なかった。どんな波も、どんな火も、つまりどんな死も、彼女に見せたくなかった。今分かった。僕はそれらから彼女を守れる自信がなかったから、彼女にそれを見せるのが恐かったのだ。チャコが見たがっているか、見ずにいたがっているかは、確かめないまま。

 振り返る。ベンチに座って、またマフラーで口許を覆い、太陽か僕を見ているチャコを見る。そして、今どれだけ彼女を抱きしめたいか確かめてから、彼女を抱きしめようと決める。その想いは、太陽を綺麗だと言った気持ちと、兄たち三人を想う気持ちと無関係ではない。座ったままのチャコを抱きしめて、「うおっ、おい」と言われても無視を決め込み、僕を突き放しはしない彼女を、寒さだけではなく、時間や光からさえ守りたいと願う。

 今より善い者になって、今よりも善く君を愛し、どんな約束もできるようになりたい。その想いをどう声にすればいいか分からないまま、僕は君を抱きしめている。