キャベツは至る所に

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『補色の花』

 君は僕の家まで駆けてきた。そして、前触れなく玄関を開けた僕を見て、驚きながら笑った。待ち合わせをした場所で、相手から驚かれたことはない。来ると分かっているものには驚けない。君は約束がどんなものだか分かっているから驚いた。

 一瞬、体の内側いっぱいに羽が舞ったような焦りが君を充たして、僕にもそれが転写された。君はことばを口にすることをためらって、視線を僕に残しながら、僕の家に背中を向けた。君にとって、もう僕の家は目的地ではなく、僕にとってもこの家は出発点でしかなかった。

 冬の朝の空気の中を走って、君の頬には、果物のように痛ましい紅が差している。君が歩く方に僕も歩いていく。

 歩けば、風は君を刺さず、君を撫でた。君に目当ての場所はなかった。君と僕が生まれ育ってきたこの町並み、十年の時間ずっと呼吸してきたこの地域に、真新しい所などもうなかったし、不可解なものにも既にいくらか手垢を付けていた。この町には適度な場所と不充分な場所しかなく、聖域も死地もなかった。

 君の足は、土が堆く盛られた広い空地に向いた。背の伸びた期待の苗が、突然枯れた。ここは何人もの友達と、何通りものグループで、何日にも分けて足跡をつけた、面白さを舐めつくした場所だった。君と二人遊ぶのが初めてというこの日に、一番に踏み入るべき場所ではない。

 君は一つの場所に辿り着いたことによる喜びと落胆とを感じ、僕の反応をうかがおうと振り向いた。君の喜びも落胆も、僕同様の免疫のために著しく鈍麻されていた。君は僕の表情を一瞥しただけで、同じ抗体機能の働きを察し、納得ずくの微笑みを作った。君は盛られた土の頂上を目指して、ゆっくりと歩みを進めた。身長の倍あるかないかの小さい山だ。君の足取りには目的をただ素早く果たすことへの目的意識がない。思慮も意味もない、ただ意思と神経と身体とが最も単純な回路でつながっているあの瞬間の反射的な快楽とは、無縁の運動を君はする。僕は君に追いつこうという目的のために、斜面を駆け上がった。

 君は遠くを指差した。

「あれが、家。あの赤い屋根の」

 君が指差した方角に、赤と呼べる色の屋根は一つしかなかったので、僕には君の家の位置が確かに分かった。この時初めて、僕たちはそれぞれの家の位置を把握した。

 家が人を守るものである以上、例えどんな相手に対してでも自分の家の在り処を明かすことは、自分が無防備に過ごしている場所を教えることになる。僕に君を害するつもりはない。しかし君は、僕が防御を解く場所を、一方的に知っていた。君にだって害意はなく、級友に害意を向けることの必然性すら、君の視野にはまったく存していなかったが、君は自分の家の場所を教えていないことに明らかな不公平を感じていた。

 僕が君の家の場所を強く理解すると、君は安心して山から降りた。もうこの空地は用済みだった。

 学校も冬休みを迎えもうすぐ年も明けるという今、親の郷里に帰っている者も多いからか、単にまだ朝早いからか、他の子供とは出くわさなかった。大人の目はなんでもないが、別の集団の子供の目は鏡のように目障りだ。

 僕と君は、ごく些細なきっかけでグループの境目を跨いだばかりだった。僕たちのことをよく知る者に今出くわせば、好奇の目で見られることは間違いない。君は自由を感じて歩いた。僕も自由を感じて歩いた。

 君は道を外れて、冬枯れのすすき野原を歩き始めた。遮るもののない空間に吹く風は冷たい。君は乾いた土を蹴った。しばらく雨が降っていないので、白茶けた細かな粒が広く舞い、緩んだ風に柔らかく散っていった。僕が真似ると、君はもう一度、先ほどよりも弱く土を蹴った。同じくらいの窪みが二つ、それより小さな窪みが一つ、見つけづらい星座のように並んだ。君は思った通りの美観を作る三点が作れたことに満足して、また歩き始める。移動のためではなく、この空間を遊覧するべく。僕は君の軌跡を辿る。

 君は風の音に遮られた静寂を見る。十二月三十一日が一月一日になる瞬間、快哉が上がることや鐘が鳴らされることはあっても、動物や草木がそれに付き合うわけではないし、時間を駆動させているエンジンがすげ替わったり、世界が一瞬で脱皮するわけではない。それでも年が明けようとする時期には、何かが終わっていく気配が漂う。生き物が死んでいく時、呼吸と脈が細くなっていくのと同じように、三百六十日生きてきた年が死んでいく静けさを君は見ている。

 原っぱの向こうに、いずれ高速道路への分岐にぶつかるバイパスが走っている。風に消えてしまって、車の音は聞こえない。君は針のような細さにしか見えない、バイパスに並ぶ電灯を見遣った。

「車でああいう道を走ると」

 君は僕の顔を見て話し始めた。言葉を発することではなく、意味を伝えることを意識していた。

「窓の外を、灯りが流れていくよね」

 その光景が好きなのだとは、君は言わなかった。僕が、綺麗だよね、と答えると、君は頷いた。そして君はバイパスの方へ歩き出した。

 たくさんの車が、君や僕のために走っているのではないのだと見せつけてくるかのように、バイパスを走り過ぎていった。車道に沿う歩道を歩きながら、君は雨風に晒された雑誌やペットボトルを蹴った。僕は君が蹴ったものを蹴った。どちらが始めたということが判然としないまま、缶を順番に蹴りながら進む遊びが始まった。この遊びは、僕たちの家の方へと向かう道に差し掛かるまで続いたが、君の蹴った缶が蓋の割れた排水溝へと入り込んで終わりを迎えた。さして面白いと思うでもなく続いた遊びだったが、君は申し訳ないと思いながら僕を見た。君が予想した通り、僕がその表情を笑い飛ばしたので、君もそっくり同じ笑顔になった。

 雑木林は寒さから長居する気が起きなかったが、君は歩いていける目ぼしい遊び場を巡り、僕はそれに付いていった。大した会話はなく、ルールの考えられた遊びに興じることもなかった。ただ君は、僕もよく知っている場所を改めて僕に見せた。自分が遊んでいる様のスライドと、僕が遊んでいる様のスライドをうまく重ねて、二人が一緒に遊んでいる画を作るように。

 腹が空いて、家に帰ることにした。先に僕の家に着いた。

「この後、親と買い物に行かなくちゃいけないんだ」

 僕も部屋の掃除を言いつけられていて、午前も午後も遊び歩くことが許されていない。それを告げると、君は残念がりながら笑った。

「またね」

 車窓から見る灯りの美しさを語らなかったように、君はまた遊ぼうと言わず、次の約束に触れようとしなかった。しかし、今朝会った時に驚いたような、果たされるその時まで約束は破られる恐れがある、という思いからではない。君はもう、二人が約束を交わすための場所を見つけたと確信していた。友達になるのに手形は要らないが、相手を祀る祭壇を見つけられなければ、関係は絆にならないのだと、君も僕も分かりはじめていた。

 同じ言葉を返して家に入り、君が視界からいなくなった。君の期待に応えていると感じながら、少しだけ寂しそうな表情を作った。