キャベツは至る所に

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書く脳

 

 

示唆に富むツイートだと思った。ただここでは、初めて見たわけではないが使い慣れてはいない単語、「ディスアビリティ」から生じた妄想についてだけ書く。

 

「アビリティ」はしばしばゲーム用語として使われる。敵キャラクターに大きなダメージを与える、敵からの攻撃を無効にする、失われた数値を回復させる。そうした特殊なコマンドの総称として用いられがちだ。アビリティを多く習得/取得していくことは、ゲームが進行していくことのあらわれでもある。

「アビリティ」を身につけていくのではなく、「ディスアビリティ」を解除していくというゲームデザインはどうか、と思い付いた。レベルが上がったりイベントをこなしたりアイテムを手に入れたりして、特殊なコマンドを扱えるようになる。それが「出来なくなくなっていく」という叙述で表現されるゲーム。具体的な例を挙げるには世界設定や操作システムを仮定しないといけないが、たとえばそのゲームには、斧やハンマーのような強力な武器が出てくる。あるキャラクターは非力で、そうした武器を装備できないのだが、トレーニングするイベントをクリアすると筋力が付いて装備が可能になる。それが、キャラのステータスから、「非力」というディスアビリティが削除されるという方法で表現される。

これ、けっこう良いのではないか、寂しくて、と手前味噌ながら思った。パーティメンバーと別れるとか、登場人物の命を救うためにお守りが壊れるとか、そうした演出はいつも寂しさを印象に残す。「出来る」を増やすのではなく、「出来ない」を減らして行動の幅を広げていくゲームがあってもよいのではないか。あんまり徹底していなければ、そういう表現を含むゲームは既にあるとは思うが。『ヴァルキリー・プロファイル』の勇者適正値なんか、システムの根幹的要素ではない(戦闘には関与しない)にせよ、そうと言えばそうだった。

 

 

獲得は喪失でもある。「持ち得ていない」という状態を失うこと。増加だけをもたらす変化はない。蓄積するもの――訓練による習熟などは、確かにある。そこからなる豊かな表現も存在する。しかしそれは、未熟だから為し得た失敗を犯せなくなる、という不可能性の体得でもある。発見も、無知の喪失である。

何かを知ろうとすること、覚えようとすることは、自分を今より高めようとする行為ではある。けれどそれは、ゼロを一に、一を十に、百に千にしていくことではない。

 

このブログで何かの感想ではない文章を書くのは、ずいぶん久しぶりだ。物書きを疎かにして、「書く脳」が作れていないな、という感覚があって、久しぶりに考えていることを日記のような体裁で書いてみようかと思った。書く脳は書き続けることでしか整えられない。書きたい小説を書くのに、感覚をチューニングする必要を感じている。

「書く脳」というのも体感とか印象から来る言葉なので、抽象的にしか説明できないし、この文章を読んだだけの人に分かってもらえるものでもないと思うが、これは「書ける脳」とは全く違う。「その状態になれば小説を完成させられる」というものではない。

詩や小説を書いて十年以上になるが、自分に「詩/小説が書ける」というアビリティが備わっているという実感はない(正確に言うと、書いている時のハイの中で実感を掴んだ気になったことはあるが、確信は全くない)。「整序された文章を書ける」ということが、文章を書く時の思考や感覚にまでは興味のない人にとって、「詩/小説が書ける」というアビリティとして認識されているのは分かる。中には、そうしたアビリティを習得した者だけが、創作としての文章を書き得ると思っている人もいる。それは違う。

そもそも詩も小説も整序されている必要はないが、それ以前に、詩も小説も「書ける」と思って書くものではない。文章を書くということは、物理法則が分からないまま人工衛星を打ち上げるようなものだ。どれだけ構想を練っても、青写真と寸分たがわぬものが書けたことはほぼない。企図したほうへまっすぐに進み続けていくようには、文章は書けない。プロトコルがはっきりしている――書き手と読み手の立場が厳しく限定されているなら話は別だが、不特定多数の人間に向けて書かれるならそれは不可能だ。そこにはブレや迷いがどうしても挟まる。「書ける脳」という漠然とした状態は有り得ない。

最近いろいろな楽器を触ることが多いが、楽器は「出来るようになる」という実感がすごく明確にある。「このフレーズを弾きたい」とか「このコードからこのコードへすぐ移らないといけない」とか、具体的な目標を設定しがちなためだが、そもそも演奏の習熟というのは、動作をミスなく実行できるよう、主に反復練習によって脳の処理が効率化されていくということらしい。上手くなることとは即ち、「弾ける脳になる」ということなのだ。発想を得るまでももちろん大変だが、「思い付いたこのフレーズを歌いたい/弾きたい」、それが出来る脳を作っていく、そこには単純な解決(クリア)の喜びがある。文章にはそれが無い。思い付いたら、それは書けるのだから。思い付くまでが、捻り出すまでが大変なのだから。どうすれば捻り出せるか、どうすれば閃けるかという問いには、公式的な解は無い。

では「書ける脳」、閃ける脳が作り得ないとして、いかにして作品を書き切るのか。「書けるはずだ」という自己暗示的な発奮で書いていくことは余力がなければ出来ないし、その勢いによって、望ましいためらいをかき消す恐れもある。

 

書き切る方法として、今のところ一番望ましいと思っているのが、書けないかもしれないけれど書くしかないと思い続けることだ。ここまで御託を並べて結局それかという感じだし、「スティール・ボール・ラン」の「遠回りが最短だった」のパクりのようだが、そう思っている。

「書く脳」は作品を書き切れる状態を指すものではないと上記したが、つまり「書く脳」とは「書ける」というアビリティを得た状態ではなく、「書けない」というディスアビリティを知覚し、抑制した状態だということだ。不出来や誤読を受け入れる、つまり完璧を諦めることにも似ているが、それともまた違う。完璧を諦めるのは羞恥心を失くすということでもあり、むしろ自己暗示的な発奮に近い。質もなにも求めなければ、文章は誰にだって、どれだけだって書ける。その心理や思考を「書ける脳」と呼んでもいいが、そこから生まれる文章は価値を持たないだろう。

そういうことを考えていると、ノースロップ・フライを思い出した。カナダの文学研究者であるフライは、文学の様式の変遷を、神話→ロマンス→悲劇→喜劇→アイロニーに区分できるとした。文学における主人公の能力は時代の経過とともに低下している、文学の根源は比喩を現実に適応させようとした神話(聖典)にある、という論である。

喜劇やアイロニーは言わずもがなだが、超常的なまでのアビリティ(権能)の物語である神話も、ディスアビリティから生まれたものと見ることが出来る。天変地異も、死も、古来は神の業によるものとされた。神という自分たち以上の存在を現象(フェノメナ)の根源として見出すまでに、「推測できない」「受け容れられない」「人の手では同じことが出来ない」というディスアビリティが働く必要があった。

新しい文章は、まだ言われていない言葉によって書かれる。そうした言葉は、何を言えるか、どうしたら言えるか考えていくよりも、なぜ言われてこなかったのかを、未踏の暗闇に問い続けることで見つけられるものなのではないか。

音楽の場合「弾ける」からすばらしい演奏へ辿り着けるのに対して、「書けない」を見つめるところから、秀でた文章を書くことへの道のりが始まる。だから文章はしんどい。