キャベツは至る所に

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PICKY In thIs PandemIC - 1

このブログの管理人であるぼくことオオクマシュウと、久喜カフェクウワの店長であるマミヤジュンイチロウさんとの交流が生まれたのは、北浦和居酒屋ちどりのオープン間もない頃だった。浦和の酒飲みたちと共にちどりへ来ていたマミヤさんと初めてお会いして、クウワが出店し、ぼくが足しげく通ったTOIROCK FESの思い出話に花を咲かせると、一気に距離が縮まったのを感じた。その流れに乗って、と言えばよいのか、クウワとは色々な接点が生まれた。

お店までご飯を食べに行ったりライブを観に行ったり、ということもあれば、埼玉を離れて愛知県のラグーナ蒲郡で――ぼくが1ステージの手伝いをしている「森、道、市場」の会場で――顔を合わせたなんてこともある。クウワがむさしの村で「愛日燦々」を開催した時には、ぼくもスタッフの一員になったりした。TOTEで連載している小説シリーズ『NOWHERE』の舞台として、クウワを描写したこともあった(⊂[TOTE | NOVEL | NOWHERE])。

ついには、我々二人で(一応の)ホストを務めるトークイベント「Picky」まで始めた。過去に3回「Picky」を開催した中で、自分の趣味を爆発的に広げたトイロックの話をしたい、という願望が強まっていった。我々二人の結節点としては、恐らく一番大きいものだったからだ。2019年末から、マミヤさんに打診はしていた。しかしトイロックは、それ単体について話せば本質に迫れるイベントではない。本質を捉えようとするなら、大きな樹形図の一部について話すような意識が必要になる。そんなことについて話す語り部に我々がなれるだろうか、という不安はあった。そう考える一方で、そろそろ誰かがあの辺りのことをたくさん話すのもいいんじゃないか、という思いもあった。

 

そんな中、新型コロナウイルスパンデミックが起こった。

ぼくもブッキングを担当したライブの一つを延期し、クウワも予定した公演の実施体制を大きく変更した。「Picky」のような、不特定多数の人間が一堂に会して飲食をしながら話すというイベントも、開催は躊躇せざるを得ない。会場の環境や規模が、どのようなものであるにせよ。

しかし、こんな現状だからこそ余計に、マミヤさんとトイロックの話をしたくなった。トイロックは良い「場」であった。ぼくたち観客は今そうした場から切り離されており、マミヤさんはそうした場の運営を生業としているからだ。状況は特殊だ。まとまりはつかないかもしれない。しかし、どのような着地点を見つけるにせよ、今話しておくべきだと思った。「Picky」は誰がいつ話し出してもよい、時には脱線も是とするトークイベントである。今の二人の考えを記録に残しておきたかった。

 

以下は2020年6月13日、営業終了後のカフェクウワにて、ぼくとマミヤさんが交わした会話を文字に起こしたものである。

博識であるとか卓見に富むとかいう自負は、ぼくにはない。今求められているのは、そういう力にもとづく言葉や記事かもしれない。ただ、どう困り、どう悩んでいるか、誰かのそうした情況を記録しておくことには、かならず何かの意味がある。

 

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オ:店舗がどれぐらい苦しい、興行とかライブを打つにしてもこれぐらい苦慮しているみたいなことを話を、何でトイロックとかと絡めるかって話なんですが……特に月刊ウォンブの方がそうだったんじゃないかと思うんですけど、「そこに行けば誰かいる」とか「何か面白いことやってる」でリピートしてた人がたくさんいたと思うんですよ。そういう場のことについて話したいと考えております。今、実際に「ここに行けば何かある」って動く足が封じられているような状況なので。

 

マ:うん、そうだね。

 

オ:ゆくゆくはPickyでそういう話が出来たらと思うんで、その助走という意味も込めて。しかし先日、すげえ久しぶりに友達がDJするのを聴きに行ったんですけど……楽しかったですね!

 

マ:いやあ、楽しいでしょう、そりゃあ。

 

オ:人がかける音楽を大音量で聴くっていうことがこんなに楽しいものだったのかというのがありましたね。どれだけYouTubeとかでサジェストされる、聴いたことないもの聴いても、事故にはならないんだなと。

 

マ:どんどんさ、そういう配信とかサブスクで聴くとか、YouTubeで検索して聴くとかって、最終的に何かのアルゴリズムで丸め込まれるじゃん。「大体こういう感じでしょ?」みたいなものに丸め込まれるのがスゴい嫌で。嫌っていうか、「もっといいものはないのか」って音楽聴いてる人には苦痛だよね。だから、今はラジオ聴いてます。ラジオはすごい意表を突かれるよね。番組としてかけなきゃいけない曲は、ある程度あると思うんだけど。ハッとする時がある。

 

オ:「今更聴かないよ」みたいのを聴かされたりしますよね。

 

マ:そうそうそう(笑)。あえて自分のレコードの棚から取り出して聴くことはないけど、かかってきた時に「すげー良い曲だな」ってしみじみ思ったり。そういうのあるよね。

 

オ:そういう音楽遍歴みたいな話もしたかったんですよ。自分にとって、トイロックって事故で辿り着いたようなところがあるんで。マミヤさんとトイロックがというか、クウワとトイロックがなぜクロスしたのか、ということも訊きたくて。そもそもマミヤさんって何年生まれでしたっけ? ていうか、年齢は記事に載せて大丈夫なんでしたっけ?

 

マ:1981年生まれ。大丈夫、サバ読まないんで大丈夫です(笑)。

 

オ:どこらへんから音楽にハマッていったんですか?

 

マ:音楽自体に興味を持ったきっかけは、車かもしれない。親が車でかけてた曲と、あと家の中でかかってたラジオ。うちの親が大好きなのがサザンとユーミンで、常にかかってるみたいな感じで。そこに段々ドリカムとか今井美樹とかも母親が仕入れて入ってきて、それを無意識に聴いてたのが、今思えば沁みついてるものなのかなってのがあるけど。自発的に何か聴きたくなってったのって、ラジオのヒットチャートの番組とかが…‥。

 

オ:今ちょうど……(今井美樹の『雨にキッスの花束を』が偶然流れ始めて吹き出す)。

 

マ:ああ、これね(笑)。これ大好き。

 

オ:これ、作曲KANなんですよね。

 

マ:KANさんすごいねー。これもね、DE DE MOUSEさんか誰かが、前にDJでかけたのよ。全然違う脈絡からいきなりこれかけ始めて、ウワーッ久しぶりに聴いたと思って、店でもかけようと思って(笑)。当時の今井美樹とかはよく聴かされてた。土曜日にナックファイブでバッキー木場さんがやってた、日本のチャートを流す番組があって、それを毎週聴いてた。そこで聴いた良い曲をツタヤに借りに行くのよ。で、それをダビングして。

 

オ:その時の媒体はテープですよね。MDの時代は来ませんでした?

 

マ:中学ぐらいでMDが来るんだけど、それまではテープ。小学校高学年ごろまで聴いてたのはやっぱりJ-POPなんだけど、だんだんだんだん何かこう、もっと違うものが聴きたいってなってきて、J-WAVEでやってるクリス・ペプラーさんの『TOKIO HOT 100』、あれを聴くようになったの。それで洋楽も聴くようになった。小学生の時はね、B’zが好きで。短冊CD用のケースっていうのがあったのよ、バインダーみたいな。当時出てたシングルをそれに入れて、毎日眺めてた(笑)。小5か小6ぐらいの時に放送委員になったんだけど、B’zは流してた。中学でも放送委員になって、電気グルーヴとかかけてた。その頃から「人に薦めたい」っていう欲が来てた。

 

オ:洋楽の入りは何だったんですか? 当時はヒップホップとかR&Bの波も起こり始めてましたよね。

 

マ:J-WAVE聴いてると、そっち系がよく流れてたかな。でも、そういう波がガッツリ来てる感じは、まだ全然なくて。布袋からメタルに行った仲良い子がいて、スレイヤー観に一緒に渋谷公会堂行ったりはしてた。あれいくつの時だったかな、中学……うーん。それが生で音楽を浴びた二回目ぐらいのやつ。一回目のライブも、それもラジオがきっかけで。ドリアン助川さんの『金髪先生』が凄い好きで、ラジオも聴いてたんだけど、そのラジオのイベントがあったのよ。抽選で当たれば無料の。叫ぶ詩人の会の人とか、そのラジオとか『金髪先生』に出てた人が出てて。あ、でも、その頃にはパンクとかも聴いてたはずなんだよな。グリーン・デイが流行ってた。メロコアの入りみたいのはグリーン・デイ。友達からハイスタ(Hi-Standard)を教わって、それが中3~高1ぐらいにかけてだから、グリーン・デイはその前かもしんない。塾に通ってたんだけど、その塾の入ってるビルの下にCD屋さんがあって、塾行く前にそこ寄ってて(笑)。

 

オ:すごい悪い環境ですね(笑)。

 

マ:そう(笑)。そのお店なくなった時は本当に悲しかった、そこで色んなものを買った思い出があるから。

 

オ:俺にとっての大宮WAVEみたいなもんですね。

 

マ:そんなに品揃えは良くなかったと思うけど(笑)。「アビーロード」ってお店でね。

 

オ:良い名前だなあ。

 

マ:ドラゴンアッシュの最初に出たEP2枚も、そこで「何かこれすごそう」って買ってて。ジャングルのコンピレーションも何かよく分かんないけど買ったり。ドラムンベースじゃなくてジャングルね。でも同時にテクノっぽいのも聴いてたし、パンクとかJ-POPとか、オルタナっぽいのも聴いてたし。友達がそれぞれ違うジャンルを追ってたりしたしね。デカかったのはハイスタの盛り上がりかな、やっぱり。あれはデカかった。

 

オ:自分は87年生まれなんですけど、自分が中高の頃まで、その盛り上がりは続いてた感じしますからね。当時に出てきてたバンドでいうと、例えばエルレ(ガーデン)とか、Hawaiian 6だったりするんですけど。ハワイアンの『MAGIC』が高2か高3の時ですね。

 

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マ:Hawaiian 6とか出てきた時は、もう何か、衝撃すぎて。「何これ!」ってなったよ。「こんなん出来るの!?」「凄い進化してるな」って思った。

AIR JAMの98と2000には行ったんだけど、メロコアにちょっと刺激が足りなくなってくるの、だんだん。もっと重い方に行くの。BACK DROP BOMBとかGarlic Boysとか同じ所に出る訳じゃん、COCOBATとか。そういうの聴いてるとメロディアスな奴より、もっとゴリッとした方がカッコイイじゃん、みたいになってきて。それで海外のミクスチャーとかヘビーラウドロックとかの方に行って、レイジ(・アゲインスト・ザ・マシーン)とかリンプ(・ビズキット)とかKORNとか、あっちの方に行った。でも、それと同時に中3ぐらいで、友達の影響でニルヴァーナを聴くのよ。94年に(カート・コバーンが)死んじゃうからリアルタイムでは関われてないんだけど、すごいハマって。ニルヴァーナからオルタナ方面に行った。

 

オ:ピクシーズとかソニック・ユースとか。

 

マ:そうそう。あとブラーもその流れで聴いたし、そういうポップに聴けるのもあれば、アリス・イン・チェインズみたいなダークなオルタナも好きだったし。そういうの並行して聴いてたりしたな。

あと、小学校の時からの友達で、ブランキー・ジェット・シティが大好きなお兄ちゃんがいるっていう子がいて。そこん家に遊びに行くと必ずブランキーを聴かされ、映像を観させられるっていうのがあって。毎回語られるわけよ、ブランキーの凄さみたいなのを、そこのお兄ちゃんから(笑)。それでどんどんブランキー好きになった、っていうのが中学の頃かな。ブランキーを最初すごい好きになったのって『ガソリンの揺れかた』で、そこから遡っていく感じだった。ブランキー聴いてたからミッシェルも好きになっていった、っていうのもあった。日本にもかっこいいロックがあるんだ、ってなって。高校時代にミッシェルのライブはよく行ってて。ちょうどバコーンと来てた時だから、セカンドぐらいの時かな。

 

オ:ブランキーもミッシェルも、音楽じゃないところから知ったんですよね。『青い春』の映画でミッシェル知ったり、『多重人格探偵サイコ』でブランキー知ったり。「サイコ」の中で、『水色』がかかるシーンがあるんすよ。

 

マ:「サイコ」っていつぐらい? 時系列が結構あいまいに……。何にどこで出会ってるのか、もう、ちょっとパッとは分からないね(笑)。

 

オ:高校の時にブックオフで読んでたんで、2000年代初め頃に始まってるはずですね(※オオクマ註:正しくは97年に連載開始)。音楽はリバイバル的に聴くことも多いし、パッとはなかなか分からないことも……。岡崎京子の『東京ガールズブラボー』の巻末に浅田彰との対談が載ってるんですけど、その中で「もはや全ての過去は等距離になった」って話があって。どんどんその傾向は強まってますよね。

 

マ:今の人はどう思ってんのかな? 感覚が全然違うと思うんだけど。我々の頃って「順を追っていくのが良いことだ」っていうか、「ルーツを辿っていけ」みたいなのがあったけど。

 

オ:自分の頃も、それはありましたね。自分は高校入ってからヒップホップ聴き出すんですけど、周りにはもっと早くハマッてる友達がいたわけですよ。ラップやりたいんだ、DJやりたいんだみたいな奴らと仲良くなったんで。そこで「お前、これを聴かなきゃダメだ」みたいな友人間のトップダウン的なやりとりというか、洗礼みたいのがありましたね。ソウルとかに遡らないと、B-BOYとしてリアルではない、みたいなのが。

 

マ:そういう人たちって、何ていうか、ちょっとワルい子たち? ではない? もう普通の子?

 

オ:うーん……普通の子もいました。って感じでしょうか(笑)。

 

マ:割とやっぱりヤンキーが聴きがちな……我々の頃、やっぱりヒップホップってまだ、恐い人たちの音楽みたいなのがあって。中学の頃、ちょっと悪かった子と仲良かったんだけど、家行くとキングギドラがかかってて、でもそれと同時にダイアナ・ロスとかもかかってたりして、ヤンキーってこういうの好きだなっていうのが俺の中ではあって。

 

オ:ヤンキーとかワルいってよりかは、絶対ナード寄りの人たちでしたね。オタク気質っていうか。

 

マ:(二人の年齢差の)何年かで、やっぱりちょっと変わってるんだね。

 

オ:それはあると思います。その時の友達、大体ガンダムオタクでしたしね。

 

マ:そうなの(笑)?

 

オ:だから自分の中で、B-BOYとガンダムって、結構繋がりがちな印象が……。

 

マ:何で何で?(笑)

 

オ:あのー、面白いと思うのは、ちょうど岡崎京子の話しましたけど、岡崎って日本のラップは聴いてたわけですよね。そして岡崎って「おたく」が超嫌いだったんですよね。おたく女をすごい悪し様に描いてたりする。『リバーズ・エッジ』でも、BL描いてる女の子をそういう風に描いてるんですよね。でも時代と共に、「オタク」の像も変わったし、B-BOYとかの像も変わってる。で、我々から見るとスチャダラってオタクなんですよ。かっこいいオタク。

 

マ:まあまあ、そうだね。オタク界のスターみたいなところはあるよね。

 

オ:色んな層がゴチャゴチャになってた時だったのかな、と、何となく思いますね。

 

マ:あれ、「ブギー・バック」って何年?

 

オ:えーと、95年……? 『LIFE』が95?

 

マ:あれが欲しいね。一覧表みたいのが。

 

オ:(検索して)94年ですね。

 

マ:94か。ブギー・バックの後、『DA・YO・NE』が流行るんですよ。あの感じで、ちょっと嫌になっちゃって。

 

オ:ひところ「J-RAP」って言われてた奴ですね。

 

マ:それこそブギー・バックも今はホントに好きなんだけど、当時は「ダセーんじゃねーか」っていうのがあったっていうか、その流れと一緒くたになっちゃってるのがあったんだよね。変なコンピレーションとかがいっぱい出てて、『DA・YO・NE』みたいなのがいっぱい入ってる奴とか。すごい嫌だなと思って、日本語ラップから離れた、当時は。でもヤンキーの友達から聞かされて、キングギドラは好きだった。その頃は「本当のヒップホップってこっちなんじゃないか」って思ってた。

 

オ:自分が高校の時は、まさにエミネムが超キてた時期ですが、売れる奴には「セルアウトしてる」みたいなレッテルが貼られるっていうか、プッシュされてるとどうしても斜に構えたり穿った見方をしたりしてしまうんですよね。これはもう、よっぽどのことがないと変わらないと思うんですけど。でも、それが10年20年経って聴くと「あれ、悪くなくない?」と思ったりするんですよね。『DA・YO・NE』も当時、自分も小学生ながらに「チャラいな」と思って嫌だったんですけど、今聴くと超コテコテのトラックで、結構聴けるんですよね。

 

マ:うんうん。しかもその後、「ヒップホップっぽいJ-POP」みたいのも増えてくじゃん。

 

オ:嫌な聴き方ですけど、当時、結構そこを区分けするつもりで聴いてたと思いますね。

 

マ:どっちかっていうとやっぱり、キングギドラとかブッダブランドとかの方が本格派というか、かっこいいと思ってた。

 

オ:ニトロ(・マイクロフォン・アンダーグラウンド)とか。

 

マ:ニトロもファースト買って、むちゃくちゃかっこいいじゃん何これ、ってなってた。

 

オ:ニトロはしかも、それぞれのソロがまたカッコよかったですからね。

 

マ:あれで「やっぱこれだろ」「これが日本のヒップホップだろ」ってなって。

 

 

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