キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

『夢九顆』

 私、知り合いが出てくる夢も、人が死ぬ夢もあんまり見ないんですけど、その時は珍しく知り合いが死んだんです。私、なんでかずっと、申し訳なさそうにしてて。周りの人からも、あんまり気にしちゃだめだよ、とかって、気を遣われたりしてるんです。そういえば、死んだ人とは全然別の知り合いからも、やたら慰められてたな。訳知り顔で。

 付き合いがあんまり深くない人が死んだんですよね。仕事でちょっと顔合わせる、香田さんって人なんですけど。水町さんっていう、業務上よく話す他部署の人がいて、香田さんは水町さんの隣の席なんです。だから私が顔を出すと、香田さんもそばにいることが多くて、水町さんとも割と親しそうで、私にも挨拶してくれるし私も挨拶する、ぐらいの関係で。全然知らないんです、趣味とか、出身とか、何も。人当たり良さそうだなとは思うけど。この「良さそう」が、もう、よく知らないってことですよね。

 お葬式とかじゃなかったんだよな。会社でした。レイアウトが本当のオフィスと結構違ったから、実際の風景とごっちゃになって、ちょっと曖昧ですけど。いつも通り出勤したら、香田さん亡くなったって、って上司から言われて、初めてそのことを知るっていう。多分、私はそのとき、私を外から見てる感じで、上司から報告受けてる私とおんなじじゃなかった感じなんですね。だから上司と向かい合ってる私は神妙にしてるんですけど、この私、何て言うんだろ、今の私……あ、素の私? 素の私は、えー何がどうなっちゃってんの、って感じなわけです。で、そう言ってすぐ上司は、あなたが責任感じる必要はないとか、今日は有休扱いにするから帰ったら、とか言ってくれるんです。優しすぎるような……同じことが起きたら本当にあれぐらい言ってくれたかな、って感じですね、今思うと。まあ、死に方によるか。実際だったら。

 そこからは、時系列がぐちゃぐちゃになった感じで。実家帰ったり友達とご飯行ったりするんですけど、なんか皆、香田さんのこと知ってて、皆同じように慰めたり励ましたりしてくれるんですよ。でも、私からは誰にも話してないんです。それなのに、絶対香田さんと交流ないって人も、何か事情が分かってるんです。誰にも話してない、っていうのは、素の私の考えじゃなくて、夢の中で、なんていうか、そういう設定で、それが分かるんです。私が伝えなくても皆分かってるんだなあって納得してるんです、私自身。皆も、聞いてないけど知ってるからね、って感じで話すんです。それが分かるんですよ。今思えばそれが気持ち悪いんですけど、その瞬間の素の私は、そういうもんか、みたいに思ってて。でも結局、香田さんがどう死んじゃって、私がそれにどう関わってるのかは出てこないんですよね。

 でも、そのあとも香田さん、普通に会社いるんですよ。仕事してるんです。時系列ぐちゃぐちゃって言っちゃうと、生前に戻ってるんじゃないのかって思われるでしょうけど、確実に死んだ後なんです。水町さんのところ行ったら、いつも通り香田さんもいて。気にするなとか散々言われたせいか、何か私、こっちから謝るのも違うんじゃないかと思ってて。普通の挨拶しかしなかったんです。まあ、声とかお辞儀とかに、何かしら込めたつもりではいるんですけど。香田さんも、っていうか、どっちかっていうと香田さんの方が恐縮してる風なんですよ。こう言えば伝わるよね、みたいな調子で、気にしないで、って言ったんです。挨拶とか仕事上の話の合間に挟む感じで。その時、何かすごくホッとしたんです。ああ、香田さん死んじゃったけど、本人がこう言ってるんだから、気に病む必要ないんだって。

 私のせいで死んだのかもしれない人に許されて安心するって、思い返してみれば、すごいことだなと思います。人が死んで何がきついって、確認が出来なくなることなんですよね。確認って、誰もが大事にしてることだなって。どんな生き方してる人でも。ずっと何か確かめたり念押ししたりしないで平気でいられる人って、多分いないんじゃないですかね。その人が死ぬと、その人にしか出来なかった確認が、永遠に出来なくなるわけじゃないですか。仕事のことだったら、昔の記録とか、同じように詳しい人の力で、死んだ人の代わりが利く、利いちゃうわけだし。利いちゃうのも悲しいけど。

 私に対するポーズとかかもしれないけど、何か訊いたら相手が何か返してくるって、良いよな、って思います。だからあの夢忘れられない。結婚した決め手の一つですね。まあ割と。

 

 

 

 電車乗ってる時に、電車乗ってる夢見たことがあるんですよね。座ってる時に寝ちゃってて、その間に。起きた時はちょっとテンパりました。

 窓とか扉がない……側面の壁が全くない電車で。椅子には背もたれが付いてるから、座ってて転げ落ちることはまずないんですけど、本来ドアがある所とかに立ってる人は危ない。すし詰めって程じゃないけど、何か人は結構乗ってましたね。椅子は全部埋まってて、自分も座ってるんですけど、目の前にも人が立ってて。ちょっと離れてる所に、杖突いてるお爺さんが立ってるのに、誰も席、譲んないんですよね。一歩間違えば大事故なのに、と思いながら、自分は声かけずにいました。夢じゃなくても、あるじゃないですか、そういう間合い。ああいう感じで、むかつくんだけど、自分も何もしない、っていう。席を立って、そのお爺さんの所に行くまでに誰かが座っちゃうよな、とか考えたりして。天井はあるから、吊り革もあるんです。でも、お爺さんは掴んでなかったな。

 電車は普通のスピードで走ってるのに、風は全然感じませんでした。夢だからイメージ出来てなかったんじゃないと思います。ちょっと顔を向けて、本来窓があるべき所を越えるか越えないかぐらいまで首をひねって、外を見ようとしたんです。その時、風感じないなあ、って思ったんで。外の風景は、何か、住宅街みたいでした。多分。色がないわけじゃないんですけど、大体クリーム色とかグレーとか、あんまり主張のない感じで、屋根だと思うんですけど赤とか青とか、赤茶が入って。あ、あれ瓦の色だったのかな。新しい家の屋根材って、そういう色じゃないですよね。うーん、でも、戸建ての屋根の色なんて、いちいち見たことないかもしれない。

 それで、線路が、ずっと平面走ってるわけじゃないんですよね。ジェットコースターみたいにアップダウンするんです。その時の揺れ方が気持ちよかった。ふわふわして。立ってる人も誰もよろめかないんです。

 夢って、硬い感触がなくなりませんか? 何かとぶつかったりしても、触れた瞬間の感触がゼロで、後に残ったものだけしか感じられない、音じゃなくて余韻とか残響しか聞こえない、みたいな。音とか声はクリアに聞こえることがあるけど、痛みとか熱さとかって、いつもぼんやりしてる。世界から硬さがなくなったら……じゃないな……。世界じゃなくて……そう、人が硬さを感じられなくなったら、夢の中みたいな感じ方になるんじゃないかな、って思います。金属を触っても、木を触っても、骨に触っても、硬くなかったら。そもそも、硬いものを触って、硬いって感じないって、どういう気持ちでしょうね。神経の損傷とかで、そういう後遺症、あるのかな。

 そういえば、駅は普通にありましたね。壁もドアもないけど、みんな駅に止まるのを待って、ホームに降りてました。

 

 

 

 ビュスコジンを加工する工場で働いてる、っていう夢が、何かずっと記憶に残ってますね。ビュスコジンって何だよ、って感じっすよね。ビュスコジンって、超便利な糊みたいなもんで、よっぽど重くなきゃくっつけてぶら下げられるような素材なんです。でも、人が力入れて剥がそうとすると、どういう理屈でか簡単に剥がれちゃうから、色んなものがそれで接着されてんすよ、その世界だと。サラダチキンとか裂けるチーズの包装もそうなら、ワンパケの中にちっちゃい個体がじゃらじゃら入ってるようなのも、パケの中でくっつけて、ピチッと包装して流通するようになってましたね。ネジとかビスとか。ピアノとか美術品とかもそうだったな。振動で壊れるのをうまいこと防ぐみたいで。ビュスコジンは温度で粘度が変わるもんで、そういうものを輸送するコンテナには、液体みたくなったビュスコジンを溜める、ちっちゃい仕切りとか窪みがあるんすよ。

 そういう素材の工場の、ライン長みたいなのをやってました。つっても、自動化されてる感じだったから、保守点検とか、生産量と出荷量のチェックとか、通り一遍の品質検査とか、何かそんなんやってたんだと思いますけどね。夢の中の数値を点検して、いつもと違うな、異常あんなって思う時の手応えって、何かヘンっすよね。夢にヘンもクソもないかもしんないけど、何かヘン。過程すっ飛ばしてるのが分かってるのに、出てる結論は疑いようがないって感じ。あれ面白いっすよね。

 あんま面白くないのが、ビュスコジン、って言葉は、夢ん中で降って湧いた言葉じゃないってことなんですよね。ずっと前に自分ででっち上げてた言葉なんですよ。「たほいや」って知ってます? あのゲームしてて、全然聞いたことないワードが出てきた時、その説明するのに適当に考えた奴なんです。しかもそん時は、素材とか用剤みたいなつもりで言ったんじゃなくて、何か毒だか麻薬成分だかのつもりで言ったはずなんですよ。それがポコッと出てきて糊の名前になんのかよ、って自分でも思うんですけどね。

 何かねえ、あの工場のライン、何とも言えないにおいがしてたんですよ。妙に現実っぽいのが、ライン工やってる人らに、外国人が多いんですよね。普段の仕事でそういう人たちと関わること全然なくって、それこそコンビニとかメシ屋の店員やってる人しか見たことないのに、すごいフレンドリーにその人らと喋ってて。話す内容も、浅い付き合いじゃ話さないようなことばっかなんすよね。

 具体的にどういうにおいっていうのは難しいんですけど、いわゆるケミカルなにおいで。食うもんとか香辛料の文化の違いがあるから、ダメな人と大丈夫な人、国ごとに違ったりするかなと思って、皆あのにおい、どうなの? キツくない? とかって聞いたら、そのうちの一人が、自分の故郷には違法廃棄物の山があって、化学反応起こして小火がよく起きるからすげえ臭いんだ、そこに比べればまだマシだ、って言うんです。同郷の人はいなかったから、皆へーってなって。で、後で知って驚いたんですけど、フィリピンにそういう所、本当にあるんですよね。スモーキー・マウンテンっていう。

 フィリピンのその地域のにおいのことまでは知らないけど、一回行ってみたいんですよね、フィリピン。料理も多分好きなんですよ。甘酸っぱ辛い味で米食うあの感じ。

 

 

 

 城だか屋敷だか分からないんですけど、ロシアかヨーロッパか、とにかくそういう印象の、荘重な建物にいました。色のある夢も普段見るんですけど、その夢はモノクロだったような、ただそういう色合いのものしか目に入らなかっただけのような……。

 有名な建築を見学に行ったというよりかは、そこに実際に人が住んでいて、主を訪ねて行ったんだと思います。演劇とか映画を夢に見ていたのか、とまで考え出すと、きりがありませんが。ただ少なくとも、宴会とか式典があった様子ではありませんでした。そういう催しの会場になってもおかしくない建物でしたが。会食の場面なんかもなかったですし、恐らく客が入ってはいけないような所も通ったんですが、忙しく立ち働いているような人たちもいなかったので。

 貴族風の衣装を着た人たちばかりではありました。建物の造りや調度から察しはついていましたが、高貴な人物の住まいだったのでしょう。

 時代設定、と言っていいのか分かりませんが、どういう時代設定だったのか、トイレがありませんでした。用便のためのスペース自体、一切ないんです。だから廊下であろうが居室であろうが、催したらその場でする、という風でした。完璧に身づくろいした見目麗しい人たちが、ふと席を立ったと思ったら下を脱ぐ、という。男女の別もなかったですね。

 私はその光景を夢に見ているので、悪臭であったり、その時の音であったりを感じはしないんですが、当然「あのままにするんだろうか」とは思うんです。すると、その貴族風の人たちは、どこから取り出したのか花を一輪、薔薇のような茎が長くて花弁のかたちが良い花を一輪手に持っていて、自分が排泄したものにそれを投げるんです。

 それで事が済むようでした。衛生的にも、臭いの面でも。中を巡っても庭を巡っても、汚物の溜まりがなかったことから、花のおかげで清潔になったものを、誰かが片付けていたのかもしれません。もしくは、花が分解するのか。

 花で何かが解決する、というのは願望の暗示みたいではありますが、あまりそこから何か読み取ろうとはしたくないですね。汚物を花が綺麗にするというイメージなんて、自分の単純さとか短絡さを表してるみたいで……。それより、あの貴族風の人たちが、誰も私を気にしなかったことの方を考えました。時々、夢の中で、人格ではなくカメラになる時があって。夢の中の人物には私が見えているけれど、私からは人物が見えている、というシチュエーションです。カメラと言えばいいのか、幽霊と言えばいいのか。人の糞便をつぶさに見たい、という嗜好はありませんが、自分が視線だけの存在だったなら、どんなものでもまじまじと観察したいものなのかもしれません。

 

 

 

 誰でもそうじゃないかと思いますけど、何かを隠蔽しようとする夢が、記憶に残ってますかね。よく見るというか、記憶に残らない夢もたくさんあるらしいから、それが際立って印象的に思えるんでしょう。色んなレベルでありますね。ちょっとしたミスを隠そうとするのもあれば、犯罪を隠そうとするのも。

 万引きって、生まれてこのかた一回もしたことがないんですけど、夢の中でだけはあります。一番印象深いのは、その夢かも。

 スーパーかデパートの食料品売り場みたいな所でした。買い物には、よく母親に連れられて行ってましたが、馴染みの店がそのまま夢に出てきたのではありませんでした。そもそも棚から何から、現実離れしてましたし。よく連れ立って買い物に行っていたのは小中の頃までで、高校に上がってからは、一緒にスーパー行くようなことはなくなりました。別に仲が悪くなったわけではないんです。買い物が必要なら私一人で行くとか、母が買い物に行くんなら、私は別のことをしてる、手伝いが要るなら別の家事をしてる、ってなっただけで。

 夢を見たのは、大学に入って、下宿を始めた後です。夢の中では、母とよく買い物に行っていたような歳、小学生そこそこの歳だったと思います。母と私の背丈の違いだけしか、ヒントがありませんけど。

 棚が直線では出来ていない店でした。冷蔵ケースもぐにゃぐにゃしてて。ぐにゃぐにゃと動いてたわけじゃないんです。全部曲線の部品で出来ているだけで。当然、棚には無意味な空間が出来ていて、分類も分かりづらいんです。でも、母も周りの人も、特に困っている感じはなくて、何気なく商品を手に取っていました。私は変だな、何でこんな非効率的な陳列なんだろう、みたいなことをずっと考えながら、母に付いて回っていました。空間が空いている無駄を補うために、どの棚も高くて、私の背では上の方の様子がよく分からないぐらいでした。

 そのために、ということなのか、私みたいな子供が欲しくなるものは棚の下の方にありました。お菓子とかです。……今話してて思いましたけど、あのとき私、本当に心から子供の「つもり」だったんですね。盗んだのは、実際、お菓子なんです。小学生の頃、私、すごく嫌な子供というか、生意気で、児童向けのアニメとかを避けてたんです。どこかで販促とかのことを知ってたのかな。一年スパンでアニメとか特撮が終わるのは、一年ごとにおもちゃを買わせる戦略があるとか、そういうこと。大人が子供に見せようとしてるものだから、きっとどこかにずるさがあるんだ、って思ってたんです。だから可愛いとか格好いいとか思っても、すごく避けてました。そのせいで友達と話が合わなくなってもしょうがないと思ってましたね。事実、小学生の頃って、そういう話をすると輪に入れないようなグループにはいませんでした。いなかった、じゃなくて、いさせてもらえなかった、ですね。

 観たことのない女の子向けのアニメの商品でした。実在してない作品のはずです。少なくとも、子供時代から夢を見た時期に至るまでの間には。ラムネとかキャラメルとかみたいな小さなお菓子なんですけど、おまけが入ってる分だけ箱が大きい、本当にありふれた形態のやつです。三人ぐらいキャラクターが描かれてて、それぞれ女の子受けしそうに基調色がバラバラでした。真ん中の子がピーコックグリーン、両サイドの子がそれぞれスカイブルーとパステルピンク、みたいな色。ピンクがセンターじゃないのが洒落てる、と思ったんですよね。衣装から何から、うまく外してる感じなんです。ブルーの子がキュート担当っぽい表情なのにこざっぱりしたショートヘアで、ピンクの方が何か凛とした感じで。主人公っぽい緑は中庸って感じ。それがすごく良くて。子供の時の私が見ても、同じように感じたんじゃないかと思ってます。

 ねだった物は100パーセント買ってもらえないわけじゃなかったので、もしかしたら「欲しい」と母に言っても、「珍しいね」とか言って買ってくれたかもしれません。でも、買っちゃいけないものだ、と思ったんです。恥……恥の意識だったのかな? とにかく、手に入れるなら誰にも知られちゃいけない方法でだ、と強く思いました。具体的な根拠はなかったんですが、こうすれば母にも気づかれないし周りからも手元が死角になる、という計算をしながら、商品を着ていたもののポケットに入れました。

 それからも母は普通に買い物を続けるんですが、私は気が気じゃありません。早く店から出て、自分の部屋で一人になってから、箱を開けたかった。でもレジまで行ったら、店員に近づいたら万引きが露呈するような恐怖もあって、いつまでもこの時間が続けばいいのに、という思いも同時にありました。

 結局、店内を出ないうちに目が覚めました。春、まだそんなに暖かくもないうちに見た夢だったんですが、いつもよりずっと早い、まだ日も出切っていない暗い時間に汗だくで起きました。しばらくどきどきしていました。

 あのお菓子の、箱が欲しかったのか、おまけが欲しかったのか、よく分かりません。もしおまけが欲しかったんなら、あのお菓子のおまけって何だったのかな……。夢の中では、そこまで見て盗んだんだと思うんですけど。

 

 

 

 味の裏側を感じた夢かな。

 うーん、言葉で説明できないんですよ。口に入れて感じるものが味の表で、それとは別の味もあるのが分かる、っていう。甘さとしょっぱさとか、酸味と苦味とかを同時に感じるんじゃないんです。塩を舐めるとするじゃないですか。舌にしょっぱさが広がりますよね。そのしょっぱさの裏側に何かあるのも分かるんですよ。

 めくってる感じです。舌が。味を。繰り返しになっちゃうんですが、しょっぱさの中にも甘味が、みたいことじゃなくて。目に何かが見えるとか、香りとか、そういうのでもないです。だめだな、やっぱ同じことしか言えないですね。とにかく味に表裏があって、それが面白いからずっと何か食べてる、で、表の味はそっちのけで裏ばっかり気にしてる、っていう夢なんです。何食べてたかさえ、よく覚えてないけど。

 共感覚って知ってます? 割とあれ、ある方なんです。今でも覚えてるのが、初めてレトルトのミートソース食べた時のことで。家ではミートソースって母が作るもので、子供のころ全然食べたことなかったんですよ。小五の時に、修学旅行じゃなくて、あれ何て言うんですか、校外学習? 泊まり込みの行事の時のお昼に、どう考えても茹で置きのスパゲッティにレトルトのミートソースかけただけのやつが出たんです。すごくお腹減ってるスケジュールだったのに、残す子が何人もいるような出来で。

 それが、何ていうか、銀色の味だ、って感じたんです。舌が銀色を感じてる味。食べた後に水を飲むといっそうひどくて、舌と口全体で銀色を感じてるみたいでした。その時は、皆して隣の子とひそひそ「まずいね」って言いながら食べてる感じで、私もそのノリで「銀色の味するね」って言ったら、仲良しだった子に「は?」って言われて。それまでも味に色を感じることはあったんですが、小学生ぐらいの時って、これおいしいね、って自分から話題として出すこと、あんまりないじゃないですか。友達と給食食べるにしても、家でご飯食べるにしても。それ以来、味の色の話はしなくなりました。

 あの夢も、もしかしたら色を見てる夢なのかな。そう言ったらそうなっちゃう感じがする。違うな、色じゃないですね。裏なんです、裏。

 

 

 

 友達と夜道を歩いてるんです。よく知ってる仲の良い子、っていうか好きだった子です。付き合いはしてません。告白とかもしてないです。友達の友達って感じで知り合った子で、よく一緒に遊ぶとか、飲み屋とかクラブに行って会うことはざらにあるけど、二人っきりで会ったことはなかった。今思い返すと、本気で付き合いたいとか、恋人になりたいって、本当に思ってたのかな。間違いなく好きだけど、自分が入ってる輪の中にその子もいればそれでいい、って感じの子。お互いフリーだって明確に分かってた時期もあって、そういう選択肢もあると思ってたし、向こうからも悪くは思われてなかったとは思うけど、そういう雰囲気になったことは一度も。どうだろう? これで実際は、向こうからしたら全然そういう対象とかじゃなかったら、ダサいことこの上ないですね。

 そんな子と夜道を歩いてるんです。明晰夢をよく見るんですけど、その時もそんな感じでした。だんだん夢だって分かりながら、その時の自然な感じのノリで会話を。その子と会うような場所ではなかった。かなり都心から離れた郊外の住宅地って感じでした。何でこんな場所を歩いてるんだろう、どこに向かってるんだろうと思いながら、本当に何気ない、共通の友達の話なんかをして。場面は何回かジャンプしました。多分深夜で、もう閉店してる店ばかり目に付いて、かといってコンビニやファミレスはあんまりなくて。それでも自販機で何か買ってちょっとベンチで休むとか、やっと見つかったコンビニっぽいところでトイレを済ませたりとか――コンビニかどうかもよく分かんないです。夜道からコンビニに入るとあんな感じに明るくて白い、っていう空間で、お互いトイレに順番に入って出ただけなんで。どっちかが肉まんとか唐揚げとか買ってれば、そこはコンビニだったんでしょうけどね。

 そこを目指してた感じじゃないんですけど、海岸通りに出ました。その場面に長く留まって、その途中で目が覚めたので、海辺だったのはすごくはっきり覚えてます。堤防みたいなところに二人で登って、道路と砂浜の境界にあたる所を歩きました。二人横並びになれるほど堤防のてっぺんは広くて、厚みが持たされた分、ということなのか、砂浜までは結構落差がありました。夢だけど考えは割とはっきりしてるから、ちょっと怖かった。その子は平気で歩いてましたけど。

 砂浜だ、海だって分かってて、潮の匂いもするんですけど、水がないんです。そもそも夜だから、どこまで見渡せてるか分かんないけど、とにかく水はなくて、波の音も当然ないんです。高い所を歩いていることより、それがすごく恐かった。地上にいるのに、すぐ向こうに宇宙があるみたいな感じなんです。でも、その子は平気で海の方を見つめてたりする。海水がない、って口をついて出たんですけど、そしたらその子が当たり前って調子で、だって海は月になっちゃったじゃないですか、って言うんです。

 空を見上げると、月は浮かんでいました。そんなに太くない、三日月に近い形なのに、どうにも明るすぎる気がしました。街灯で照らされてない所、それこそ砂浜も、そういえばよく見えるなって。月にある海の水が、光の反射率を上げてるのかもしれないと、何だか素直に納得しました。水のない海って宇宙みたいだね、どこも宇宙になるんだね、って言ったら、そうですねえ、って返ってきました。それが、本当にその子が言いそうな言い方でした。

 

 

 

 信じてもらえないと思うんですが、夢を見ている途中に、夢でも現実でもない所に脱線したことがあります。だから厳密に言えば、それは夢の話じゃないんですけど、でも、夢から始まったことですから、夢の話ってことにしてください。

 最初、学校みたいな場所の廊下を歩いていた気がします。役所って言われたら役所みたいな、事務的で無機質で、窓がある、どこにでもありそうな廊下です。その前にも多分、場面みたいなものがあったと思うんですけど、それは覚えていません。

 普通に廊下を歩いていた視点がいきなり、ガクン、と右下に振られました。左から誰かに体当たりされたみたいな、突然のことでした。そのまま落下していくような、浮かび上がっていくような、不安になる体感がずっと続きました。視覚がまともに働き出したのが、視界が振られてすぐのことなのか、しばらく経った後なのか、よく分かりません。何を見てるかよく分からないんです。目をつぶってまぶたを押すと、何かチカチカしたものが見えるじゃないですか。光ってる砂壁みたいな像が。子供のころからあれが好きなんです。ロベルト・マッタという画家が、目をつぶった時に見えるものをモチーフにして『吸引の芽』という絵を描いてるんですが、初めて見た時は泣きそうになりました。その像を人も見ているのだと分かった気がして、それが何だかとてつもなく嬉しくて。

 とにかく、ああいう抽象的な光の中を、上下左右の感覚もないまま漂ってるんです。初めて夢の中で思い通りの動きを取れました。指も首も、目覚めている時と同じように動きました。でも、進むことは出来ない。上下左右どころか、そこに何があるか、何かあったとして自分との間に距離がありそうなのか、それさえも掴めないんです。

 そうしたら突然、何してんの、こんなとこ入って、駄目だよ、という声がしました。声の方を振り返ると、ものすごく眩しいのに自分の目には光が届かないようにしてくれているから直視できる人がいました。不定形の内容物が光っていて、そこに鋭利に尖っている黒とか銀色の無数の棘が突き刺さってる、みたいな見た目でした。楕円体のようなフォルムで、四肢はないのに、これもまた人間の姿なのかもしれないと思わせるような起伏や、雲丹とかの海生生物のような棘のうごめきが、その人を生物らしく見せていました。どこから声を出しているかは分かりません。声に同期して動く部位はありませんでした。

 私が振り向くと、その人は怪訝そうな態度を取りました。それから、ずいぶん言葉を選んだ感じで、夢はあっち。現実はあっち。言ってる意味分かる? と言ってきました。あっち、あっちと言う時は、その人の体が隆起して方角を示して、隆起した部分の光が強まりました。夢と指された方へ行ったら、何か良くないことが起きる気がしたのと、その前まで見ていた夢が大して面白そうなものではなかったことから、私はその人にお礼を言って、現実と指された方を向きました。すると、そちらを向いただけで、自分の体を進めようと思ったわけでもないのに、何かが急速に近づいてくるのが分かって、それが目の前まで来た、と思った瞬間、目が覚めていました。

 ここには残れないんですかと、あの時あの人に聞いていたら、何がどうなっていたんだろうって、ずっと気に掛かってるんです。全部ひっくるめて夢だろ、って思われてるでしょうね。やっぱり話すんじゃなかった。

 

 

 

 気付いたら服が汚れてる夢ですかねー。

 仕事で着るワイシャツが汚れてることもあれば、私服が汚れてることもあります。汚れ方もバラバラですね。生姜焼きとか焼き鳥のタレがこぼれたみたいな茶色いのが腹全体にベターっと付いてるとかもあれば、緑色のチョークの粉みたいのがあちこちに付いてるとか、いつの間にか血みたいなのが飛び散ってるとか。

 覚えてる限り、夢では必ず服が汚れてるんですよね。でも何で汚れたか、一度も分かったことがないんです。

 

 

 「最近死ぬことばかり考えてる」とは、冨樫義博のマンガ『レベルE』の作中に出てくるダイアローグの一部だが、ぼくも最近死ぬことばかり考えている。十代の中頃までに、身近な人物が自死することが二度あった。今でも誰かと親密になると、必ずその人の生き死にのことを考える。それが何かの拍子に露呈すると、よく相手から「重たい」と言われる。申し訳ない。

 去年の夏ごろ、ずっと交流のあった人が、自死遺族であったことを知った。酒の席で、その人からするりと打ち明けられた。そのとき自分の口からも、「誰かをそうやって喪うと、自分の選択肢にも死ぬことが入りますよね」という言葉が滑り出た。言ってから、ああ、まだこんなに死にたいのだな、と思った。

 創作するものは、なるべく陽的なものになるよう心掛けている。例えば物語創作において、作品がポジティブなものになるかネガティブなものになるか、「割合」は大して重要ではない。話の九割九分が辛い場面で構成されていても、たった一分に差した光明で、それが希望の物語だと感じてもらうことは出来る。そうして誰かに、生の世界に居つづけるためのエネルギーを長くもたせてもらえればいい。そう思って物語を書こうとしてきた。

 ここ五年ぐらいは、人との交わりの中で味わうよろこびが大きかった時期だったせいもある。誰かと話すことのよろこびが、今までの人生の中で一番具体的だった時期だった。よすがに対して肯定的であれば、日々安寧でいることも出来る。しかし、そうした熱の届かない所があることが分かったし、たぶん自分の小説はそこから出発している。あんなによろこばしいものが、自分の成したいことと、決定的なかかわりを持たない。この心細さ。そして相手を伴う問題でありながら同時にそれを解放的だとも感じている、この勝手さ。

 そもそも、ずっと死にたさを抱えている人間に、生という時間を寿ぐ物語が本当に書けるだろうか? その場から離れたがっている者が、あなたにはこの場にいてほしいと願うことは、単なる身勝手ではないのか。

 

 健康上の理由から最近酒を抜いているので、こういうことをずっとしらふで考えている。しらふだと、合わせようと思ったものにピントが合う。今持っている自問を続けるのは辛い。ただ、自死を止められなかったと、自分は人の死を防ぎ損ねたと思っている(傲慢だと思いながら)。それなら日々が辛くて当たり前だとも思っている。そういう考えで心を落ち着かせたいなら、眼を抉るようなものも進んで見つめるべきだ。罰は罪の報いであり、許しのために受けるものではない。針を刺されることではなく、罪を図柄とする刺青が罰だ。

映画と夢

 最近、映画をよく観ている。

 遠回りにはなるが通勤経路にあたる位置に、レンタルショップがある。家電量販店と同じ建物にあるロードサイド店舗だけあって店の面積がまあまあ広く、おっ、こんな作品も、と目を引かれるものが多く見つかる。大学時代、映画論の授業を参考にして熱心に映画を観始め、ミニシアターに通うようになった反面、話題作・大作映画は避けがちになった。そんなこんなで十年以上過ごしてきたので、今更になって、かつてのトレンド作品を借りて観たりしてきた。『バーナード嬢曰く。』に出てくる、ひと昔前のベストセラー本を読むのが趣味という遠藤みたいなノリだ。

 コロナ禍で、家にいる時間を増やすにあたって何をするかとなった時に、本を読むとかゲームをするとかではなく、なぜ映画だったのだろうと考えてみた(読書やゲームの時間も増えてはいるが)。好んで訪れていた劇場へ気軽に足を運べなくなったこととか、去年自宅から離れている期間が長く、慣れ切った空間の感覚のなかでダラダラ画面を眺められるのが心地よい、といった影響は実際大きい。

 「その作品が好き」という実感とは別に、「その作品を観ている時の、自分の状態が好き」という実感がある。何度も同じ本を読み、何度も同じゲームを遊ぶ理由の一つだが、映画はそういう側面が他と較べて強い。視覚と聴覚が刺激されることと、ひとつひとつのショットは自分の視線を批評するという意識とが、混ざり合ったがための反応なのだろうか。劇場で観る映画は特にそうだ。私的ではない空間で鑑賞する、携帯電話の電源を切って連絡を遮断する、そのために移動の時間を費やしたので元を取りたい。いろいろな要因が、非常の集中を促す。集中している時というのは、生きていて一番気持ち良い時間だ。

 

 名前を知っていただけ、前評判やトレイラーの印象しか知らなかった、という有名作品を観続けて、そのタームが終わりかけてきたために、いい加減サブスクリプション・サービスを利用しようかと思っている。有名作品のディスクケースに指が伸びるようになったのは、「探せば見つかるから」という理由も多分にあった。観てみたくなった時に観られるという環境は、レンタルショップに並ばないニッチな作品を好む身としては、とてもありがたい。

 利用し始めると時間が過剰に束縛されるような惧れから、動画配信にしても音楽配信にしても、サブスクを使わずに来た。趣味が偏向的なのだから、サブスクで網羅的な鑑賞をすると収穫が多かろうという思いは、前からあった。そこに映画をたくさん観ようという新しい波が来て、自分に適したサービスを探しているところに、U-NEXTのCMが出色だ、メイキングの記事もとても良い、というツイートを目にした。

 

 

 

 U-NEXTの目指すところはレンタルショップの最終進化形、という言葉が琴線に触れた。ちょうど「旧作観るなら、配信作品の数からしてU-NEXTか」という結論が出かかってもいた。そう遠くないうちに、とりあえず無料トライアルを利用してみることになるだろう。

  

 確実に借りられる見込みがある有名作品の次に観たくなったのはどんな位置づけの作品かというと、「昔一度だけ観て、また観たいけど、ソフトを買わないともうなかなか観られない作品」だ。シネフィルでも金持ちでもないので、そうした作品を全部買う気は起きない。プレミア価格が付いていることも多い。国内上映権が終了してしまったジョン・カサヴェテスの『ラヴ・ストリームス』を是が非でももう一度観たいのだが、今Amazonを観てみたら、ソフトの中古価格は7,000円からだった。

 そもそもU-NEXTに登録する気が起きたのは、そういう作品が多くラインナップに入っていたから、というのも大きい。具体的に言うと、成瀬巳喜男『めし』レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』、ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』とか(他のサービスでも視聴可能なものもあるが)。最初に探したのはミシェル・ゴンドリーの『ウィ・アンド・アイ』だったが、U-NEXTでは配信期間を既に終えており、Amazon Primeでは地域制限の関係で視聴できなかった。モンテ・ヘルマンの『果てなき路』もそうだった。

 『果てなき路』の劇中には、主人公がイングマール・ベルイマンの『第七の封印』を観るシーンがある。初見の時には観ていなかった『第七の封印』を観た今、もう一度観たい。ラストシーンで目をみはるほど戦慄したことは間違いないのに、全然内容を説明できないほど記憶が風化しているのも情けないし、トム・ラッセルが歌うオープニングテーマを日本語字幕付きでもう一回聴きたい。昔調べたところによると、トム・ラッセル自身の音源に収録されているその曲はボーナストラック扱いで、歌詞が掲載されていないという。それではヒアリングが出来ない自分には訳せない。

 

 夢と記憶の間には、人智の及ばぬ不思議な繋がりがある。

 昔観た映画の印象から抜け落ちてしまったピースをもう一度はめたいという願いは、記憶を補いたいという願いよりも、あの夢をもう一度見てみたいという願いに近いと思う。

 あのマンガのあのコマをもう一度見たい、あの本のあのくだりを読みたいと思って本棚に手を伸ばすことがよくあるのだが、本当はそれらも、記憶の補完ではなく夢の再体験を望んでの行為なのかもしれない。ただこうした場合、表徴としてそれ自体がすぐに目の前に示されるから、「これが見たかった」という満足の方があざやかに残ってしまう。「確かめたかったことが確かめられた」という安心で、多くの片が付いてしまう。なかなか観られない映画はそうもいかないし、劇場で観た素晴らしい映画の記憶はフェティッシュであり続ける。それはいつか夢と同質になる。映画が夢なら、いま引きこもろうとする自分は、夢を見たがっていることになる。そう的外れでもない。そこに現実から目を逸らす背徳があるから、今、飽きもせず映画を観ているのだろうか? 断定的に「観るのだ」と書くと、そういう暗示に陥りそうなのでやめておく。

 以前、『The Monthly Delights-2』のライナーノーツの中で、映画館は深海を想わせる、というようなことを書いた。暗い中に射込まれた光が、美しいもの、グロテスクなもの、不思議な現象、殺生などを照らし出すという点において、劇場で観る映画と深海の記録映像は通じている。

 上映前の照明の消え方が一番好きな劇場はシネマヴェーラだ。徐々にゲインが弱まっていき、最後にフッと真っ暗になる。映画が始まると、海に深く潜ってから目を開けたような気分になる。ヴェーラに行きたい。先月かかっていたエルンスト・ルビッチの『天国は待ってくれる』は、以前ヴェーラでかかった時、字幕付けのために少額ながら寄付をした映画だった。観に行きたかった。