キャベツは至る所に

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2011のシネマ・2

『トイレット』と一緒に観た『川の底からこんにちは』について。
久しぶりにレビューめいたものを書くと、今の自分の関心事にスイッとコネクトしちゃってイカンな、と痛感しております。


川の底からこんにちは

【2010年 112分 監督:石井裕也


自分を「中の下の女」と確信してやまない佐和子は、仕事がつまんなかろうが、付き合っているバツイチ子連れの健一がいかにしょっぱい男だろうが、「自分はその程度が相応しい人間だ」と全てを受け入れている。色々あって飛び出してきた田舎から、父が倒れたとの報せを受けても、何とかのらりくらり帰るまいと努めていた佐和子だったが、田舎暮らしに憧れる健一が仕事を辞めて「家業を継ごう!」などとほざきだし、帰郷を余儀なくされる。

全体に、泣いたり笑ったりの豊かな起伏が行き渡っている映画。
スベってる所はスベってると思うけど、補って余りあるシーンに溢れていると思う。笑える所では思わず笑うし、泣かせ所は胸に来る。
何といっても傑出しているのが、佐和子を演じる満島ひかりの芝居! 何なのあれ!
出だしから何に関しても「しょうがない」を連発して、一日の終わりには缶ビールをグビグビ飲んで、何をもって中の下って言ってるのかもよく分からない主人公を、どうしようもなく完璧に演じている。無気力に見える時も、激しく発奮する時も、ちょっと気が萎える時も、極端なそれぞれを演じながら、ちゃんとそれぞれが同一人物の感情表現になっている。情の起伏を作るには脚本があればいいし、そこが見せ場だと知らせるには演出があればいい。ただ、映画においてキャラの個性をシームレスに繋げるには、役者の力がなくてはならない。

普通、何を考えてるのか分からないキャラが魅力を持つには、ミステリーの根拠が暴かれるためのカタルシスとか、シュールな笑いを帯びているとか、それなりの根拠がある。佐和子にはそれがない。彼女の思考回路の仕組みを明示する描写はまるでない。それなのに、ものすごくかっこ良く見えるというのはどういうことなのか?

佐和子の「しょうがない」を「妥協」と呼べないのは、その諦めに、未練とか悔しさみたいな不純物が乏しいからだ。彼女はとことん「大したことない人間」という認識を信頼している。世の中の多くは大したことのない人間で、出せるだろう結果はちっぽけだと信じている。

だから頑張らなければいけない。大したことないんだから、頑張らないとやっていけない。

ぼくは佐和子の振る舞いに震えながら、「佐和子は何を考えてんだろう?」と考えていたけど、今思うに、佐和子というキャラクターには、思考回路がないんじゃないだろうか?
もちろん佐和子を考えなしのバカと言うつもりではない。物語の上で、彼女は大変思い悩み、その上でいきり立っているのだろう。ただ、その回路の明示がないということは、ある瞬間の思考の無意味さを謳っている、ということなのではないか。

実際、八方塞がりになった後の佐和子の爆発はすごい(激情を余すところなく表現する満島ひかりもすごい)。でも、そこには成長とか変化はない。なぜなら(非肉体的な)成長と呼べるものは、つまるところ《思考》の変化や転換でしかないからだ。幼い子どもが目標に不足していた思考の奥行きを獲得するのも、今までとは違うモノの考え方を見つけて状況を打開するのも。
佐和子は全く変わらない。元から持っていたものの燃焼だけで、物語を進めていく。彼女は、思考よりも前にあるもの、文字通り「前提」によって行動している。「自分は駄目だ」という、当たり前に考えればマイナスに向かう気持ちが、「だから頑張らないと」という回転の動力にしかなっていない。そこからブレーキが一切かからない。
そう思えば、そのエネルギーの質量にも納得が行く。理屈を持たない人間を止める術なんてそうそうないのだ。

こんな風に言うのは簡単だけど、世の中には「自分は駄目だ」というところで停滞したり、「だから頑張っても駄目だ」という方へ進んでしまう人がゴマンといる。その点で、訳もなくポジティブな方へと向かっていける佐和子は単なるヒロインであり、現実味を欠いている……などという批判があるかもしれないが、それは的を射ていない。
大したことないんだから頑張らなきゃ、頑張っても駄目かもしんないけど、どうせ私は大したことないんだし、というどこまでもポジティブな自虐には、そういう単純なマイナス思考は敵わない。


事を難しく考えるのは思考を豊かにする。結果として人生も豊かにする。
でも、そういう事実を遥かに上回る、いざという時の反射的行動というのは確かにあって、佐和子が散布するエネルギーというのはまさにそれだ。
だから、彼女の考え方を「妥協」とは呼びづらい。彼女は大したことのない可能性の中から、せめてものベストを掴もうとしている。だから佐和子の父のように、ぼくは「かっこいいよなあ、あいつ……」*1と思ってしまったのだ。
それを「パンキッシュ」と呼ぶ人が多いけど、いわゆるパンクのヒネた諦めとはちょっと違うと思う。もっと実直で、毒とか添加物がない彼女の雰囲気は、むしろトライバルと呼ぶべきだ。いくつかの打楽器だけで人を高揚させるような、神秘に近い単純さ。
これを観たとき、ちょうど『宮本から君へ』を読んでいて、あてどのないエネルギーを持て余すことになったというハズカシー背景があって、何か偏ったレビューになっちゃったんですが、まあ思春期っぽく熱っぽいのも一興、ということで。
作品自体は、このエントリで取りざたしている熱っぽいところと、タメの効いてる冷めた運びとのメリハリがある、よくコントロールされた良作です。決して主人公のパワーだけで回している単調なものではない。


・大好きなシーン
前述した、志賀廣太郎が扮する佐和子の父による「かっこいいよなあ、あいつ……」のシーンがとてもいい。ちょうど佐和子をかっこいいと確信し始めた辺りで、そのシーンが挿まれたので、ぼくはすんなり彼のセリフを飲み込めた。
その他、佐和子が爆発するシーンの見応えはハンパじゃない。大根役者でも、叫んだり喚いたりするシーンは意外と見られたりするもので、激しい感情表現って誰がやってもだいたいサマになるけど、このシーンは凄い。ああ、満島ひかりって異常なんだと瞬時に評価を改めさせられた。

一番ギャグとして面白かったのは、終盤の「全員じゃない」ですかね。
『トイレット』で、ここって笑う所? と思うぐらいクスクス笑ってた女性が、本作の割とゲスなシーンとか割と下品なシーンとか、「シモ」の字を含む形容の余地がある笑いには反応してなかったのがまた。本作では男性の笑い声が目立ちました。まあそういう笑いが多うございました。女性も充分楽しめると思いますけどね! ぼくは!
 

*1:「あいつ、かっこいいよなあ……」だったかもしれない。