キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

早稲田松竹 8/02-8/08

『家族の灯り』

マノエル・ド・オリヴェイラ監督、2012年/92分。大学時代、講義で『アニキ・ボボ』と『神曲』を観たり、課外学習として『夜顔』を観に行くよう言われた作家、オリヴェイラ。その講義で映画を観ることの面白さに気づけたので、オリヴェイラ作品にはひときわ強い興味があって、『コロンブス 永遠の海』も『ブロンド少女は過激に美しく』も観に行った。

戯曲が原作だけあって、密室劇と呼ぶべき構成の作品。といっても単なる再現には堕してはおらず、当然映画としての妙味を帯びている。
会話する人間をシンプルに収めて固定されたフレーム、切られないカット。そこで長々と繰り広げられるのは、ただ述懐である。問題を解決するための切れ味ある言葉も、セリフそのものが発話者のテンションを上げるような興奮も、軽妙な丁々発止もない。ただの吐露。
夜顔』でも特徴としてあった、観ている自分の集中力がもたなくなってくるのが、まるで目盛りを見ているように分かるぐらいの長回し。その中で、ひとりごちるでもなく、相手に突きつけるでもなく語られる言葉をじっと観察していると、自分が映画という空間を見ていることが実感できる。目に映るのはただの人でもなくただの部屋でもない、フレームであり俳優であるという感知。そのとき初めて使われる神経。間違っても「これはフィクションだ/ストーリーだ」という感知では働かない器官が働いているのがよく分かった。映画を観ていることを意識させてくれる映画は、数少ない。
例えば、男と義娘が並んで座る。男の妻は「コーヒーを淹れてくる」と言って台所へ立ち、扉の奥へ消える。カメラと向かい合って座る、男と義娘。二人は妻に隠している、失踪した息子――義娘の夫の話を始める。
これだけで、観ていて面白い。その空間がとても映画的だから。扉を隔てることで正確に裁断された空間。そうして二人の空間と一人の空間とが分かたれたその瞬間から、ぼくたちはスクリーンに映っている二人のことしか見られなくなる。二人は秘密を共有している素振りで、暗号を使うように話す。こんな話を聞いたら妻が傷つく……と言って声までひそめる。だからぼくたちの理解もなかなかはかどらない。息子はなぜ消えたのか? 彼は今どうしているのか? その秘密はどうして母親を傷つけるのか? そうした事柄が、迂遠に語られるのを見せ続けられる。ある種嫌がらせのようではあるが、そこから何かを汲み上げてきた時、明確に一段階、作品への好感情が強まった。
貧しさや挫折に憑りつかれた人間がどう生きていくべきか、その苦悩から目をそむけさせないシナリオにも見応えはあるけれど、とにかく画面に食い入る快感を味わえる映画というのを久しぶりに観た。

『エレニの帰郷』

テオ・アンゲロプロス監督、2008年/127分。アンゲロプロスもまた、特別な崇拝を以て作品を観ようと思わせてくれる作家。早稲田松竹で、三部作の前作にあたる『エレニの旅』を観て、感動的全身打撲とでもいうべきショックを受けたことが、ぜひこの番組を観たいと思った動機だった。

本作では大きく分けて2つの時代が、螺旋を描いて絡まりあうように描写される。時間と国境のジャンプは『ユリシーズの瞳』でもあったが、ああした一つの結末へ推進していくスペクタクルとしてではなかった。ジャンプの規則をもう少し気にしておけばよかった、そこにも何か意図があったかもしれない。
荘重なワンシーンワンカットは鳴りを潜めていて、カット割りをややキャッチーにすら感じたのが印象的だった。しかし、多くのエキストラを使いながら、それをただの「多数」ではなく「個人の集合」として撮影しようという気魄は健在で、スターリンの訃報を広場で聞く人たちのカット、収容所の外階段を黙々と登る人々のカットなどには目を瞠った。もちろんウィレム・デフォーが荒らされた部屋に残された暗示的な絵を見つける、あのシーンの美術性にも。

こうのとり、たちずさんで』や『霧の中の風景』など、ぼくが観ただけでもほとんどのアンゲロプロス作品で描かれていたような、あまりに残酷であまりに明らかなものとしての「国境」というものが映されるたび、ああアンゲロプロスの作品だ、そしてもう彼の新作を観ることは叶わないのだと思って悲しかった。ブルーノ・ガンツがドイツの街角で「天使」と言うことは、その慰めになってくれた。