嵯峨谷でビールを二杯飲んできていた。OMSBのDJを、アルコールで神経を緩めて聴きたかったのだ。
ぼくのヒップホップの趣味は元々狭い上、最近は全然過去作も掘っていないし新譜もチェックしきれていない。OMSBの属するSIMI LABも「名前は知っている」というぐらいで知識は全くなかったし、OMSBのかけた曲が、誰の何という曲かも全く分からなかった。
それまで会場には、入江陽がbutajiと制作し、
OMSBが最後に持ち曲を2曲披露して、会場が完全に暖まる。
スティールギター・シーケンサー・エレキギターの三人の演奏に、
そして転換後、いよいよ入江陽バンドの登場。『仕事』のプロデューサーでもある大谷能生がサックスとPC操作を務
セッションの趣が感じられる生々しい演奏のテンションが上がり、
曲の再現というより、楽曲を拡張するようなライブだった。『フリスビー』などはギターとドラムがタイトに決まっていることでより直線的にカッコよくなっていたし、『Lemonade』もフリーなテンポで音をバラ撒くかのような演奏(特に大谷能生のサックスの狂い具合)で、原曲よりあからさまに危なくなっていた。かと思えば、本来はデュエット曲である『鎌倉』を、バンドを引っ込めて入江自身がキーボードで弾き語る。そもそもラブソングらしいラブソングではないのだが、デュエット曲を一人で歌えば、否応なく孤独の雰囲気が漂ってしまう。しかしステージの中央、ピンスポットの元で歌う入江陽に、孤独の雰囲気はとてもよく合った。
入江の歌は「ソウル歌謡」と形容されている。打ち込みのトラックの上、時に悠々と、時に粛々と歌う彼に対して、その形容は言い得て妙だとぼくも思うが、今夜は少し違った。メンバーそれぞれが激烈にエネルギーを放つステージにおいて、彼の歌は自作への慣れに寄りかかったものではなく、ステージに自分のテリトリーを保とうとするものだった。そしてあわよくば他のメンバーのテリトリーに侵食しようとするものであり、その結果として調和が生じるものだった。特に『JERA』の時、演奏が大谷能生のサックスと、別所和洋(from ヤセイコレクティブ)のキーボードだけになった時だ。音量設定や声の出方の問題もあったと思うが、鬼気迫るサックスと美しいピアノに挟まれて、入江の歌は、オーラをせめぎ合わせるようにしてWWWの天井で渦を巻いていた。そしてその瞬間、彼の歌は、ソウルとか歌謡曲のように歌詞世界をうたう歌というよりも、もっと身体表現としての歌に近づいていた。
『仕事』を聴いて、ぼくは多分彼のセンスに感動していたと思う。ポップさ・聴きやすさの中に、エグ味とか毒とかを適度に包含させるセンス(これは今日披露したジャズスタンダードの邦訳カバーに顕著だった)。どこまでがプロデューサーの力によるものか外野には知る由もないが、ジャズもヒップホップもファンクも織り込みながら歌を立たせるセンス。今日はそうした部分以外のところが聴けた。
短編小説は、作家が作家自身を隠して書ける小説である。うまくすれば、着想一つだけで作品を構成するとか、得手だけ見せて不得手は見せないとかいうことができる。長編は違う。珍奇なアイデア一つで長編をものすることはできない。いわゆる構成力が必要になるし、何百枚分も言葉を編む時には、必ず書く者の筋肉が見える――パフォーマンスに技術だけではなく身体能力の高が覗く。
ぼくは初めて入江陽を生で観て、初めて彼の《筋肉》に触れた気がしている。彼の《筋肉》は、『仕事』という盤のすばらしさと同じぐらい、彼の曲をもっと聴きたい、入江陽をもっと観たいと思わせてくれた。OMSBをステージに迎えての『やけど』の盛り上がりからするに、彼を観る機会には恵まれそうだ。今、会場でフラゲできた『探偵物語』を聴きながらこのエントリを書いているのだが、案の定こっちも素晴らしいし、ぜひbutajiさんと共演してください。万難を排して行きます。