キャベツは至る所に

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『息を殺して』@渋谷ユーロスペース

ジャケ買いしたノイズとかドローンのアルバムをかけて、その音像の見事さに聴き惚れていたら、体が震える轟音とか心を締めつける旋律にまで出くわしてしまった時のような、そういう感動をする映画だった。

2018年を迎えようとする年末、《国防軍》が海外活動をしており、東京五輪が雑談の種になるほど間近くなっている……。物語の設定だけ書くとものすごく啓蒙的に聞こえてしまうが、作風はアジテーション的ではない。しかし、下手なアジよりもよっぽど生々しい危機感とか薄ら寒さを煽ってくる。

登場人物たちは元旦が迫る中、職場の工場に留まり続ける。夜勤・残業といった建前の中に、それぞれの「帰りたくない」という動機が少しずつ覗いてくる。何気なく談笑し仲の良い同僚と深夜ウイイレに興じる彼らの、ほんの薄皮一枚を剥いだ裏にある気鬱がやけにリアルだ。国防軍とかオリンピックといった言葉は、それそのものが明確に持つ性質ではなく、むしろ彼らの衰弱した希望の婉曲的な表現として機能している。

衰弱した希望という表現は的確ではないかもしれない。彼らは端的に絶望しているのだろう。自分に対しても、世の中に対しても。鑑賞とか分析とかいう以前に、共感としてそう感じられた。

いま20代後半ぐらいの人間の多くは、肯定的にでも否定的にでも、年長者から「歳の割にしっかりしてる」と言われたことがあると思う。少なくとも周辺の人たちに話を聞くと、そんな感じだ。はっきり言ってその「しっかりしてる」は、絶望に慣れているための態度だ。幻滅も諦念も、絶望も、人を分かりやすく老けさせる。ぼくは生まれてこの方、世の中が正しく回っていると思えたことなど一度もない。百歩譲って「ごく局所的にだけ望ましい営為が存在する」としか言うことができない。世の中が正しく回りだすことより、生活や安息の基盤が崩れる事の方がよっぽど現実的に思える。そう思ったまま暮らしていれば、老けもするというものだ。

環境音の取り入れ方と強調の仕方が、人物をどこへも逃すまいと働いていて、絶望の実感を助けている。カメラは概ね、舞台である工場の中だけを撮り続ける。クレーンの操作室、更衣室、搬入口、階段や廊下やエントランス、事務室。無機的でありふれた表情の建築から、カットごとのニュアンスを間違いなく引き出す撮影も見事だ。クレーンや空調や配管が発する音は空間を飽和させ、その中で動作を取る人間たちが持っている(かもしれない)《目的》を、頼りなげに、存在が危ういものに見せる。《目的》というバイタリティの源がぼやければ、不安と恐怖が浮かび上がってくる。説明的な台詞が滅多に使われないからこそ、ぼんやり浮かんでくる不安も恐怖も、その抽象さごとクリアーに認識できる。そしてその抽象的な感情は、恐らく誰の中にもある名状しがたい感情と同種のものなのだ。

 本作では「幸せ」という言葉が、凄絶な存在感を放つようにして用いられる。ブログとかTwitterで時々「絶望を知らないから幸せなのか、絶望を知ってこそ幸せの価値が分かるのか」みたいなことを書いてきた。それは当然「幸福に生きる」ことを望み、それを実現するにはどうすればよいか知りたかったからだ。しかし本作を観て、自分の言葉や思索が甘っちょろいものであることを痛感した。「幸福に生きたい」ということは「幸せで人生を支えられる」と信じることであり、それを信じるということは、「幸せは絶望のカウンターになるのか」という問いにYESと言えるということなのだ。ぼくはまだその問いに充分には答えられない。YESと言うことはできる。だけどその答えは個人的な答えでしかなく、あまり普遍的ではない気がするのだ。幸せなんかで、これほど大きな絶望を覆せるのか? そう考えると正直絶句してしまう。ただ、『息を殺して』は、絶望をありありと見せつけてそれで終わりではなくて、ちっともそうした叙述がないのに、いつか救済が訪れることを否定させない。救済を用意しているわけではない。しかし、絶望を拭い去る方法を考え続けるのを止めさせないのだ。こうとだけ言うと些細に聞こえるだろうが、これは理想的なまでに強く美しく切実な力だ。

 

「幸せになれないかもしれない」という恐怖に駆られている人たちが周りに何人もいる。本当にたくさんいる。ぼくは勝手に幸せになるからとりあえずどうでもいいが、彼らは皆幸せにならなければならないと思う。TRPGの『パラノイア』よろしく、幸福は義務だ、幸福になる努力をしないなら死んだ方がマシだという訳ではない。「幸せになれないかもしれない」という怯えは余りにも惨い。そんな人たちが酬いとして幸せにならなければやっていられない。