キャベツは至る所に

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高野文子『棒がいっぽん』

棒がいっぽん (Mag comics)

大学時代、先輩の家に泊めてもらった時に読ませてもらい、それから自分でも買った短編集。当時別の友人にガロを教えてもらっていたのに、『絶対安全剃刀』を先に読まなかったことは幸か不幸か。何にせよ一冊単位で言えば、自分のマンガの趣味の中で挙げざるを得ない本だ。

 

◆『美しき町』

きわめて静やかなテンポのコマ取りで描かれる、同居して間もないお見合い夫婦の日々の物語。夫婦の心情を淡々と語るモノローグ、「同じ工場に勤める家庭が集合する団地」というロケーション、リアリズムにのっとったセリフ回し、線自体は簡素でありながら丁寧に陰影をえがく描画。繰り返し読んでいると、紙面を撫でたくなるほどに、静かで、戯画的で、しかし生活の色は鮮やかだ。

安直に過ぎるが、松の木に背を凭せかける妻の姿とか、きれぎれにさえ見える生々しいセリフの数々、放り投げるような人の表情の描き方に、小津映画の雰囲気を嗅くことができた(初読のときには小津を一本も観たことが無かった。ほんとうに安直な感想だと自分で思う)。

この作品ではひとつだけ「トラブル」と呼べる事件が起き、それが静謐なストーリーの中でクライマックスを作り上げる。その点について、個人的な思い出がある。この作品が好きな友人が一人いるのだが、彼はこの作品を絶望の物語だとした。閉じられた生活の中で、きっとこれからもつまらない出来事には見舞われ続けるのだという、倦怠の物語だと。ぼくはそのトラブルに見舞われながら、それをいつか二人なら笑い話に消化できるだろう、それを信じようという、希望を遠くに見る物語だと読んでいる。いろいろな表現に対して共感することの多い友人と、意見が真っ二つになっただけあって、このエピソードには強い印象がある。今になってみれば、ベターハーフというものに対してのぼくたちの価値観の違いが、如実に出ただけとも言えるが。

しかし何度読んでも、この作品の結末で、九月の明け方に夫婦で口にするホットミルクとクラッカーに、ぼくは幸せの薄い味を思い描かずにはいられないのだ。

 

◆『病気になったトモコさん』

小児病棟に入院している子供の視界を描いた掌編。時系列や空間の連なりを無視して挿入される、病室ではない《トモコさん》の自室のカット、遠くを走る電車の窓のカットなどが、子供独特の思考の飛躍をえがいているようで面白い。そのスケールの小ささから、こうしてレビューを書く時にはどうも文字数を割けないのだが、すとんと飲み込めるくせに高野文子以外の他に誰が、病室のむなしさをこう描けるだろうと思わせる佳作。

 

◆『バスで四時に』

結婚相手の家を訪ねる道のりの、女性のお話。これも一人称的な視点で物語が進む。順路の進み方を頭の中で繰り返しながらバスに乗る、そうしながら、目に入ったり脳裏をよぎったりする由無し事に気を取られ続ける……。思考が走ってしまっているとき、つい独り言を心で編み続けるような人は、深く共感できる物語だろう。そうした癖がなくても、前触れなく蘇った幼い頃の記憶が今の境遇と混じって展開し、顔を思い出した友達のフルネームが思い出せないというパートの不思議な緊張感は、きっと誰の目にもビビッドに映るはずだ。

ぼくはこの話が、短編マンガの中で一二を争うほど好きだ。偶然に起きた出来事を話の基礎にしてはいるが、この物語は未来の幸せを暗示しているからだ。何も約束してはいないが、きっと彼女の結婚は幸福なものになるだろうという予感を、予感のまま確かに読者へ伝えてくる。しかも言葉ではなく絵だけでその祝福を作品へと招じ入れている。

 

◆『私の知ってるあの子のこと』

「子供は複雑である」ことを描破している作品。絵本調のモノローグで綴られている示唆に富んだ物語であるため、梗概に触れることは敢えて避けたい。つまるところ、孤独とか無力といったたぐいの真理に気付いてしまった子供の話だ。

子供の頃には戻りたくない。現実逃避の術を持たない時に世の中の心理を垣間見るような拷問にはもううんざりだ。しかしそれを書きたいと思う。

 

◆『東京コロボックル

上記の四作はいずれも少女誌に載ったもの(『病気になったトモコさん』はLaLa別冊、それ以外はプチフラワー)だが、本作はHanakoに掲載されている。東京のイマドキの夫婦宅に寄生しているコロボックル、という設定で読ませる2ページ1話の連載作品。たまにはスパゲッティを食べようと、スパゲッティの切れ端を(寄生先のおうちの)フライパンに転がして味を付けたり、人間のオフィスのほっぽらかされてる紙袋の中にコロボックルのオフィスがあったり、いちいち描写がかわいらしい。マガジンハウスの雑誌に載っていたようなマンガは時々の流行りのアイテムや語彙がちらつくので、ぼくのような古本読者にはそれだけで面白かったりする。

 

◆『奥村さんのお茄子』

頭脳がポンコツなので、何度も読み直して、色々な方のレビューを読んで、ようやく話の筋というか語られているものの輪郭を掴みました。

漬け茄子・うどん・炊飯器、ガジェットはいちいち当たり前のものなのに進んでいく梗概がどう見てもSF、という設定が実にSF。

薄れた記憶を寝技のごとくしつこく多角的に突き詰めていく、しかも記憶の主は子供もいい歳になった電器屋の店主、記憶を探るのはどうやら人間じゃないスーパー店員の格好のお姉さん。もうこれだけで何が何だか分からないが、一コマ一コマ丁寧にアクションとセリフを織り重ねていく叙述を丹念に読んでいると、分からないなりに読んでやれという気概が湧いてくる。十年弱前に読んで以来、折に触れて読み返している。

精緻な考察はWeb上にごまんとあるので、もっとピンポイントな掬い方をしたい。「お茄子」と題に採っただけあって、本書の作品群の中でも食事の描写がとりわけ鮮明な一篇だ。とろろ芋から生えた毛のシンプルな描き込み、それを丸かじりする時のオノマトペ「しゃか」、セリフで説明が添えられない、しかし必然的にしょうゆ皿に添えられたチューブわさび。単に食い意地が張っているせいなのだろうが、こういう描写に「萌え」を感じざるを得ない。そうして描かれる茄子が、いかにもしょっぱそうな、弁当に詰められた白飯に汁気を吸わせてがつがつかき込みたくなるような茄子が、この物語では凶器として描かれる。この不気味さ。

 

 

余談だが、福田里香『まんがキッチン』には、本書から着想を得たお菓子のレシピが収録されている。福田女史が唱える「フード理論」≒物語の食べ物の描写は、演出を読解する大いなるヒントであり、作家の価値観を物語るものという論には大いに賛同している。『ハウルの動く城』で、ソフィーがマルクルにベーコンエッグを焼くが自分の分は焼かない、それだけで「ちゃっかりした子ではない」と表現している……物を食うのは生きている証拠であるが『西洋骨董洋菓子店』で小野だけ物を食べておいしいと言う描写がないから、小野が一番ミステリアスに見える……などなどの考察には頷くばかりだった。高野文子のみならず、様々な作家・マンガを面白く読むヒントがたくさん盛り込まれているので、一読をお勧めする。

まんがキッチン