キャベツは至る所に

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萩尾望都にまつわる雑感

残酷な神が支配する』の内容に関して、ネタバレと呼べる言及をしています。


少女マンガを熱心に読み始めたきっかけは、何となく全巻買った『西洋骨董洋菓子店』がとんでもなく面白かったことだ。よしながふみに興味が湧き、追って対談集『あのひととここだけのおしゃべり』を読んだことが決め手になった。「24年組」というキーワードと、それを出自としたボーイズラブ、という見方。よしなが自身の「女性が生きるためにある少女マンガというジャンル」という価値観。色々な表現に接する時の指針になっているこの対談集は、枕頭の書のひとつである。
『あのひとと…』の最後を飾るのは、萩尾望都との談話だ(後に出た文庫版では、よしなが大奥の主演である堺雅人との話が載っている)。『あのひとと…』を読んだ時には、24年組はろくに読んでいなかった。萩尾望都がどれだけの大家であるかもよく分からなかったし、実作を読むのはもう少し後のことになる。実作への言及があることもあいまって、よしなが・萩尾の対談は斜め読みをすることにしたのだが、あまりにパーソナルな要素を感じさせる一節が目に留まり、そこだけはハッキリと記憶に残ることとなった。それが次に引用する箇所だ。

親がまだ怖かったころは、私は一生“親殺し”の話を描くのかな、なんて思ったこともありましたが」(『あのひととここだけのおしゃべり』通常版・p280より)

どうしても強いコンプレックスを感じさせる発言だ。それから『イグアナの娘』を読み、『トーマの心臓』を読んでから『訪問者』を読み(『訪問者』を読んだのはTwitterでフォローしている方からの推薦による。ありがとうございました、本当に面白かったです)、そして去年の末に『残酷な神が支配する』を読み……としているうち、この言葉の背後にあるものの存在を強く感じるようになった。
ザッと検索をかけて、方々の記事を読みかじっただけだが、萩尾氏は厳しい家庭に育ち、絵を描くことや異国情緒に触れることで心の平衡を得ていらしたようで、「マンガを描いて食っていく」ということもなかなか御両親に理解されなかったらしい。昭和24年生まれの方の親御さんには、実際なかなか分かってもらえないだろう、と他人事だから言えるけれど。

残酷な神が支配する』を読んでいて一番驚いたのは、セックスと暴力がまとわりつく「性虐待」を描きながら、露悪による快楽が見て取れなかったことだ。物語を書くから分かるが、凄惨なもの、えげつないものを描いている時には一種のハイを感じるもので、読者の興奮はそのハイにこそ出自があると言える。物語を現実から虚構への越境と感じる上では、書き手の興奮も読み手の興奮も、ある種自然な心の動きだと言える。しかし、『残酷な神が…』で描かれる行為は、エスカレートこそしていくのだが、それがテコ入れ――すなわち読者の馴れに助長されたもの、という風に読めなかった。いい歳になり色々な表現に触れて、もう思春期の頃みたいに、人物が傷つくのを読んで自分も身を切られるように感じることは少なくなってしまったが、『残酷な神が…』では久しぶりにそういう心地を味わった。主人公のジェルミが壊れるようには壊れていかなかったが、そんな描写にカタルシスを覚えるより先に胸苦しさを覚えた。
しかし読み返した『あのひとと…』に、萩尾氏のこんな発言を見つけた。

実は、あの作品で私はイアンのお父さん(=主人公ジェルミを犯す義父・グレッグ)を描くのがすごく快感だったんですよ。彼はずっと理不尽なことを手前勝手に言ったりするんですが――こんなことを言ったらうちの母が怒るかもしれませんが(笑)、あの口調は私の母の口調なんです。それまで言えなくて苦しかったものをイアンの父に託す形で吐き出していたんですね」(p277より、( )内は引用者の加筆)

一文目を見て「あの描写に快感は付随していたのか」と思った刹那、続いたのはこのような文章だった。何だか自分の中で整合性が取れた感じがした。
というのも、萩尾氏はよしなが氏と話す中で、グレッグというキャラクターのことを「イアンの父」と呼んでいる。引用した箇所の直前で、よしなが氏が「グレッグ」と名指ししている上で、だ。キャラの生みの親である、つまりそのキャラを造形した主である作者から、固有名そのものではなく「イアンの父」として呼ばれるグレッグ、そのキャラに託された実母の言葉。それまで朧に見てきた、萩尾氏のコンプレックスの輪郭を最も濃く視認したという気持ちになった。
『残酷な神が…』の後半は、虐待によって壊れたものを何とか修復しようとする描写、ある意味虐待そのものの描写よりも読者の首を圧迫する描写によって綴られる。あれによって(いくらか)修復されたのは、ジェルミの精神だけだったのだろうか?

負の感情から生じた表現が受け手の心に正の感情を生むことが、ついには世界を救うのではないかという夢想は、自分の生きる糧になっている。以上の雑感は、その夢想を手放さない理由のひとつになりつつあって、結果萩尾作品への愛着をかなり決定的にしている。