キャベツは至る所に

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3/16

友人二人とあらたまって音楽の話をしていて、自分は音楽を聴くときにずいぶん意味を重視しているものだ、と思い知らされた。

どんなにミニマルでも、曲には展開というか起伏が生じるから、同じ言葉を使うにしても、どこに配置するかで聞こえ方がまったく違う。たとえばぼくはFという和音の響きに、明解さというか、別解釈の探しようがない単純な何かを感じる(ギターでもだが、鍵盤だと特にそう感じる)。楽典的知識はまったくないので、もう具体的な喩えはできないが、つまり響き自体にも、意味へ通じる扉だとか、増幅させるに相性のよい意味合いとかがあると思う。ぼくは旋律や音色で膨らんだ意味に触れるのが、とりわけ好きなのだ。

特定の曲を引っ張ってきて説明してみる。butajiの『飛行』という曲が、初めて聴いた2014年の元旦以来ずっと好きだ。フックの中に「ふざけきれない二人の幕開け」という歌詞がある。「幕開け」は裏声で伸ばして歌われるのだが、何度聴いても「幕開け」という言葉があざやかに聴こえてくる。「幕開け」という単語が、「Makuake」という音をもって成り立ったことを深く納得させるかのように。広がっていくものを目の前に見せるように。そういう感じ方をする瞬間が好きでたまらない。

思えば小会場に弾き語りを観に行く率が増えたのも、こうした嗜好が強まってきたせいがある。シンガーソングライターは意味なく詞を選ばない。「思い付いただけ」というフレーズにも、往々にして、琴線に触れる経験とか読書体験による由来がある。その濃い意味にたくさん接触したい。

楽曲の一番シンプルな姿がスコアであるならば、歌声の個性もフレージングも添加物ということになる。しかしスコアの再現性を求めてライブに行く者はいない。その時々のボーカルや演奏で曲自体が揺らぎ、存在していた意味が浮かび上がってくるのを捉えたいから、ライブに行くのだ。さっき和音にも意味を見いだすと書いたとおり、この感覚はインストを観る時にも通用する。放埒な演奏には放埒なりのエネルギーや馬鹿さ加減があり、音源を再現しようという演奏には凝り固まった硬い微震動がある。そうした(音源からの)ブレから、曲自体に変わらず存している情景とか主張を見いだすのが楽しい。

近年ようやくアイドルを聴けるようになったが、アイドルを好むということは、畢境タレントの個性に対して造詣を深めるということだから、考えてみれば、こうした聴き方をする人間がアイドルソングを愛好できて当然であろう。

他の二人は、もっと音や声そのもの、なぜその演奏の様式や組み立てを選んだのか、全体がどのように聴こえ(て何が視え)るかといった点に重きを置いて判断し、音楽に快を見いだしていた。ぼくなどよりもよっぽど、音楽の快のコアな要素に敏感であると言える。音楽を聴いている間に、あまり思考を働かせるのは好ましくないと承知しているが、ライブだと時々集中が自分の思考の方に傾いてしまうことがある。やっと感受できた意味を、風化しないうちに記憶しようとしてしまうのだ。基本的に音楽を聴くのにも、多分演奏するのにも向いていないのだろう。