キャベツは至る所に

感想文、小説、日記、キャベツ、まじめ twitter ⇒ @kanran

3/17

夜勤に出るための通勤経路に、ひんぱんにキャリアカーが停まっているのを見かける。上層、下層に合わせて六七台は載せられるだろうか、自家用乗用車を満載にしているところにちょうど出くわす。集合住宅の多いエリアではあるが、ごく近くにディーラーがあるというわけでもない。どうしてああもひんぱんに見かけるのだろう? まあとにかく、交差点にさしかかると三車線になる大きな道路の左端を、夜の道が空いている間しんしんと閉ざし、ぼくが仕事を終えた朝には跡形もなく消え去っているその車を、血の流れで摩滅する動脈瘤のようだといつも思う。

何かを満載にした大型車は、どうしても見かけるたびに大きな事故を連想する。荷を固定するものがヒューマンエラーのせいで働かなかったり、経年劣化が進んでいて器具が壊れたりして、荷が散乱する様を思い浮かべる。自分が生来のドジだからなのだが。

エスカレーターは左右両側にステップを動かすためのベルトがあるから、人が片側に寄って利用することが続くと、片方の摩耗が早く進んでしまうと聞いたことがある。例えば全ての使用者がロボット化して、さまざまな行程が最適化されたら、エスカレーターのベルトの偏ったロスなどは真っ先に無くなるだろう。最適化された作業しか起こり得ない以上、部品単位の消耗の進み具合もシミュレーションの値と乖離しなくなる。固定器具が壊れて車の積み荷が散らばる可能性もグッと低くなるはずである。

知識を補填しながらテレビゲームをやりだす前、それこそ子供の頃からこうした「理論値」というものについては妄想することが多い。麻雀を覚えた頃、ゲームとしての複雑さを理解するたびに畏怖めいた感動を覚えたものだが、麻雀は不確定要素との格闘が醍醐味であるから、「この配牌とこのツモで最高得点を作る」という理論値追求が、イコール最善手とか興に耽る遊び方ということにはならない。麻雀ゲームのTASのほとんどが、技巧的な織り細工のような面白さしか持たない所以だ。