キャベツは至る所に

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スピッツの新曲『みなと』が素晴らしい。近年のスピッツはメロディも歌詞もクリアーで、だからこそ演奏の小気味よさとか、フレーズのめざましさが際立って聴こえる。

『みなと』の一節で、判断に迷っているところがある。「己もああなれると信じてた」という一節だ。この曲では「僕」という一人称があらかじめ使われている。ここで「己」なんて言っちゃうのがマサムネ節だよなあ、と最初は感じ入っていた。

 

前のエントリで触れた細野晴臣アンビエント・ドライヴァー』で、トール・ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』という本の内容が引用されている。言語学者・ノーレットランダーシュによると「人がメッセージを作り上げる過程で、情報は取捨選択されている。このとき削除・省略された情報を〈外情報〉と仮称する。メッセージそのものだけではなく、それが帯びている〈外情報〉まで理解して、コミュニケーションが成立している」とのこと。がさつな言い方をすれば、人は言葉面だけを見聞きしてるんじゃなく、文脈を察しているものだ、ということだ。

 

ぼくはスピッツがめちゃくちゃ大好きであるが、『みなと』の「己」はさりげなさ過ぎて、マサムネ節だ唯一無二だと騒ぎ立てるべきなのか、普通の表現(普通というと語弊があるが、奇をてらったとか何とかじゃない、音韻として妥当な選択)として受け取るべきなのか、全然判断できない。思い入れや、ここまで何千回聴いてきたか分からない草野マサムネの詞の自分の中でのアーカイブが、「己」一語と摩擦して火花を散らしている。