キャベツは至る所に

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高橋弘希『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』を読んでいる。今ぼくの周囲にいる中で、本を多く読んでいることが最も明らかである友人が激賞していたので、これは読んでみようと手に取ったのだが、すばらしい。

まだ読み終えてはおらず、中盤を過ぎたかというあたりまでしかページをたぐっていない。だから梗概に触れたり、作品自体を評価する文章は書けないのだが、何となく今の自分の感興を書き留めておきたくなった。

 

長大な作品ではない。《小説》全体の中では短編に類する作品なのだが、数ページ、十数ページ読んだら一度本を閉じて、何時間か、または何日か経ってからまた読み始める、という読み方をしている。合間に別の本を読むこともある。普段はしない読み方だ。それなのに、そういう読み方で、自然に読めている。話の筋がこんがらがることも、自分のノリが錆びつくこともない。

叙述は淡々としていて外連味もないし、構造が激しく複雑なわけではない。視線を惑わせるような言葉のまずいつなぎもなく、集中を途切れさせる縺れもない。そうしようと思えば一気に読み切ってしまえるのだが、どうもそうやって読もうと思えない。だからといって「読み終えてしまうのがもったいない」という感傷で手が止まるわけでもない。そういう気持ちもないではないが、終盤を読んでいない今すでに「繰り返し読むのに耐えうる文章だ。折に触れて再読するだろう」とも思えている。

人間の死について書かれている小説なので、自分の死を想う心とか、死んでしまった人たちのことを考えざるを得ないのも、するすると読んでいけない要因なのかもしれないが、どうも違う気がする。そういう作品には、自分の中にこんな鐘があったのかと思うものを激しく鳴らされる心地がするものだ。クライマックスを迎える前から、いくつものパートで。『日曜日の人々』には今のところ、そういう感じが全くない。身を切られるようなエピソードやパッセージは、いくつも既に現れていながら。もちろん響いてくるものはあるのだが、それが自分の中で反響を唸らせることがなく、フーッと消えていくのだけが鮮やかに感じられる。先に読んでいたデビュー作『指の骨』にも同じ感覚があったが、『日曜日の人々』が自分に残す無音には、背筋が寒くなるほどのものがある。その寒さを身も蓋もない言い方で表そうとすれば、「描かない意図が感じられる叙述によって、こちらの観察が掻き立てられる」と片付けてしまえそうでもあるのだが、そう言い切りたくないものが自分の中に強く、かつ間違いなくある。

一時、『日曜日の人々』のような文体を目指していたことがある。ある気がする。数万字単位の小説を書き始めた頃のことだ。新しい言葉を綴ろうという意識も鈍らながらあり、自分なりに透徹したまなざしを持とうとして書いた初めての自作を思い出させる。それが自死についての小説だったことも大きい。小説としての質は『日曜日の人々』に遥か遠く及ばないので、出来不出来の差を想って読むペースが落ちてしまう、ということは全くない。だから惹かれる、というのはあるかもしれないけど。

 

この小説を教えてくれた友人は『日曜日の人々』に関して、「小説は人間に書かれたものであってほしくない」と言っていた(本当は「書いていた」とするのが正確なのだが、ぼくにはそれが彼の肉声だと思えるので、「言っていた」としたい)。読んだ後、単に経験として残るもの。誰が何によって書いたということが自分に関係しないもの。そんな側面が、高橋弘希の小説にはあると。そんな意見と、実際に読んでいるものとが協奏する感じも、実際の読書を楽しくしている。『日曜日の人々』にしても、『指の骨』にしても、作家を隠そうという意思をもって書かれたものではないだろう。しかしぼくは彼の意見に共感している。

作品から性格的要素を完全に排すること、しかもそれを制御下において行なうことは、恐らくどんな作者にもできない。作品に作者を感じさせないということは、そうした作為で成り立つものではない。

ある悪友とバンド(というかデュオ)をやっていて、その場で出たアイデアひとつで一気に基礎を作る曲作りをしている。素晴らしい音楽はヤマ師によっても作られるのだな、といつも思う。ディテールのレベルで言えば、どんな表現形態にもまだ発明はあるとも思う。

高橋弘希について言うと、トリックとか発明ではないものが凄い、と思いながら読んでいる。一気に読み切らないのは、じゃあ何が凄いんだろう、というこの気掛かりによるのだろうか。

 

流れに身を任せればすぐに読んでしまえる性質のものを少しずつ、高級なボンボンを一粒ずつ日を置いて食べるように読んでいる。読み切るのが惜しい訳じゃない、きっと後々読み返すし、と上述したが、ここまでに「読み切ってしまえる」のように「しまう/しまえる」という補助動詞を繰り返しているところを見るに、結局読み切るのは惜しいようだ。

読み終える前からこんなにだらだら書いてしまう、それぐらい興味深い小説だぜ、という記述でした。

 

 

日曜日の人々