キャベツは至る所に

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Somehow I Live

ある食べ物を好きであることに理由はなく、ある食べ物を嫌いであることには理由がある。理由がない/あるというか、なぜ嫌いかを説くための言葉は、なぜ好きかを説くための言葉よりも、その人の中に明確に存在する。「この食べ物が好き」という実感は、「おいしい」という満足感に由来する――というか、満足感そのものの謂いであることが多い。「おいしいと思っていないけどよく食べたくなる」という情動もあるが、それはごく軽度の依存というか、口内の感覚を慣れ親しんだ状態にすることで気分の安定を図るような動作ではないか。何にでもマヨネーズをかけて食べる人は、マヨネーズが好きというより、ライナスにとっての毛布としてマヨネーズを用いていると思う。だから、うまい店を教わるのは別として、好物の話よりも嫌いな食べ物の話を聴く方が昔から好きだ。

本当に受け付けないものが、「生理的に嫌い」とだけ説明されることがある。そう説明される時、身体の芯からその人を突き上げる、強くしぶとい悪感情は、実際に存在するだろう。しかし「生理的」という言葉を選ぶのは、「自分の真ん中に近いところから噴き上がってきた」という実感から、体や本能で拒んでいるのだと表明したくなっている、だから精細な言語化をさておいて、とにかくシンプルで汎用性の高い「生理的」が引っ張ってこられている、ということが往々にしてある。たどっていけばトラウマに行き着くこともありうるものだから、全ての人の「生理的に嫌い」をひもときたいという気はさらさらないのだが。

 

何が初出だったか忘れたが、「布団の中で反省会をするタイプの人間」という表現が気になり続けている。まあ、自分がそうだからだ。膝を詰めるようにして話したのでも、ちょっとした挨拶を交わしたのでもよいが、一日を振り返って「あの時もっとああすればよかったんじゃないか」「相手を不快にさせなかっただろうか」と、他人のことを考えて寝る前に悶々とする。毎日とは言わないが、そういうことがしょっちゅうある。三十路を迎えてまでこんなにあるとは思わなかった。

よくそういう時間に、冷静には無限のタームがあるけれど、興奮にはタームが一つしかない、ということを考える。

小岩bushbashを書いた小説(『NOWHERE』vol.2)で、モッシュしている時の人間のテンションや思考の推移を、初めて細かく描写した。どれだけの人たちのこういう時間と通じ合えるものが書けたかはまだ分からないが、自分の感覚を、ある程度の精度で落とし込めた自負はある。そこで思うのが、こういう熱狂的な興奮状態において、その真っただ中でまともに考えていることなんてないし、いつも同じような状態にしかなっていないということだ。その中の微妙な差異を見つけることに、音楽を聴く意義を感じはするし、脳が一番気持ちよくなっているのはそういう没我の状態の時ではあるのだが、興奮は結局いつか醒める。

 

「おいしい」が、その充足感ゆえに言語化を促さないように、忘我するほどの興奮は何も生まない――興奮それ自体は。仮に豊かなものをそこに見出せたとしても、それは作物ではなく肥えた土なのだ。何かが生まれるのは次のフェイズでのことであり、興奮のなかで何かを結論付けることは、種を蒔く前から「ここには何も実りがない」と断じることに近い。そしてその認知は、冷静に顧みられることがない限り、いつか「ここには何も実らない」という認知に変形する。冷静でいる時にこそ、種蒔きも刈り入れも可能になる。

同じことを思い悩んでいると、堂々巡りに陥ることはある。それでも、何度も行き着いたとして、彷徨っている間に得た知見から、同じ袋小路にも新しいものを見つけられることがある。そして、そういう発見のことを、とってつけたような慰めのように言うまでもなく、もっと確たる収穫として「彷徨い歩いた」ということを達成できる。彷徨った間の「気分」を味わうことが出来る。忘我して時間を飛ばし去るあの快楽とはまったく違う、「時間を得る」という報い。というか、時間がないと勉強はできない。興奮の中で結論を出すということは、この問題に対して今以上に自分が賢くなることはない、と断定することに等しい。

思春期の頃の、様々なものを害と捉えがちだった精神の過敏さの所以を「無知だったから」「視野が狭かったから」と断定してしまうほど、当時大切にしていたものを軽んじたくないが、そういう要因は確かにある。過敏を純粋とすりかえて、いつまでも若作りしていたいわけでもない。「時間を得る」ということに価値を見いだせないと、老いを恐れることしか出来なくなる。一年経ったら、五年経ったら、十年経ったら、目の前の問題をどう捉えるか。一年後、五年後、十年後の自分の立場も思想も、シミュレートすることは難しい。けれど、それが全く出来ないなら、一年前、五年前、十年前から連続している自分の生すら使い損ねていることになる。

上にリンクを貼った小説は、好きな場所を描いたということもあるが、興奮の時間と冷静の時間を、一編のなかで乳化させられたような実感があって思い出深い。bushbashで、池間由布子という歌手をよく観る。池間さんの『なんとなく生きていては』という歌に、こんな一節がある。大好きな歌だ。

 

   見慣れた顔を鏡にうつして 

   歳を重ね 大人にはなったけれど 

   ぼんやり眺めていては

   いつまでも本当が見えない

 

鋭くあるにはどうすればよいのか。単なるユーフォリアではない「本当」の感じを、自分はどう捉えようとしているのか。