キャベツは至る所に

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走るべき人

あの人はどうして走っているのだろう、と思ったことがある。

先日、上野公園を歩いていて、走る人を見た時にそう思った。襟付きの長袖シャツを着て、スラックスと思しきものを穿いていた。日常的にハードな運動をしているような体型の人ではなく、小走りという速さを上回る速度で走ってはいるものの、決して敏捷ではなかった。誰かと合流しようとしているのかもしれない、何かの用で駅へ急いでいるのかもしれない。少し考えれば、その人が急ぐ理由などいくらでも想像できる。それなのに反射的に、その人が走る姿を異質に感じた。つまり、自分の中に「走るべき人」という固定観念があり、あの人は「走るべき人」ではないと捉えたということだ。思うまでもなくそう思っていたというだけで、人を見てそう判断していたことは、きっと今までたくさんあったのだろう。

思えば、ランニングウェアはずいぶん普及し、そしてデザインが特徴的になったと思う。生活の中で目にするランナーたちのほとんどが、見るからに速乾性に優れていそうな体にフィットしたウェアとか、コンパクトで軽そうなシューズ、安定性の良さそうなサングラスを身に着けている。手を空けるためや動作を邪魔しないために設計された物で、ペットボトルやポータブルプレイヤーを携帯している。ぼく自身は走ることに興味がない。運動は嫌いではないが、「ただ走る」ということに快感を覚えたことがない。そんな身からすると、ああしたアイテムはいかにもプロフェッショナル然として見える。そうした投資が運動の継続を促すのか、それらがパフォーマンスを上げるのか、いずれにせよそうしたランナーたちは皆、引き締まった体の輪郭をウェアに描かせながら、軽やかに町を走っている。いつの間にかああいう人たちの姿が、走る人の一般像――「走るべき人」の像として目に焼き付いていたのだ。運動に適さない服装の人が、明らかなタイムリミット(乗りたい電車のドアが閉まりかけているとか)が周辺にないまま走っている姿は、そうした像からは乖離している。

昨日の関東地方は気温が上がり、昼夜のどちらの時間帯でも、散歩する人たちやランナーを多く見た。そしてその中には、上記のようないでたちの人だけでなく、単なるコットンのTシャツやスウェットのようなズボンを身にまとって走る人たちの姿も少ないながらあった。その人たちに対して、昨日の自分はまた勝手に「こんなご時世で外に出ていないし、久しぶりにランニングでもするか、という感じの人かな」などと思っていた。その人たちが、走るのにお金をかけるのを好まず、常日頃そうした服装で走っていることだって有り得る。見た目から断定できるだけの根拠は何一つなかった。つぶさに観察したら(失礼だからしないけど)、継続力を含めたランニングフォームや筋肉の付き方などから、ランナーとしてどれだけの力を持っているか、日常的に熱心に走っている人か否かが分かっただろう。しかし何気なく通る道ですれ違う一瞬、注視に至らないあいまいな視覚の中で捉えたことだけで、その人の何が分かるというのか。自分が目に留めたその人の断片が、妄想を掻き立てるものであったり、鮮やかな記憶として有している誰かの何かと似通っていたりして、物語のワンシーンと同じようなものとして、印象の中に整理されることは間々ある。ただ、その人たちは血肉を持つ人間であって、日々楽しむ物語や日々愛でるキャラクターと同じ存在ではない。

三原順の『はみだしっ子』で、マックスという少年(その時点で5歳という設定)が「通り過ぎるだけの人も、会ったことがない人も、人間みんなが(自分と同じように)感じたり考えているなんて気持ち悪い」と言うシーンがある。幼い頃、同じことを考えて混乱した覚えがあるので、忘れられないシーンだ。気持ち悪いというか、想像が及ばない途方もなさが恐い、と言う方が正確かもしれない。今でも時々、そういう恐さを感じることはあり、テキストの多くでそれについて書いている。

 

人間は、走ろうと念じて初めて走る。

去年、走っている途中に、自分の中でなぜ走るかという目的が移ろい、その瞬間をはっきり感じたことがあった。下北沢leteでよしむらひらくのライブを観た後のことだ。

ぼくは彼が能動的な活動を休止していた期間に、彼とbutajiのツーマンライブを企画したことがある。件の下北沢でのライブというのは、配信での楽曲リリースと重なっていたりセットリストが網羅的であったりと、本格的な活動再開を報せるような内容のライブだった。初めて生で聴ける旧曲などもあった。ライブをブッキングした――しかも休止中にも関わらずオファーをしたことがある身としては、感情を揺さぶられずにはいられない良い公演だった。会場を出た時に雨が降っていて、駅へ歩くうちにどんどん降りが酷くなった。傘を持っていなかったので、初めは急ぐだけのつもりで走った。しかしそのうち、走ること――体を激しく動かすことが興奮を正しく片付ける方法だと強く思う瞬間が来て、それからは走りたいと思って走った。心地よかった。

このエントリを読む人の中で、あの夜、下北でぼくが走っていたのを見かけた人がいるとする。その瞬間のその人は、ぼくが雨を避けるために走っているのだと、状況的にきっと思ったはずだ。あの日のleteにはぼくが組んだ企画のことを知っている方もいたはずだが、その方たちにだって、胸の裡まで見通すことは難しかっただろう。どれだけ鋭く観察し、どれだけ深く考えを巡らせても、その人が走る上での「つもり」、すなわち意識や比重まで見通せるべくもない。とある誰かを「走るべき人」、またはそうではない人と、ぼくが決められる道理はない。その人が走るべきか判断できるのは、実際に走り出せる当人だけだ。

 

三月末、コロナ禍が拡大と激化を進めていた時期、ブッキングしたライブの延期を決めた。生業としてブッキングをしているわけではない自分でさえ、色々なことを考えた。同じように(生業としてではなく)ブッキングをする友人や、親しくしている店舗の人とも連絡を取り合って、意見や判断基準を訊いたりした。新型ウイルスの感染拡大を前にしてのことだから当然のこととして言いたいし、自分や友人を少しでも慰撫したい思いもあるが、今に至るまで店舗の営業や休業、イベントの開催や延期・中止、下された判断の全てが英断だったと言いたい。そして、そうしたヴェニューを含む、営業をストップさせた様々な人たちに、酬いとしての公的な補助が今日の時点で充分に行なわれていないことが憤ろしい。財務相が「貯蓄に充てられるから金券で補償を」などと述べていたのをよそに、さも当初からその方針を示していたというように定額給付について語る与党議員たちにも怒りを覚えている。

そして、市井の人々が相互に監視し合っているような現状に、危機感と恐怖を感じる。

 

母が亡くなって今年で10年になる。母が死の床に伏している時、自由の利く身分だったぼくは毎日病院へ通ったが、仕事に就いていた兄は、時間があってもなかなか見舞いに来なかった。その数年前に読んでいた吉田秋生の『海街diary』で、看護師である幸が「終末期の人と接することが出来るかは個々人のキャパシティによる。出来ない人を責められるものではない」と語るシーンが、それまでより深く腑に落ちた。そう得心したのは、吉田秋生が母も読んでいたマンガ家だったから、自分に縁深いものとして描写を受け入れられた、という理由もあると思う。

不思議なのは、世話を焼こうとしたり感情をあらわにする他の親類たちより遥かに、動作を起こさない兄を、自分がいとおしく思っていることだった。あいつはそういう奴だ、仕方ない、あいつだって思い悩んだり哀しんだりしていないわけじゃない。そう思って疑わなかった。母を母として亡くすのは俺とあいつだけなのだと当時から思っていて、それによって兄への愛着が増した気さえしている。今に至るまで許せないと思っている振る舞いや言葉を、当時、他の縁者に対していくつも認めた。しかし、兄に対しては本当に何の悪感情もなかった。近しい人のために全ての時間と思慮を費やしていることの充実感と、早くこの日々が終わればいいという苦しみと、しかしその日々の終わりは母の死を意味するのだという哀しみで充たされていて、当時のことはあっという間に過ぎたとも永く感じられたとも言える不可思議な記憶になっている。母が兄を一度も責めなかったことが自分にも影響を及ぼした、という事情があったかもしれないが、そこのところはうまく言葉にできるような確かな記憶がない。

今気にかかるのは、親類たちを「許せない」と思うのと比べれば、ぼくは母を見舞わない兄を「許していた」と言えるかもしれないが、それは本当に「許す」という動作だったのか? ということだ。仮に兄を許せていなかったとして、ぼくは何かしただろうか? 病院に顔を出せと迫ったり、薄情だと責めたりしたか? そうしていたら兄は変わっていたかと考えると、そんなことはない気がしてくる。その諦めが「許し」であるとか、責めるような真似をしたくなかったこと自体が「許す」という動作だった、と言える気もする。ただ、意志を以てそう言い切ることはできない。

肉親に対してもそうだったのだ、誰かを「許す」または「許さない」ということを、言い切れるまでに遂行し抜くことは難しい。人の中には、「許したもの」と「許さなかったもの」の和よりも多く、「許してもいないし、許さないと決めてもいないもの」がある。例えばぼく個人のことで言うと、目端にとらえただけでいつしか決めつけていた、「走るべき人」とそうでない人のような。

そして、「許せる」と「許せない」を分かつ条件は、ほとんどの場合公式化されない(絶対に「許せない」とすべきものに、差別や迫害が挙げられることは明記したい)。Aに言われて不愉快だった言葉が、Bから言われた時に愉快ですらある、ということはよくある。AとBの人物的評価、二人の抑揚や間のクセ、受け取る側の記憶や心的外傷といった様々な前提によって、言葉が同じでも印象は変わる。それを公式のようなすっきりとしたものにするのは極めて困難である。悪気がないのが分かるから不快ではない、というような受け取られ方はその好例だ。「悪気がないのが分かる」というジャッジ。その判断の基準も、判断されるまでの道程も、極めて個人的なものなのだから。余程のことがない限り、よく知らない人のことは、許すことも許さないこともできない。

当節、「許せない」「許さない」という言葉がしきりに遣われている。曰く、外出や長距離移動をする者を許さない、暖簾を出している店が許せない。人間の移動をゼロに近づけるのが、ウイルスの感染拡大を防ぐのは事実だろう。しかし、こうした時の「許せない」「許さない」という言葉にこもっているものは、受け入れがたい。そういう人たちに向けて「許す」「許さない」と言いたくない。そもそも、ぼくはその人たちのことをよく知らない。親しく話す飲食店経営者やライブハウスの店長やスタッフがいるが、彼らの出納まで把握しているわけではない。家にこもっていると気がどうかなりそうだという友達に「いいからじっとしてろ」とは言えない。その人の苦しみ方はその人しか知らない。「みんな出来てるんだから」という説諭が、個人的な苦しみをやわらげることはない。

よく知らない人の言行にためらいなく向けられる「許せない」や「許さない」は、「許す」という言葉が持つ以上の力を企図して用いられている。「許さない」「許せない」でいる主格を自分個人としていない(もっと強い何かだとしている)か、もしくは本当はもっと即効的で過激な言葉を遣いたがっているのをごまかしているか、だ。長距離移動者や営業を止めない特定業種に対して罰則を決めようという声をよく耳にするようになったが、もし罰則が実現されたら、「許さない」「許せない」人々は、名前をあげられる大きな主体を手に入れ、言葉を婉曲的にする手間を厭うようになるだろう。それが恐ろしい。

無意識にそう思っていたと書いた通り、外を出歩いていて見かけた人に「あの人は走るべき人だ」と思ったことはない。そうしてきたように、「あの人は走るべきではない人だ」と、誰かのことを思いたくない。思わないようにしたい。