キャベツは至る所に

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なぜか関西-1

 数か月大阪に行くと話すと、次に会う時は関西弁だな、と言われた。一人ではなく、何人からか同じように。自分同様に大阪へ出張する人間としか、仕事の上での関わりがないと分かっていたので、そうはならないと思いますよと面白味のない受け答えをその都度したが、大阪でひと月過ごさぬうちに変化を感じ始めた。発語しようとする自分を、積極的に阻害したり躊躇させたりするのではないが、一瞬迷わせる機構が出来始めている。

 短い挨拶、店員から受けるだろう確認に対する自分の返答。そうした些細なことばをどのように唱えるか考える時、ひとつの選択肢として、関西弁の抑揚がシミュレートされるようになった。実際に関西訛りで発語したことは一度もない。しかし、今自分が言おうとしていることばをどう変形させれば、ぼくの自然な抑揚から離れ、今いる土地が当たり前に共鳴させ合っている律を成すのかということを、生々しく仮想するようになった。

 三十を過ぎても、生まれ育った地域を出ずに暮らしてきた。祖父母の世代の抑揚と、両親の世代の抑揚はあきらかに違った。両親の抑揚はいわゆる「標準語」的で、祖父母のそれはもっと変形的だった。そこに埼玉の土地固有の単語や活用や発音があった、という実感はない。例えば祖父母には――死んだ者も多く、四人全員がそう言っていたかもはや記憶が定かでないが――「押す」を「おっぺす」と言う倣いがあった。しかし「おっぺす」は多摩地方や千葉・茨城でも遣われる。訛りひとつ取っても、あれは祖父母それぞれの個人的な発語の癖だったのではないか、というものが多分にあったように思える。

 突然大阪で寝起きするようになり、巷に聞く声に訛りを見つけるのが当たり前になってきただけで、こうした変化があるものなのだと驚いた。長く濃いことばの交換を経たわけでなくても、言語は影響を受けるものなのだ。生まれてこのかた点検さえしてこなかったレールに、新たなポイントが設置されたという実感が、生活の折節に覗いている。大阪に来てから、ヘッドフォンをスマホに繋ぐことがなくなったのも、原因の一つかもしれない。家にいた時には、最寄り駅まで歩く間も、電車に乗る間も音楽を聴いていた。慣れ切った退屈な道のりを行くには、気を紛らわす何らかの刺激を供としたかったし、見知らぬ土地を歩き回る時に聴覚を遮断できるほど豪胆ではない。

 平坦に過ぎるが、今は今で旅なのかもしれない。そういえば旅をしたことがない。目的的な移動としての「旅」ならしたことがある。したことがないのは、うんざりするほど比喩として吐かれ続けてきた響きの「旅」だ。仕事の中身が変わらないまま、地縁のない土地で長く過ごすのは、ぼくにとってはずいぶん旅だ。