スマートフォンのGPSさえ使っていれば、旅先でも目的地に着ける。その頼りない自負は、梅田で仕事をするとなって簡単に打ちひしがれた。ホテルとオフィスを往復するために地下道を使うためだ。単純な往復の道のりだけなら簡単に覚えられたが、そこから外れようとした時、例えば行き道で目端にとらえたあの店へ行ってみようとか、ここにタワーレコードがあるからこの辺で地上に出ようとかいう時、とたんに勝手が掴めなくなる。
元々、道の名前や方角が覚えられない。十年以上使っている駅でも、どちらが東口で西口だったか即座に言えなかったりする。東西南北の感覚さえ確かに保てれば、地下を歩いていてもあっちに行ったりこっちに行ったりせずに済むのだろうが、生来苦手なものだからうまくいかない。
しかし大阪の人に言わせると、新宿駅の方がよっぽど訳分からへんわ、ということらしい。初めて新宿駅を使ったのが何をしに行った時だったかもはや記憶にないが、確かに梅田の地下には、新宿駅を慣れないまま歩いた時のあの「あきらめやすさ」に近しいものを感じる。
新宿駅は、こちら側の階段を登らないと東口へは行けないとか、こちら側に出てしまうと小田急線が遠いとか、色々な制約があるくせに、ホームの数は多い。昔は何かとあきらめがちだった。最短経路を行くことをあきらめ、寄れるなら寄っておきたくても売店やコンビニに寄るのをあきらめた。そういうことをあきらめやすいように、あの駅は出来ている。脇目もふらず、一心不乱に矢印に従って歩く。矢印が足の運びを止めさせないのではなく、矢印が織りなす流れに従って俺は泳いでいるのだと感じる。そうすれば着きたかった出口、着きたかったホームに着ける。それが分かるまで新宿駅は苦手だった。梅田は複数の鉄道路線のハブのような場所だから、適切な駅へ入るのに迷う、ということがある。そこが新宿駅を思い起こさせるのかもしれない。
また、生粋の大阪人でも、年齢などによって梅田の地下は歩きづらいのだ、とも聞いた。あの路線が通ってからのあのエリアのことは分からない。工事が始まってあっちへの抜け方がよく分からなくなった。これは新参者には全く分からない感覚だ。三十年同じ土地で暮らして、農地が宅地になり、店が入れ替わり、巨大な商業施設が出来、区画整理が進み、日に日に地域の姿が変わっていくのを観察してきた。こう言葉にすると当たり前で軽々しいが、どの土地もそうあってきたのだ。どんな場所も、野放図に道が伸びたわけでも考えなしに建物が建てられたわけではない。意図や計画によって街は変形していく。常にその途上にしかない。
数年前、夜行バスの出発を待つのに梅田をあてもなく歩いた時は、なるほどどこかに辿り着けるという気が全然しないと感じ入ったものだったが、何週間か歩いてみて、やっと少しずつ地理が掴めてきた。すると面白いことに、地下歩きで培われた感覚が、地上を歩いている時の方向感覚をおぎない始めた。今あそこに見えるあのひときわ大きなビル、あの真下あたりに、確かに地下道を通る人たちがたくさん吸い込まれていく区画があった。そんなことを感じるようになる。
古来、塔を見る人たちは皆、こんな気持ちになったのだろうか? 行商人や宗教家たちが、ある街を訪れ、まとまった期間そこに留まる。街に着いた時から、塔は目に入っている。自分の仕事には関わらないから足を運ばないけれど、雑踏の流れから察するにあの塔へは人が集まっていっている。人心か、もしくは機能か、とにかく何かの「必要」がその塔には集合している。そんなシンボルを、自分自身とは関わりないものとして、しかし自分が留まっている街には間違いなく根を張っているものだとも分かりながら望む。その時の足裏の感覚と視界との狭間に、この世界の何が生活であり、何が生活を厭わしく、または愛らしく思わせるか、その秘密がひそんでいると思う。