キャベツは至る所に

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なぜか関西-3

 最近、音楽が全然聴けない。ノートパソコンとスマートフォンもあるので、ホテルにおいても、配信音源を買うことだって配信ライブを観ることだって出来る。ただ、そこに辿り着かない。正確に言うと、音楽を再生することはある。しかしそのとき聴くのは、それを聴いて自分がどうなるか分かっている曲だ。

 「久しぶりにこのアルバムをかけてみよう」と思う時、人は存外多くのことを期待している。まだ自分がその盤から見つけられていなかったものをついに発見することを夢見ている。意識から外れたところに隠れている記憶が光り出すのに驚きたがっている。最近の自分の音楽の聴き方はそうではない。今口に入っているガムが甘いうちに次のガムを噛もうとしているだけだ。ジンジャーエールを久しぶりに買って、驚いたり懐かしんだりする心の動きはそこにない。これでは音楽を聴いているとも楽しんでいるとも、とても言えない。ただ音楽を使っているだけだ。そう思いながら、丹念に聴こうと出来ない。

 「ライブを観に行く」という要素が突然抜け落ちて、いまだにバランスを取り戻せずにいる。ここ数年、年間で50~70本はライブを観ている。趣味というには充分な数だが、気合が入っているとは言えない数だろう。それでも、その回数の分だけ、電車に乗って会場へ赴き、帰り道で感想や何かをTwitterに残すことがなくなるというのは、自分にとって大きい。

 ここ最近、ずっと音楽を聴けない自分に苛立っていた。つまり、自分の愛が単に習慣に支えられていると思うのが嫌だった、ということなのだろう。新型コロナウイルスの蔓延で習慣が大きく変わったことは言うまでもない。外へ飲みに出ることも減った。これまで、特定の店でライブの企画をしたり、いくつかのヴェニューを小説の舞台とさせてもらってきた。そうして世話になった店があり、自分はそこへライブを観に行ったり飲み食いしたりしに行きたいのに、外出そのものを躊躇わせる原因がある。それはとても歯がゆかった。

 しかし、いきなり大阪での滞在が始まり、そこからまた一つ、気の持ちようが捻じれた。そういう店に、簡単には行けなくなった。行けないことに諦めが付けやすくなった。というか、行かなくていいことに気付かされてしまった。本当はあの店に行きたくなかったんだ、と思い至ったということではない。しかし、もう行かないという選択肢はずっと在り続けていたことを思い知らされた。そういう店でだって、ずっと楽しい想いばかりしてきたわけではない。しがらみは遠ざけられないし、そこに費やす時間や金は他のことにも遣える。仕事のことでいっても、大阪に留まりたいと言えば、自分が入れる枠はある。生まれ育った土地や、近くに住む友人たちに別れを告げる、そういう選択肢自体はある。それを選ぶつもりはないのだが、それがあることを知らしめられると、今まで自分がそうしなかったのは何故なのかを考え直させられる。

 

 以前、音楽に関係する仕事をしている人から、無理に音楽を好きでいる必要はない、と言われたことが、ずっと心に残っている。お互いかなり酒が入った夜半過ぎ、二人きりでいる時だった。自分という人間をどれだけ見透かされて言われた言葉だったかは分からない。二人きりでありながら、ぼくだけに言われた言葉ではなかった。自分もそうなのだという調子で、そう言われたのだった。

 歌を書いたり歌ったりするのは楽しい。ありがたいことに「もっとライブをしろ」とか「お前の歌からは、お前の歌だ、って感じがする」と言ってもらったことがある。友達と二人、デュオとして曲を作っている。相方に楽器を使って呼応するのが楽しい、というレベルの話だが、これも楽しい。音楽の快楽の精粋を、少しなら知っているつもりでいる。しかし今の自分に無理がないかと言われると、まったく否定するのも難しい。その無理は自分から引き受けた自覚もあるのだが。

 二十代の大体は、小説を書いて賞に送っては何の結果も出せないことの繰り返しだった。現行のミュージシャンをたくさん知ったことで、音楽の趣味は広がっていったが、基本的に時間を充たしていたのは挫折感だった。それでも、遅々とした歩みであっても、何かが進んでいる気がして書いていた。その頃、酒はもうよく飲んでいたが、常連扱いが苦手で行きつけは作らずにいた。二十代の終わり頃、地元に程近いところでそうした扱いが苦でない店に出会い、親戚付き合いが関わらない地縁による人付き合いが初めて出来た。ざっくり言うと、ライブを企画するようになったのもそこで生まれた縁による。SNSを用いずに新しい友達が出来るのはものすごく久しぶりのことだった。感想やレビューを読んだ人から文章を褒められたり、レビューで言及したその人本人から感謝されるというのも、新しい交友関係で起こった新鮮な出来事だった。書くことで挫折と微々たる進歩以外のものを得た、初めてに近い経験だった。

 今、音楽に触れている自分は、人に近すぎるのかもしれない。本当はもっと人と関係なく音楽に触れたかったのかもしれない。今やそれは誰かへの不義理だと捉える自分もいるし、そこで勝手が出来なくて何を楽しむというのだと思う自分もいる。

 

 小説を書き始めた頃は他人が分からなかった。書くこととは関係なしに、もしかしたら自分は他人のことをよく洞察し、親密になった誰かの気持ちをよく読み取れるのではないか、という自信が次第に付いていった(一度はそういう自信を持てないと生きていくことが不安過ぎた、と言えるかもしれない)。その頃がキャラクターを造形することに一番自信があった時期だと思う。今、またよく分からなくなっている。仮に自分に平均より高い共感能力があるとして、それを表現においてどう使えばいいのか分からなくなってきている。誰かと深いかかわりを築き、その人の個性を小説に吸収できると思っていた時期が確かにあった。今、あるキャラクターの核となる主張、言わせざるを得ない台詞のことを考えるとする。それが友人Aを鼻白ませ、友人Bの琴線に触れ、友人Cを怒らせ、友人Dに辛い記憶を呼び起こさせ、友人Eの萌えを誘うということを一瞬で悟ることがある。近しい人とて、全員を満足させることは極めて難しい。そして近しさゆえに、それぞれの喜びも趣味性も悲しみも怒りもよく知っている。その5人全員に読まれるとは限らないのに、その5人だけに読ませるものではないのに、たじろぐ自分に気付く。ここでたじろいでいるやつに何か書く資格があるのか。

 過渡期だ過渡期、と言って済ませたい問題ではない。自分の正しいと思う表現を貫くのが作家だという声も、そんなにあれこれ考えるならしがらみなんてかなぐり捨てろという声も、どこかにはあるだろう。そのどれにも従いたくない。

 自分の感情と思考がコントロールできなかった年頃のとき、あのときの苦痛や不如意が、自分を創作に向かわせた自覚がある。あのころは、希死念慮を「うまくやり過ごせれば今よりは弱まる時が来る」というものだとは捉えられなかったし、そう思いかけていたけれど結局そうではないことを、自死遺族の方と話す機会があって痛感した。今ここで他人との関係について「今そういう気分でいるから思い悩んでいるだけだ、いつかは違う気分になる」と片付けてしまうと、ぼくには本当に書く資格がなくなる。「やり過ごそう」で全てやり過ごせるなら文章なんて書いていない。