キャベツは至る所に

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『夜祭り』

 木々は昼間の雨をよく閉じ込めて、闇を柔らかく湿らせていた。夏のものとは思えない冷気のかたまりが、時々ぼくを撫でた。枝だろうが葉だろうが見分けないまま掻き分けて、注意深く傾斜を降っていくうちに、ぼくの服は確かに濡れていった。灯りから遠く離れた茂みは暗く、肌がわずかに輝いているようだ。ここ何日かの田舎暮らしで灼けた腕は、宵闇の中で赤黒く映えそうなものだが、今夜はもっと冷たく黒く染まっている。上を見て、理由を悟った。雲に隠れながらも、肥った月が光を放っている。青い月光が赤を削いでいるのだ。

 落ちていた何かの包み紙を、戯れに真横へ蹴飛ばしたとき、親類の家で借りた突っ掛けが足から吹っ飛んで、道の外へ出てしまった。そこはさほど高低差はないが急な斜面になっていて、誰の家や田畑という所ではなく、木々が伸び放題になっている。暗闇の中で、葉のふちの固さと枝の固さが紛らわしい。短い距離を難渋して降らなければならないことが、失敗のばかばかしさを強調した。

 斜面を降りると、ぼくの胸ほどもある背の高い草が広がる野原になっていた。その群生の手前に、ぼくの飛ばした突っ掛けが落ちている。今更急ぐ気も起きず、のろのろと突っ掛けを足に嵌めていると、少しの風で野原の草がけたたましく揺れた。

 そのとき初めて、人の声が絶えていることに気付いた。今日は祭りの夜だった。まっすぐの道のやたらと少ないこの集落では、ひとつの道に出店を集めることができず、町のそこかしこに屋台を散在させて、子供をいたずらに歩き回らせる。ひとところに人が集まることは実際少ないし、足の向くまま、人家も少なくなる町外れまで来ていた自覚はある。それにしても、ここまで誰の声も聞こえないのはどうしたことか。友達も、同年代の親類もいない。知った声を探そうともできない。それでもなお心細くなるほどの分厚いしじまだった。

 再び苦労して斜面を登った。道を見渡しても、足音さえ聞こえない。仕方なく、元々目指していた方へ歩みを進めた。親類が貰ってきてくれた簡易地図によれば、出店というか自治会の詰め所があって、冷えた飲み物をただで配っているはずだった。

 元は駐車場なのだろうか、砂利の敷かれた空き地にテントが張られていて、明かりも設えられている。大きなクーラーボックスも見て取れる。あれが詰め所だろう。大勢詰めているわけではないのか、やはり話し声は聞こえない。誰かの気配を聴きたいと思う一方、飲み物を貰うための挨拶でこの静寂を破るのが、人の絵を裂いてしまうようで恐くもあった。

 おずおずと覗き込んだテントにも、誰もいなかった。金を取るところでないにしても、詰め所に人がいないなんて普通じゃない――。そう思った時、背後で足音がした。

 女の子が立っていた。背丈は割と小さい。といっても、ぼくが中学生に間違われるほど大きいからそう思うだけで、小学生だとすれば中背というところか。この集落では男女を問わず、祭りの夜に浴衣を着る子の方が多いが、彼女は濃紺の無地のTシャツに白っぽい短パンという洒落っ気のない格好をしていた。黒いスニーカーが、とても深く黒く見える。塩のように白い脚のせいだった。

「ここらァじゃ、見えらん顔ね?」

 低く落ち着いた、それでいて円い声だった。警戒や威嚇がひとかけらも混じっていない、水のような声だった。同じ年頃の女の子と二人きりで話すのは初めてだった。何を言ってもおかしな発音になってしまいそうで、ぼくはただ頷いた。

「夏休みだやんね、でもお墓参りには早ァねえ。家族で来とんの?」

 話題のふくらみを感じると、発語に自信がついた。大きな音を立てないように唾を飲むと、動揺を気取られぬよう、端的に言葉を並べた。

「一人。小学校最後の年だから、行きは一人で来た」

「小六? 同い年じゃ。大きいねぇ」

「よく言われる」

 ふうん……と長く呟きながら、彼女はぼくの周りを歩き回り、何のためらいもなくぼくの目を覗いた。彼女は大きな目をしていた。目尻は甘く垂れていた。気だるいにおいがして、手足は魚のようになめらかだった。

「ここ、人は?」

「おらんね」

「静かすぎない?」

「知らなァ? 火事よ」

「火事?」

「何軒もね。大人は火消し、子供は野次馬」

 彼女のことばが合図だったかのように、遠く、本当に遠くから消防車のサイレンが聞こえた。小さいころ、まだこの集落には火の見やぐらが建っていて、半鐘の音を聞いたことがある。やぐらが老朽化から取り壊されたのは、雪が降る前、去年の秋だったという。不安のふるえに共振する音叉のようであった半鐘が響かず、普段の生活の中で聞いたことのあるサイレンが鳴るのは、少しうれしかった。

 彼女はテントの下のクーラーボックスをまさぐり始めた。ボックスの中の氷はまだ大きく、水の冷たさを物語っている。色とりどりの缶の中に、ラムネの瓶が混じっていた。自販機でも当たり前に買えるものを飲む気にならず、ぼくは瓶を手に取った。指が痺れるほどの冷たさに触れて、喉が渇いていることを思い出した。

「あたしもラムネ」

 乾杯、と言いながら、ぼくの瓶に自分の瓶をぶつけると、彼女は実に静かにビー玉を押し込んだ。中身が少しも吹き出さない。彼女を真似ようとしたけれど、ぼくのビー玉は激しく落ちて、勢いよくラムネがこぼれた。彼女はそれを見て楽しそうに笑った。

「優しいにしゃあな、女の子にさぶられてしまうよ」

 さぶられる、というのはこの地域の方言で、邪険にされるとか、軽く扱われるという意味だ。

「《優しいとモテる》の《優しい》って、そういう《優しい》じゃないだろ」

「えっ?」

「だから……気持ちが、とか、態度が、とか……」

「ああ……そうね」

 彼女は笑顔を崩さないまま、上手にビー玉をひっかけて、一口二口とラムネを飲んだ。胸を反らして際立った膨らみに、視線が囚われる。彼女がこちらに向き直ったので、慌てて目を逸らした。

「飲まんの?」

「うん……」

 ぼくは瓶の口を見つめていた。彼女と同じものを飲むのが、突然気恥ずかしくなった。彼女の桃色の薄いくちびるが、厚ぼったいゴムの飲み口に触れたことを思い描くと、彼女と同じ部位を、同じ素材に接触させることが、人に言えない行為のように感じられた。

「……火事、見に行かないの?」

「行かんよ」

 消防車が増えていた。サイレンの音で分かった。本当に、何軒も燃えているのだ。

「焼け跡、見らりゃいいざ……」

 瓶が背中にも触れたかのように、体が震えた。彼女は今まで絶えず笑っていた。今の声も、微笑んだ口が柔らかく曲げた響きをしていた。それでも、笑いから切断されて衰えないものが、その声にはあった。

 ぼくは瓶を強く握りしめると、ビー玉を留めるくぼみを慎重に見定めて、ラムネを呷った。目をつぶって、何度も喉を鳴らして飲んだ。ガラスのような、静かで冷たい味がした。温度よりも炭酸が舌を麻痺させて、味の粒立ちが確かには分からない。まぶたに守られた眼球を底から透明にしていくような抽象的な甘さが、ぼくに遥かを想わせる。今、どこかで火が燃えている。今どこかで、家が燃えている。

 瓶を口から離すと、ラムネは残り少なかった。それも一息に飲んだ。

「豪快」

 彼女は掌で瓶を挟んで持ち、指をぱたぱたと動かして拍手の真似をした。

「ね、開けてくれん?」

 彼女もいつの間にか、ラムネを飲み干していた。ぼくに瓶を差し出してくる。ビー玉が欲しいのだと気付き、言われるがままにキャップを捻った。滑るかと思ったが、キャップは回った。

「力、強いんねえ」

 そのことばが胸に響くと、彼女が触れたところを手に握ったのだと思い出され、彼女に瓶を突き返した。そして、ビー玉ぐらいいくらでもあげてやる、と思い、自分の瓶のキャップも捻った。

「あ、見て」

 月を覆っていた雲が流れて、テントの下に出たぼくたちをはっきりと照らしている。彼女は月に向けて腕を伸ばしていたが、月を指差してはおらず、その指はビー玉をつまんでいた。

「真っ白で、真ん丸……でも、あんまァ大きかない……ちょうどビー玉ぐらっか」

 伸びた手の先にあるビー玉と、白い月とが同じ大きさに見える位置を探して、ぼくが彼女の後ろで屈んでいると、彼女は腕を下げ、振り返ってぼくを見た。

 逆光。闇の中に輪郭を輝かせるのに充分すぎるほどの月光を背にして、彼女は微笑みと無表情の区別が難しい、だんだん消えていきそうな貌をしていた。そして、下げていた手を口許へ持ち上げて、ビー玉を口に入れ、迷いなく呑んだ。一連の淀みのない動作が、彼女が呑んだのはいつの間にかすり替えられていた飴玉だという急ごしらえの自己暗示を呼んだ。

「呑んでみる?」

 そのことばに、ぼくがはっきりと怯えを感じたのを、彼女は見逃さなかった。殴られるのでもない、金を巻き上げられるのでもない、秘密を暴かれるのでもない。それなのに、どうして今、この子がこれほど恐い。彼女はぼくの瓶のキャップをそっと地面に落とし、ぼくの手首ごと瓶を傾けて、ビー玉を掌に受け止めた。そして、それを人差し指と親指でつまみ直すと、ぼくの口許に近づけてくる。異物を口に含むことへの生理的な拒絶と、それからは独立した新鮮な吐き気がこみ上げる。しかし、その悪心を本当に突き上げているのは恐怖だけではなく、彼女の指がぼくの唇に迫っていることへの昂奮なのだ――。

「赤んぼに、葡萄食べさすみたァ……」

 ぼくは少し涙しながら、確かに口を開けた。彼女の指は唇をくぐり、微かに歯に触れながら、ビー玉をそっと舌に置いた。指は離れる際に、唇をほんの少し撫でていった。それは疑うべくもなく、嚥下してはいけないものだった。舌や歯のみならず、消化器までがそれを吐き出させようとした。それでも、ぼくは舌と歯でその感触を確かめてから、決意をもってビー玉を飲み下した。

 ラムネが永遠に姿を保つとき、きっとこういう物体になる。ぼくは喉の収縮によってやっと食道を下りていく硬さを、そう想った。

 彼女は何も言わない。何も言わないまま、涙に潤むぼくの瞳を見ている。

「どうして」

 ビー玉はぼくの喉を、わずかな空気しか伝わらないほどに塞いだかと思われた。しかし、声は出た。

「どうして火をつけたの」

 問いかけに何が返ってくるか、ぼくには分かっていた。だから、それは問いかけではなかった。

 予想は現実になった。彼女はぼくをじっと見つめたまま、ふふ、と音立てて美しく笑った。

『アルビュメン・プリント』

 夜のうちに乾いた汗は肌を甘やかし、いかなる温度も眠りから締め出してしまう。雨脚と共に激しくなった僕たちの生理は、シーツを温く、後に冷たくした。

 息を継ぐのに動きを緩めた時、不意に思考力を取り戻した頭の中に、「溶」という字が浮かんだのを何となく覚えている。さんずいに「容れる」と書く字が、何とも出来過ぎているように思えて、僕は笑った。お互いここまで汗みずくになって受け容れ合っている二人を、この漢字は当て字のようにかたちどっている。

 僕が曖昧に吐いた息を、笑いなのだと的確に察して、彼女もまた当たり前の思考を取り戻したようだった。「何?」と訊いてくる声に、艶めいたものと心底からの疑問とが両方混じっていた。その声は、普段の愛と今の愛が別個のものであり、しかし同じ火の中で燃えていることをはっきりと思い知らせた。

 

 

 夏の陽は昇り切らないうちから、枕に近い窓を強く染め、冷房の効きを悪くさせていた。エアコンは室温の上昇を食い止めようと、躍起になって風を立て、意識が通った僕の素肌を荒く撫でた。何も着ず、シャワーも浴びず、おざなりに体を拭っただけで、すぐに眠りに落ちたのだった。

 光のまぶしさと、熱と冷たさのどちらを強く捉えるべきかのためらいが、僕を微睡みの中にぐずぐずと引き留めた。そのうち、体にかけている薄い布団がうごめいた。彼女が起きて、布団を脱け出したのだ。今の今まで、彼女の身じろぎは少しも感じずにいた。僕より先に起きていたのか? 気配を立てないまま? それは珍しいことだった。

 洗面所から、彼女が口を漱ぐ音が微かに聴こえた。水道の水が洗面台の陶器を叩く音を聴いていると、夏の配管の熱が伝わった水の温みが思い起こされ、その想像の精度によって僕の目は冴えていった。

 肘を立てて半身を起こすと、彼女が洗面所から出てきた。

「おはよう」

「おはよう」

 僕が起きていることに彼女が驚いた様子はなく、僕にも彼女にも、裸であることを隠す素振りはなかった。性愛の昂ぶるはずがないと、僕も彼女も了解し合っていた。あらん限りの燃料を燃やしたばかりというせいもあったし、真っ白な太陽の光のもとで見る素肌が健康しか感じさせないせいもあった。

「カーテン、閉めようか。もう暑いよね」

 彼女は窓に近づき、厚いカーテンを引いた。ぐっと部屋が暗くなった。陽の名残りは、部屋が暖まっていたことを却って際立たせた。

「水、冷蔵庫にあったっけ?」

「水も、あと桃があるよ」

「モモ?」

 当たり前の発音の中に挿し込まれた《モモ》という音の列が、彼女には唐突なものに聴こえ、理解からこぼれてしまったようだった。

「実家から送られてきたんだ。季節だから」

 僕が意味をおぎなうと、得心とか期待とか様々な感動がすぐさま起こったらしく、彼女の顔がほころんだ。

「本当だ、すごいよ、香りが」

 扉を開けて冷蔵庫の光に染められた彼女の肌は、暗がりの中でそれ自体が鈍く赤く発光しているようで、今が日中だという時間感覚とたたかう淫靡を宿していた。その肌に、庫内の冷たい空気が、いま指を這わせているだろう。その指にはきっと僕の爪が生えている。

「食べていい?」

「いいよ」

 肘を持ち上げてもう一度仰向けになった時、彼女が流しの戸を開ける音が聞こえた。

「何してんの?」

「え? 包丁」

「何で? 全部食べていいよ」

 先程のように不意を打たれたわけではない、注意をしているのに意味が分からないという不安を、彼女は僕に示していた。それは僕にも伝播しかけたが、混乱に陥る前に察しがついた。

「普通、手で剥いてかぶりつかない? 桃って」

「えー、そんな風にしないよ! 皆そうなの? 君の田舎」

「一人で一個食べる時は普通……」

 僕は布団から出ると、彼女の手の上から果実をそっと握り、汁がこぼれていいように流しの上へ手を持っていった。

「ほら、こう」

 彼女を後ろから抱きしめるように腕を回し、桃を両手で握ると、開きかけた瓶の蓋を開けるように皮を捻る。薄い皮は中心からゆっくりと裂け、肉を露出させていった。桃の赤が、桃の白が、闇を吸っていき、代わりに溢れさせた飴で僕たちの指を濡らした。毎年かじってきた果物を、今初めて見ているような気になって、僕は桃から目が離せなかった。

「どうしたの?」

「いや」

「食べたい?」

「えっ?」

 彼女は桃を僕の手から抜き去り、床にこぼれないよう少しだけ表皮の果汁を流しに落とすと、僕の口もとに近づけた。食べようという気がちっともなかったが、僕は反射的に桃に歯を立てていた。よく熟した桃の果肉の一番上――この世の何より頼りない物質に、僕の体で最も硬いものを擦り付けた。報いとして汁が唇のみならず喉や胸を汚したが、その報いさえ甘い香りを立てた。

「冷たっ」

 彼女の肩にまで汁は垂れ、僕は果肉を噛むより前にその汁を吸っていた。くすぐったがられて、すぐ止めた。

 今度は僕が窓に近づき、カーテンを開けた。熱い光が部屋に差し、僕の肌を焼き始める。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと」

 桃の香が充ちた部屋に、影は少ない方が美しかった。僕は蕩けていく果肉をようやく飲み込み、その快い甘さに、眠りの前と最中に使われた水や血が少しだけ補われていくのを感じた。

 陽の光と空調の風が埃を踊らせて、その向こうで彼女は桃を食べていた。僕よりも咀嚼の音は上品で、指も僕より細い。そして舌は僕のそれより甘い。この狭い部屋に永遠は腰を下ろさないと知りながら、全てをこの眼に灼いておくことは出来ると信じて、僕は瞬きを禁じて彼女を見ていた。

『海に花を投げるように』

 父さんは仕事ばかりしていた。ぼくが学校へ行く前には家を出ていて、ぼくが眠るまで帰ってこなかった。土曜日も日曜日も、持ち帰ってきた仕事にいそしんでいた。濃い言葉を交わし合った思い出が、ぼくと父さんの間には数えられるほどしか無い。わずかな数しか無いからこそ、その全ては何度も思い起こされて、油絵のように固まっている。

「お父さんが帰ってくるまでに寝てなさい。お父さんが帰ってくる夜の遅い時間には……お化けが出るから」

 無性に父さんと話をしてみたくなって、帰りを待って起きていた夜、父さんはそう言った。お化けが来ると何をされるの、父さんはお化けが寄ってきても平気なの。いくつかの疑問が生まれたが、それが言葉のかたちを取る前に、父さんは寝室に閉じこもってしまった。質問の機会を失くしたぼくには、ただ言いつけを守ることしかできなかった。

 ぼくの心にも、多くの大人がはめている箍が付き始める、その少し前のことだった。春と夏の間の季節の、夜まで雨の止まない土曜日だった。家事に疲れて昼寝をしたせいか、父さんを真似てインスタントコーヒーを飲んでみたせいか、ぼくはその夜ちっとも眠くならなかった。

 薄い毛布の中に体温が篭っていっても、眠りにくるまることがどうしても出来ず、ただ夜だけが重さを増してゆき、今まさにお化けが迫ってきているのではないかという不安で、ぼくは少し吐きたかった。その頃、お化けをどれだけ信じていたかは、よく覚えていない――というよりも、お化けを信じてよいか判断しあぐねていた時だった。そもそもお化けとは、死んだ人の魂なのか、それとも怪物の一種なのか。それが「在る」と言い切ることは出来るのか、何を材料にどう考えれば「在る」「無い」と言い切れるのか。その判断を誤ると、他の大事なことまでも正しく捉えることが出来なくなってしまいそうな、そんな恐怖があった。今なら言葉にも出来るが、恐怖を放ってくるものかもしれないというより、あまりにひどく分からないものであるがゆえに、お化けが現れるのが恐かったのだ。

 ぼくは布団から飛び出した。家の中の安全な場所を見つけて、お化けから逃げおおせられるように。昼間、本やゲームを片付けたから、家の中は動きやすかった。ぼくたちが住む家はアパートの二階にあったが、きっとお化けには高さなど関係ないだろう。

 しかし、お化けの目から逃れることは――お化けに目があるのかさえ分からないが――果たして可能なのだろうか? 押し入れや箱の中に閉じこもっても、お化けはそれをすり抜けてくるのではないか?

 そして、ぼくはベランダに出た。見渡せる限りを見渡して、お化けが近付いてくるのを、出来るだけ早く見つけられるようにするしかない。そう考えたのだ。壁という壁をすり抜けて、反対側からお化けがやってくる可能性については考えなかった。

 あれが時刻にして何時ごろのことだったか、今でも少し気になっているのだが、ぼくは泣き出した。不安に耐え切れなくなってすすり泣いた。家にいながら誰からも守られていない自分を感じながら、来るのか来ないのか分からない正体不明の何かの姿を思い描き続けていた。涙がいくら流れても、頭の中にある嫌なものは一つも出ていかなかった。

 そのうち、父さんが帰ってきた。玄関の鍵が開く音を聞いて、それまでの恐怖とは違う、筋道の立った恐怖がぼくを襲った。言いつけを守れずに起きていることや泣いていることの言い訳をどう広げたものか必死で考え始めたが、その前から引きずっていた恐怖が混乱をもたらして、考えはまとまらなかった。

 父さんはぼくを見つけたが、怒りはしなかった。何も言わなかった。座り込んで泣いているぼくを見て、何を言えばよいのか分からず、困っているようだった。ぼくも何と言えばよいか分からなくて、ぼくは泣き続け、父さんは立ち尽くし、無言と困惑だけがぼくたちを支配する時間が続いた。

「……お化け、来ない……?」

 ぼくはやっとそれだけの言葉を絞り出した。そして、言葉を発せたというだけのことに安堵して、新しい涙を流した。父さんはぼくの心の縁取りぐらいは目にしてくれたのか、苦笑いしてベランダに出てきた。ぼくは今更になって、泣き顔を見せ続けていたことを恥じ、膝に顔をうずめた。

 隣に立っている父さんが、静かに音を立てた。紙のがさがさ言う音と、その後に、爪先で砂利を少し踏んだような音を。音の正体が気になって顔を上げると、何か細いものを咥えた父さんがぼくの方を向いて、目が合った。視線が合うのは初めてだと、その時思った。

「来ても大丈夫だよ、お父さんがいるから」

 洗濯機に物を入れるようにそう言いながら、父さんは咥えていたものを口から離し、それから何か白いものを宙に吐いた。瞼の裏に何回か、こんな姿ではないかとぼくが描いていた、お化けのような何か。それは本来白いものだと目で見て分かるのだけれど、雲の残っている暗い夜気の中で灰色に見えた。

「お化けが行っちゃう」

 白いものは風の中に溶けて、ぼくたちから遠ざかっていった。そしてぼくは、甘く苦い香りもまた、ぼくたちの周囲を泳いでいるのを見た。いつも父さんがまとっていた香りの、もっと濃くなったもの。

 父さんは、ぼくが何を見てお化けと言ったのか、最初はよく分からないようだったが、そのうち気付いたようだった。父さんはまたお化けを、今度は細く速く吐き出した。お化けは先程より遠くまで、色を保ったまま飛び、そのうちまた風に溶けた。

「お化けは、お母さんとは、違うの?」

「……違うよ」

 口をついて出た質問に、父さんは少し悲しそうな顔をしてから、そう答えた。父さんに訊きたいことは、今の時間に属することもそうでないこともたくさんあったけれど、その顔を見たらもう何も訊けなかった。その夜も、夜が明けて何日経っても。

 

 ぼくが中学生の頃、父さんは死んだ。脳梗塞で、まったく突然のことだった。そして初めて、父さんはぼくにとっての叔父であり、ぼくが生まれてすぐ事故で死んだ両親に代わって、若く収入も少ないのに、ぼくを育ててくれていたことを知った。その後ぼくはキリスト教系の養護施設に入り、人の生き死ににまつわるいろいろな説諭を受けたが、それが父さんや、記憶の中にはいない実の両親への想いを、心にすっきりと収めてくれるということはなかった。

 施設に入った頃から、人の目を盗んで煙草を吸っている。煙草のけむりが記憶をよみがえらせてくれるので、いつも父さんのことを考える。父さんはいつ両親のことを話すつもりだったのか。ぼくへの愛情がないから、早くに家を出て遅くまで帰ってこなかったのか。ぼくは父さんの人生を駄目にしたのか。

 煙草を吸い終わる前はいつも、大好きだと、胸の中で唱える。面と向かって一度も言ったことがなかった言葉。返事はない。どれだけ遅くまで起きていても、お化けが来てくれたことは一度もない。