キャベツは至る所に

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『エンブレース!』

――小沢健二によせて――

 

 真冬の高架のホームで、僕たちは始発の電車を待っていた。空は白み始めていたけれど、まだ太陽は地平線に差し掛かっていなかった。夜の闇はまだ固まったまま、電灯の明かりと闘い続けている。病院から駅へ来るまでに一本、駅に着いてからも一本、自販機で買った熱いお茶を飲んでいたが、その熱はもうとっくに僕の体を通って空気へ染み出していた。このホームには待ち合い室がなく、僕とチャコはベンチに座り、風に吹かれている。チャコはマフラーで鼻と口をぐるぐる巻いて、じっと目をつぶっていた。徹夜の後だから眠っていてもおかしくなかったが、どうやらただ目を閉じているだけのようだ。僕は寒さに耐えかねて、また近くの自販機で熱いものを二つ買った。ベンチに戻ると、チャコは目を開けて僕の様子を見ていた。はい、と言って、僕は持っていた缶の一本を差し出した。

「おしるこ……?」

「好きでしょ?」

「今は……」

「じゃあ、こっち飲む?」

「うん」

 自分が飲むつもりだったミルクティーを彼女に譲り、僕はチャコの好物だからと何も考えずに買ったおしるこを飲んだ。甘く、粉っぽく、熱かった。

 こういう時間に、チャコとは何度も一緒に外にいたことがある。今日はその中でも、間違いなく一番寒い。親同士が幼馴染だったために、僕たちは赤ん坊の頃からよく遊んだ。最初に夜明けに会ったのは、小学生の頃だったと思う。車で旅行に行く時、こんな風に日も出ていない時間に出発した。僕は朝っぱらから兄とつまらない喧嘩をして、自分の家の車に乗りたくなくて、チャコの家の車に乗せてもらったのだった。流星群を見に近くの公園へ行ったこともあるし、映画館とかクラブで夜じゅう過ごして一緒に帰ったこともある。雪が降っている時も、中にはあった。それでも今が一番寒い。ひどく冷え込むとは聞いていなかったし、冬の夜遊びの記憶がそれほど遠くにあるわけでもないのに。そういえば、砂糖は体を冷やすと聞いた覚えがある。チャコが集めているマンガで、小豆は甘くない、餡子の甘さは砂糖の甘さだ、とも読んだこともある。もしや、彼女がおしるこを断ったのは、そういう理由からだったのだろうか。何ということだ。せめて熱いうちに取り込んでしまおうと、僕はおしるこを勢いよく飲み下した。

 チャコは口を覗かせて、かすかに音を立てながら紅茶を啜っている。目にはやはり眠気が溜まっておらず、その奥で何かが勢いよく回っていることが、僕には確かに分かった。

「仕事、行けそう?」

「大丈夫」

「寝てもいいよ、起こすから」

 昨日は遅番、今日は夜勤というシフトなので、僕は家に帰ったら眠る余裕がある。チャコは昼の仕事をしているので、そうもいかない。それでもチャコは眠ろうとしなかった。

 いま眠るつもりになれないのは、僕も同じだった。僕たちは兄の妻の出産に立ち会い、赤ん坊の顔を見てきたばかりで、まだ緊張から脱し切れていなかった。

 兄夫婦は高校時代からの仲だった。兄の妻は付き合い出した当初から、まだ中学生だった僕たちを可愛がってくれ、何度も四人で会った。お互い一人っ子であるチャコたちは姉妹のように親しくなり、二人きりでも遊んだ。四人でいる時、僕と兄も、家の中では何となくしづらい話――親の耳に入れたくない話や、家で放つには生臭かったり美しすぎたりする話――を出来るようになり、お互いを特殊な友人としても捉えるようになった。そんな兄夫婦に、子供が生まれた。初めに兄たちから報告を受けて、僕が「命を授かる」とか「宝物が増える」という決まり文句が兄夫婦と結び付いたことについて考えている間に、チャコは喜び、気を揉み、兄の妻とお腹の子を気遣って贈り物を用意し、カフェインやハーブに頼らずにお茶の時間を楽しむ工夫について調べを付けた。彼女の出産は、僕にとっても「血の繋がった赤ん坊が生まれる」という初めての経験だったので、何とか特別な祝福をしたいと思ったし、お産の場に僕もチャコも駆けつけるのは、打ち合わせる必要なく決まったことだった。

 お産は長引いた。そろそろ帰ろうかという段になったのは三時過ぎのことだった。赤ん坊は男の子だった。今思うと、近親者ではないチャコまでずっと同席させてくれたのは、けっこう寛容な病院だったからかもしれない。

 甥が生まれたことは、色々な心配をして結婚に踏み切らない僕に、粉薬が舌に貼り付いたような苦味を味わわせた。後産まで終えて病室に移ってきた兄の妻が、甥の名前について「男の子だったら、一夜って書いて《かずや》にしようって決めてたの。チャコちゃんの《千夜子》から思い付いて」と言って、チャコが涙をこぼした時、確かに僕の心は不安にとらわれた。どうして僕はこの涙を流させるのではなく、拭っているだけなのだろう、と。

 きょうだいとも友人ともつかない二人の間に出来た、まだ生まれて間もない赤ん坊を見たことは、僕たちに愛の姿を見せてもいた。二人の部屋にある全ての生活用品とガラクタや、残高の充分なsuicaや、最寄り駅へ続く線路の枕木の周りに、僕たちの愛はただよい、様々な人たちが揮発させた同じものと混ざり合うのだと思った。きっとチャコも同じだった。壁のある改札の近くではなく、わざわざホームにいるのは、僕たちの胸で強まった炎の温度を、寒さの中で確かめていたいからだった。

 僕は二人ともが眠りを諦めていることを入念に確かめると、チャコに話しかけた。

「可愛かった?」

「カズちゃんのこと?」

「もう“カズちゃん”?」

「もう“カズちゃん”だよ」

「そうか」

「可愛かった。これからもっと可愛くなる。憎たらしくもなるんだろうけど、それでもずっと可愛い」

「分かるの?」

「うん」

 チャコはまた目を閉じた。瞼に甘い未来が踊っている。

「俺は、少し怖かった」

 僕の呟きを、瞳でも見ようとしてくれて、チャコは目を開いた。

「チャコに言うことじゃないって分かってるけど、まだ時々、ちゃんと生きていける気がしなくなる時がある」

「……うん」

「あの子が、一夜が俺も可愛い。チャコもそうなんだろうけど、あの子のためにしてあげたいことが、前から、もういくつもある。別の色んな相手にも同じことをしたら、どんな相手のためにもなるって、真剣に思ってるんだ」

「分かるよ」

「でも、そんなこと俺に本当に出来るのか、恐くなる時がある。……だから……」

 だからプロポーズをためらっている、とまでは言えなかった。僕はチャコを愛している。一生愛したいと思う。しかし僕の稼ぎは少なく、今の仕事を十年二十年あてにしてよいものか分からない。そして愛を維持するのに一番便利なリソースはお金だった。

 チャコの気持ちをはっきり確かめたこともない。彼女は昔から結婚に惹かれていないし、(彼女の親はあまり干渉的ではないけれど)親から何を言われてもどこ吹く風だった。結婚したいともしたくないとも言わないことに甘えて、僕も何も言わないまま永い同棲を続けていた。そして、関係が《収まっていない》という実感だけが、僕にもチャコにもあった。結婚は幸せの担保ではない。しかし、結婚の酬いとして得られる幸せもある。それは分かっていた。ただ、踏ん切りはつかなかった。

 一夜を見た時、僕は「自分がこれまで感じた幸せを彼にも感じてほしい」と思うより先に、「自分がこれまで感じた不幸せを彼には感じてほしくない」と思った。その思いが、僕のためらいの根だったのかもしれない。

 一夜が眠る(もしくは生理的に泣き声を上げている)病院の方を想うと、心がやわらかく温む。その一方で、なかなか縁を切れない絶望を、改めて持て余してもいる。ここは生きるに値するのだろうか? あの子がいつか世界を愛したとする。僕はどうだろうか? あの子が生者としての自分を理解した時、僕はあの子に「いつまでもこの世界に生きていたい」と言えるだろうか? それを言えない僕が、永遠の愛とかいうとてつもないものを人に贈れるのか?

 ぼくが「だから」と言った後でせき止めたものを、チャコはずっと待った。しかし僕が言葉を続けられないと気付くと、ゆっくりと僕から視線を外し、何か考えを巡らせた後、話し始めた。

「私も怖い。カズちゃんのためにしたいことがあっても、それがカズちゃんに嫌がられるのが怖いし、他の人にバカにされたり下らないって思われるのも怖い。やらなきゃ失敗するか成功するか分かんなくても、それは怖いよ。優しさが投げ捨てられたり、綺麗にしたものを汚されるのは」

 そう言われて、僕も一夜に贈ったプレゼントが、あの子に見向きもされない様を想像した。なかなか辛いものがある。

「でも、私はしたいな。したいことがあって、間違ってないと思えるなら、したいよ。そうしなきゃ幸せになれない。いや、違うな。じゃなくて、幸せでい続けられないから」

 最後の訂正は、僕の耳だけでなく心にまで向けられていた。かじかんだ鼻がむず痒くなり、少し泣きそうになっていることに気付いた。泣くのはあまりにも格好悪いと思い、冷え切ったおしるこの缶を握りしめて必死でこらえた。

 しばらくの沈黙の後、右の方から光が射してきて、僕たちはそちらを向いた。太陽が顔を見せたのだ。冷え切った頬は、まだ光に熱をほとんど感じない。それでいて、ひどくまぶしい。こんな熱さも痛みもない単純な光に包まれて、全てが大きなゼロへと回収されていくのは、世界の終わり方としてまっとうであると思った。けれど、まだ僕は終われなかった。

「もうちょっと待っててほしい」

 言葉そのものの情けなさと、前置きを設けなかったことの身勝手さを詫びるために、僕はチャコの眼を見ながらそう言った。チャコには僕が太陽を背負っているように見えるだろうから、果たして僕の貌がどれだけつぶさに見えたかは分からない。

「待ってるよ。ずっとではないけど」

 しばらく僕たちは見つめ合った。僕は彼女の手が僕に触れてくれることを期待した。その期待は拳で脇腹を殴られるという結果によって報われた。じゃれ合いめいたパンチだったが、的確に肝臓を打たれたせいで衝撃が大きく、僕は「ズッ」と呻いて缶を落とした。

「この一発分、〆切は伸ばすからさ。……えっ、嘘、そんな痛くないでしょ?」

 自分の間の抜けた呻き声、小気味よく音を立てて回るおしるこの缶、おしるこの缶がわざわざ小豆色をしていること、チャコの当て勘の良さ、全てがおかしかった。寝不足でハイになりやすくなっていることも味方して、僕はうずくまって笑い続けた。震える僕を見て、チャコは少し心配し始めていた。笑いを噛み殺し、大丈夫大丈夫と繰り返しながら缶を拾い、チャコの手からも空き缶を取り上げ、どちらもゴミ箱に捨てた。

「――綺麗だね」

 改めて東の空を見ながら呟くと、背中の方からチャコが鼻歌をうたうのが聞こえてきた。好きな曲なのに、寝不足の頭ではタイトルを弾き出すのに時間がかかった。ユーミンの『雨の街を』の歌い出しだった。サビに至る前に鼻歌をやめて、チャコが言った。

「何か、ハッピーバースデーじゃなくて、ハッピーニューイヤーって感じ」

 何となく僕にも共感できた。太陽の周りの牛乳色が色づいていき、群青色にまで変わっていく空を見ていると、目に映る限りに住む人たちが、新しく何かを始めようとしているような気がした。

「初日の出って皆ありがたがるけど、何年と何年に見たって、ちゃんと記憶してない」

「ああ、俺もそうかも」

「初日の出以外だと、一回しか見たことないから、よく覚えてるけど」

「震災の次の日?」

「そう。寝られなかったから」

 僕たちはあの日、職場から帰宅を命じられた後、何とか連絡を付けて落ち合い、歩いて帰ろうとした。昼間のうちに移動を始めたのに、家に着いたのは夜も深まってからだった。揺れで散らかった部屋を片付け、冷凍していたカレーを食べても、疲れた身体が緊張を解くことはなかった。僕は夜半少しまどろんだが、日の出を見ているチャコに気付いて目を覚ましたのだった。チャコも僕が起きたことにすぐ気付いた。あの時、空を見て「綺麗」と言ったのは彼女の方だった。僕はチャコが見ていない時にしか、被害の報道を見なかった。どんな波も、どんな火も、つまりどんな死も、彼女に見せたくなかった。今分かった。僕はそれらから彼女を守れる自信がなかったから、彼女にそれを見せるのが恐かったのだ。チャコが見たがっているか、見ずにいたがっているかは、確かめないまま。

 振り返る。ベンチに座って、またマフラーで口許を覆い、太陽か僕を見ているチャコを見る。そして、今どれだけ彼女を抱きしめたいか確かめてから、彼女を抱きしめようと決める。その想いは、太陽を綺麗だと言った気持ちと、兄たち三人を想う気持ちと無関係ではない。座ったままのチャコを抱きしめて、「うおっ、おい」と言われても無視を決め込み、僕を突き放しはしない彼女を、寒さだけではなく、時間や光からさえ守りたいと願う。

 今より善い者になって、今よりも善く君を愛し、どんな約束もできるようになりたい。その想いをどう声にすればいいか分からないまま、僕は君を抱きしめている。

『夜祭り』

 木々は昼間の雨をよく閉じ込めて、闇を柔らかく湿らせていた。夏のものとは思えない冷気のかたまりが、時々ぼくを撫でた。枝だろうが葉だろうが見分けないまま掻き分けて、注意深く傾斜を降っていくうちに、ぼくの服は確かに濡れていった。灯りから遠く離れた茂みは暗く、肌がわずかに輝いているようだ。ここ何日かの田舎暮らしで灼けた腕は、宵闇の中で赤黒く映えそうなものだが、今夜はもっと冷たく黒く染まっている。上を見て、理由を悟った。雲に隠れながらも、肥った月が光を放っている。青い月光が赤を削いでいるのだ。

 落ちていた何かの包み紙を、戯れに真横へ蹴飛ばしたとき、親類の家で借りた突っ掛けが足から吹っ飛んで、道の外へ出てしまった。そこはさほど高低差はないが急な斜面になっていて、誰の家や田畑という所ではなく、木々が伸び放題になっている。暗闇の中で、葉のふちの固さと枝の固さが紛らわしい。短い距離を難渋して降らなければならないことが、失敗のばかばかしさを強調した。

 斜面を降りると、ぼくの胸ほどもある背の高い草が広がる野原になっていた。その群生の手前に、ぼくの飛ばした突っ掛けが落ちている。今更急ぐ気も起きず、のろのろと突っ掛けを足に嵌めていると、少しの風で野原の草がけたたましく揺れた。

 そのとき初めて、人の声が絶えていることに気付いた。今日は祭りの夜だった。まっすぐの道のやたらと少ないこの集落では、ひとつの道に出店を集めることができず、町のそこかしこに屋台を散在させて、子供をいたずらに歩き回らせる。ひとところに人が集まることは実際少ないし、足の向くまま、人家も少なくなる町外れまで来ていた自覚はある。それにしても、ここまで誰の声も聞こえないのはどうしたことか。友達も、同年代の親類もいない。知った声を探そうともできない。それでもなお心細くなるほどの分厚いしじまだった。

 再び苦労して斜面を登った。道を見渡しても、足音さえ聞こえない。仕方なく、元々目指していた方へ歩みを進めた。親類が貰ってきてくれた簡易地図によれば、出店というか自治会の詰め所があって、冷えた飲み物をただで配っているはずだった。

 元は駐車場なのだろうか、砂利の敷かれた空き地にテントが張られていて、明かりも設えられている。大きなクーラーボックスも見て取れる。あれが詰め所だろう。大勢詰めているわけではないのか、やはり話し声は聞こえない。誰かの気配を聴きたいと思う一方、飲み物を貰うための挨拶でこの静寂を破るのが、人の絵を裂いてしまうようで恐くもあった。

 おずおずと覗き込んだテントにも、誰もいなかった。金を取るところでないにしても、詰め所に人がいないなんて普通じゃない――。そう思った時、背後で足音がした。

 女の子が立っていた。背丈は割と小さい。といっても、ぼくが中学生に間違われるほど大きいからそう思うだけで、小学生だとすれば中背というところか。この集落では男女を問わず、祭りの夜に浴衣を着る子の方が多いが、彼女は濃紺の無地のTシャツに白っぽい短パンという洒落っ気のない格好をしていた。黒いスニーカーが、とても深く黒く見える。塩のように白い脚のせいだった。

「ここらァじゃ、見えらん顔ね?」

 低く落ち着いた、それでいて円い声だった。警戒や威嚇がひとかけらも混じっていない、水のような声だった。同じ年頃の女の子と二人きりで話すのは初めてだった。何を言ってもおかしな発音になってしまいそうで、ぼくはただ頷いた。

「夏休みだやんね、でもお墓参りには早ァねえ。家族で来とんの?」

 話題のふくらみを感じると、発語に自信がついた。大きな音を立てないように唾を飲むと、動揺を気取られぬよう、端的に言葉を並べた。

「一人。小学校最後の年だから、行きは一人で来た」

「小六? 同い年じゃ。大きいねぇ」

「よく言われる」

 ふうん……と長く呟きながら、彼女はぼくの周りを歩き回り、何のためらいもなくぼくの目を覗いた。彼女は大きな目をしていた。目尻は甘く垂れていた。気だるいにおいがして、手足は魚のようになめらかだった。

「ここ、人は?」

「おらんね」

「静かすぎない?」

「知らなァ? 火事よ」

「火事?」

「何軒もね。大人は火消し、子供は野次馬」

 彼女のことばが合図だったかのように、遠く、本当に遠くから消防車のサイレンが聞こえた。小さいころ、まだこの集落には火の見やぐらが建っていて、半鐘の音を聞いたことがある。やぐらが老朽化から取り壊されたのは、雪が降る前、去年の秋だったという。不安のふるえに共振する音叉のようであった半鐘が響かず、普段の生活の中で聞いたことのあるサイレンが鳴るのは、少しうれしかった。

 彼女はテントの下のクーラーボックスをまさぐり始めた。ボックスの中の氷はまだ大きく、水の冷たさを物語っている。色とりどりの缶の中に、ラムネの瓶が混じっていた。自販機でも当たり前に買えるものを飲む気にならず、ぼくは瓶を手に取った。指が痺れるほどの冷たさに触れて、喉が渇いていることを思い出した。

「あたしもラムネ」

 乾杯、と言いながら、ぼくの瓶に自分の瓶をぶつけると、彼女は実に静かにビー玉を押し込んだ。中身が少しも吹き出さない。彼女を真似ようとしたけれど、ぼくのビー玉は激しく落ちて、勢いよくラムネがこぼれた。彼女はそれを見て楽しそうに笑った。

「優しいにしゃあな、女の子にさぶられてしまうよ」

 さぶられる、というのはこの地域の方言で、邪険にされるとか、軽く扱われるという意味だ。

「《優しいとモテる》の《優しい》って、そういう《優しい》じゃないだろ」

「えっ?」

「だから……気持ちが、とか、態度が、とか……」

「ああ……そうね」

 彼女は笑顔を崩さないまま、上手にビー玉をひっかけて、一口二口とラムネを飲んだ。胸を反らして際立った膨らみに、視線が囚われる。彼女がこちらに向き直ったので、慌てて目を逸らした。

「飲まんの?」

「うん……」

 ぼくは瓶の口を見つめていた。彼女と同じものを飲むのが、突然気恥ずかしくなった。彼女の桃色の薄いくちびるが、厚ぼったいゴムの飲み口に触れたことを思い描くと、彼女と同じ部位を、同じ素材に接触させることが、人に言えない行為のように感じられた。

「……火事、見に行かないの?」

「行かんよ」

 消防車が増えていた。サイレンの音で分かった。本当に、何軒も燃えているのだ。

「焼け跡、見らりゃいいざ……」

 瓶が背中にも触れたかのように、体が震えた。彼女は今まで絶えず笑っていた。今の声も、微笑んだ口が柔らかく曲げた響きをしていた。それでも、笑いから切断されて衰えないものが、その声にはあった。

 ぼくは瓶を強く握りしめると、ビー玉を留めるくぼみを慎重に見定めて、ラムネを呷った。目をつぶって、何度も喉を鳴らして飲んだ。ガラスのような、静かで冷たい味がした。温度よりも炭酸が舌を麻痺させて、味の粒立ちが確かには分からない。まぶたに守られた眼球を底から透明にしていくような抽象的な甘さが、ぼくに遥かを想わせる。今、どこかで火が燃えている。今どこかで、家が燃えている。

 瓶を口から離すと、ラムネは残り少なかった。それも一息に飲んだ。

「豪快」

 彼女は掌で瓶を挟んで持ち、指をぱたぱたと動かして拍手の真似をした。

「ね、開けてくれん?」

 彼女もいつの間にか、ラムネを飲み干していた。ぼくに瓶を差し出してくる。ビー玉が欲しいのだと気付き、言われるがままにキャップを捻った。滑るかと思ったが、キャップは回った。

「力、強いんねえ」

 そのことばが胸に響くと、彼女が触れたところを手に握ったのだと思い出され、彼女に瓶を突き返した。そして、ビー玉ぐらいいくらでもあげてやる、と思い、自分の瓶のキャップも捻った。

「あ、見て」

 月を覆っていた雲が流れて、テントの下に出たぼくたちをはっきりと照らしている。彼女は月に向けて腕を伸ばしていたが、月を指差してはおらず、その指はビー玉をつまんでいた。

「真っ白で、真ん丸……でも、あんまァ大きかない……ちょうどビー玉ぐらっか」

 伸びた手の先にあるビー玉と、白い月とが同じ大きさに見える位置を探して、ぼくが彼女の後ろで屈んでいると、彼女は腕を下げ、振り返ってぼくを見た。

 逆光。闇の中に輪郭を輝かせるのに充分すぎるほどの月光を背にして、彼女は微笑みと無表情の区別が難しい、だんだん消えていきそうな貌をしていた。そして、下げていた手を口許へ持ち上げて、ビー玉を口に入れ、迷いなく呑んだ。一連の淀みのない動作が、彼女が呑んだのはいつの間にかすり替えられていた飴玉だという急ごしらえの自己暗示を呼んだ。

「呑んでみる?」

 そのことばに、ぼくがはっきりと怯えを感じたのを、彼女は見逃さなかった。殴られるのでもない、金を巻き上げられるのでもない、秘密を暴かれるのでもない。それなのに、どうして今、この子がこれほど恐い。彼女はぼくの瓶のキャップをそっと地面に落とし、ぼくの手首ごと瓶を傾けて、ビー玉を掌に受け止めた。そして、それを人差し指と親指でつまみ直すと、ぼくの口許に近づけてくる。異物を口に含むことへの生理的な拒絶と、それからは独立した新鮮な吐き気がこみ上げる。しかし、その悪心を本当に突き上げているのは恐怖だけではなく、彼女の指がぼくの唇に迫っていることへの昂奮なのだ――。

「赤んぼに、葡萄食べさすみたァ……」

 ぼくは少し涙しながら、確かに口を開けた。彼女の指は唇をくぐり、微かに歯に触れながら、ビー玉をそっと舌に置いた。指は離れる際に、唇をほんの少し撫でていった。それは疑うべくもなく、嚥下してはいけないものだった。舌や歯のみならず、消化器までがそれを吐き出させようとした。それでも、ぼくは舌と歯でその感触を確かめてから、決意をもってビー玉を飲み下した。

 ラムネが永遠に姿を保つとき、きっとこういう物体になる。ぼくは喉の収縮によってやっと食道を下りていく硬さを、そう想った。

 彼女は何も言わない。何も言わないまま、涙に潤むぼくの瞳を見ている。

「どうして」

 ビー玉はぼくの喉を、わずかな空気しか伝わらないほどに塞いだかと思われた。しかし、声は出た。

「どうして火をつけたの」

 問いかけに何が返ってくるか、ぼくには分かっていた。だから、それは問いかけではなかった。

 予想は現実になった。彼女はぼくをじっと見つめたまま、ふふ、と音立てて美しく笑った。

『アルビュメン・プリント』

 夜のうちに乾いた汗は肌を甘やかし、いかなる温度も眠りから締め出してしまう。雨脚と共に激しくなった僕たちの生理は、シーツを温く、後に冷たくした。

 息を継ぐのに動きを緩めた時、不意に思考力を取り戻した頭の中に、「溶」という字が浮かんだのを何となく覚えている。さんずいに「容れる」と書く字が、何とも出来過ぎているように思えて、僕は笑った。お互いここまで汗みずくになって受け容れ合っている二人を、この漢字は当て字のようにかたちどっている。

 僕が曖昧に吐いた息を、笑いなのだと的確に察して、彼女もまた当たり前の思考を取り戻したようだった。「何?」と訊いてくる声に、艶めいたものと心底からの疑問とが両方混じっていた。その声は、普段の愛と今の愛が別個のものであり、しかし同じ火の中で燃えていることをはっきりと思い知らせた。

 

 

 夏の陽は昇り切らないうちから、枕に近い窓を強く染め、冷房の効きを悪くさせていた。エアコンは室温の上昇を食い止めようと、躍起になって風を立て、意識が通った僕の素肌を荒く撫でた。何も着ず、シャワーも浴びず、おざなりに体を拭っただけで、すぐに眠りに落ちたのだった。

 光のまぶしさと、熱と冷たさのどちらを強く捉えるべきかのためらいが、僕を微睡みの中にぐずぐずと引き留めた。そのうち、体にかけている薄い布団がうごめいた。彼女が起きて、布団を脱け出したのだ。今の今まで、彼女の身じろぎは少しも感じずにいた。僕より先に起きていたのか? 気配を立てないまま? それは珍しいことだった。

 洗面所から、彼女が口を漱ぐ音が微かに聴こえた。水道の水が洗面台の陶器を叩く音を聴いていると、夏の配管の熱が伝わった水の温みが思い起こされ、その想像の精度によって僕の目は冴えていった。

 肘を立てて半身を起こすと、彼女が洗面所から出てきた。

「おはよう」

「おはよう」

 僕が起きていることに彼女が驚いた様子はなく、僕にも彼女にも、裸であることを隠す素振りはなかった。性愛の昂ぶるはずがないと、僕も彼女も了解し合っていた。あらん限りの燃料を燃やしたばかりというせいもあったし、真っ白な太陽の光のもとで見る素肌が健康しか感じさせないせいもあった。

「カーテン、閉めようか。もう暑いよね」

 彼女は窓に近づき、厚いカーテンを引いた。ぐっと部屋が暗くなった。陽の名残りは、部屋が暖まっていたことを却って際立たせた。

「水、冷蔵庫にあったっけ?」

「水も、あと桃があるよ」

「モモ?」

 当たり前の発音の中に挿し込まれた《モモ》という音の列が、彼女には唐突なものに聴こえ、理解からこぼれてしまったようだった。

「実家から送られてきたんだ。季節だから」

 僕が意味をおぎなうと、得心とか期待とか様々な感動がすぐさま起こったらしく、彼女の顔がほころんだ。

「本当だ、すごいよ、香りが」

 扉を開けて冷蔵庫の光に染められた彼女の肌は、暗がりの中でそれ自体が鈍く赤く発光しているようで、今が日中だという時間感覚とたたかう淫靡を宿していた。その肌に、庫内の冷たい空気が、いま指を這わせているだろう。その指にはきっと僕の爪が生えている。

「食べていい?」

「いいよ」

 肘を持ち上げてもう一度仰向けになった時、彼女が流しの戸を開ける音が聞こえた。

「何してんの?」

「え? 包丁」

「何で? 全部食べていいよ」

 先程のように不意を打たれたわけではない、注意をしているのに意味が分からないという不安を、彼女は僕に示していた。それは僕にも伝播しかけたが、混乱に陥る前に察しがついた。

「普通、手で剥いてかぶりつかない? 桃って」

「えー、そんな風にしないよ! 皆そうなの? 君の田舎」

「一人で一個食べる時は普通……」

 僕は布団から出ると、彼女の手の上から果実をそっと握り、汁がこぼれていいように流しの上へ手を持っていった。

「ほら、こう」

 彼女を後ろから抱きしめるように腕を回し、桃を両手で握ると、開きかけた瓶の蓋を開けるように皮を捻る。薄い皮は中心からゆっくりと裂け、肉を露出させていった。桃の赤が、桃の白が、闇を吸っていき、代わりに溢れさせた飴で僕たちの指を濡らした。毎年かじってきた果物を、今初めて見ているような気になって、僕は桃から目が離せなかった。

「どうしたの?」

「いや」

「食べたい?」

「えっ?」

 彼女は桃を僕の手から抜き去り、床にこぼれないよう少しだけ表皮の果汁を流しに落とすと、僕の口もとに近づけた。食べようという気がちっともなかったが、僕は反射的に桃に歯を立てていた。よく熟した桃の果肉の一番上――この世の何より頼りない物質に、僕の体で最も硬いものを擦り付けた。報いとして汁が唇のみならず喉や胸を汚したが、その報いさえ甘い香りを立てた。

「冷たっ」

 彼女の肩にまで汁は垂れ、僕は果肉を噛むより前にその汁を吸っていた。くすぐったがられて、すぐ止めた。

 今度は僕が窓に近づき、カーテンを開けた。熱い光が部屋に差し、僕の肌を焼き始める。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと」

 桃の香が充ちた部屋に、影は少ない方が美しかった。僕は蕩けていく果肉をようやく飲み込み、その快い甘さに、眠りの前と最中に使われた水や血が少しだけ補われていくのを感じた。

 陽の光と空調の風が埃を踊らせて、その向こうで彼女は桃を食べていた。僕よりも咀嚼の音は上品で、指も僕より細い。そして舌は僕のそれより甘い。この狭い部屋に永遠は腰を下ろさないと知りながら、全てをこの眼に灼いておくことは出来ると信じて、僕は瞬きを禁じて彼女を見ていた。