キャベツは至る所に

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butaji『告白』

告白

 

 何度聴いても、このアルバムは聴きたくなかった、という想いが拭い切れない。ためらいはあるが、この感情を「聴きたくなかった」という言葉以外で書くことができずにいる。

 

 butajiのライブを観始めたのは2015年、最初は3月の北千住カブでのことだった。当時、彼は初の全国流通盤『アウトサイド』の制作の只中にあった。その前作である『シティーボーイ☆』に魅了されていたぼくは、『アウトサイド』でのスケールの広がりように驚かされた。『シティーボーイ☆』は室内楽的というか、じぶんの目の前、手のひらの上にあることを疑う必要がないほどに小さく、可愛がることができる作品だった。『アウトサイド』には、そこから解き放たれた広がり――前作を知らない人にも感じられるであろう、たしかな広がり――があった。

 2015年の夏、つまり『アウトサイド』が発表された直後には、本作『告白』に収録された『花』などはライブで聴いていた。このアルバムの中でも指折り好きな曲で、初めてライブで聴いた時「もう次の作品が楽しみになってしまうな」と思ったのをよく覚えている。

 最初に不安を覚えたのは、本作の最後を飾る『EYES』が発表された時だった。

 『EYES』は、『アウトサイド』以前の曲によく感じた、心を浮き立たせるような色彩が見える歌ではない、鉛のように心に下がる歌だった。筆舌に尽くしがたい美点がたくさんある楽曲で、五十嵐耕平が監督したPVが(限定的に)公開されているときから、何度も聴いた。苦しくて、それと無関係ではなしに美しかった。

 きわめつけが『秘匿』、そして『あかね空の彼方』が歌われるようになったことだった。

 本作のリリースに伴う多くの記事の中でも言及されているが、『秘匿』は2015年4月に発生した、一橋大学法科大学院でのアウティング事件に影響を受けて作られた楽曲である。ぼくが初めて『秘匿』をライブで聴いたのは2016年の神保町試聴室でのことだったが、演奏の前に「セクシャルマイノリティの恋愛について歌った曲です」という前置きがあった。その内容にも、そっと差し出すような言い方にも、どきりとした。『EYES』に感じた重いものを、もっと鮮明に見た気がした。その後「一橋大の事件に影響を受けた」ということはMCでも言及されるようになったが、ぼくの知る最も古い、butaji本人による『秘匿』の解説は上記のようなものだった。

 そして『あかね空の彼方』。この曲もぼくの記録が正確であれば、2016年前半からライブで披露されるようになった。聴くたびに、ぼくの不安を確信に変えていった歌だ。

 5分33秒という長さをもってアルバムに収録された曲だが、そのアレンジには紆余曲折があった。butajiは一時期まで、カオスパッドを使用し、ボーカルのエフェクトをリアルタイムで調節しながら歌唱するというライブをしていた。『あかね空の彼方』ではいつも、歌声の残響をひびかせる強いエフェクトをかけていた。従来は音源のテイクよりもかなりスローな曲で、テンポチェンジやブレイクを挿みつつ、7~8分、時には10分を超える長さで演奏されたこともある。サポート・ギタリストとして樺山太地(Taiko Super Kicks, oono yuuki band)を伴ったライブでも、ひときわ壮大な音像を描いた曲だった。

 

   こんなにも近くにいながら  

   恐ろしく遠いことも

   なんとなく 私は気づいていながら

   暫くこのままで

   愛情のベースを流れる 恐らく低い音が

   なんとなくどこか呼んでいる

   私は真に受けて

 

 ぼくに「聴きたくなかった」と、最も強く思わせるものの一つが、この美しく峻烈な歌にある。この曲をライブで聴くといつも、楽曲のクオリティや、パフォーマンスのすばらしさとは無関係に、butajiという人間が遠くなっていく哀しさに見舞われた。

 ぼくも自分のレビューの中で詞を引いたが、『アウトサイド』を聴いた人の多くが、恐らくは『Light』をクライマックスとして捉えるだろう。『アウトサイド』は、《外》にまなざしを向けさせるエネルギーを、《外》を歩く足取りを軽くさせる熱を持っている。それをいちばん強く、大きく、やさしく感じさせる曲が『Light』だった。遠くを望む者が持つ、あたたかい体温を帯びた歌だった。

 『あかね空の彼方』にはそれがない。あるのは、まなざしを近しい人に結び切れない深い孤絶だ。冬の夜の金属のような孤絶の冷たさだ。アルバムやライブの終盤で聴く『Light』はいつでも、哀切な響きの中に、小さな、だけど確かな希望の火を隠していた。かつてのbutajiのホームグラウンドと呼ぶべき会場だったクークーバードが閉店する夜、彼が声を詰まらせながら歌った『Light』は、ぼくにとって、音楽を照らす火を絶やさないための火口となっている。一方『あかね空の彼方』には、持っていた火をbutaji自身が消した後のような、決然とした闇と冷気が常に耀いている。

 先程から不安とか確信とか書いてきたもの、それは「butajiが痛みの多いほうの道を選んだ」という実感だった。『秘匿』や『あかね空の彼方』を歌い始めたbutajiを観ていて、はっきり分かった。2015年から今年にかけての約3年間で、30回前後butajiのライブを観ている。そのうちの、2016年から2017年の前半辺りだろうか、ちょうど『あかね空の彼方』や『抱きしめて』のアレンジや歌い方が変化していく時期が、観ていて一番辛い時期だった。『アウトサイド』の次にbutajiが歌うものが、解消し切れない孤独や、人間のぎこちない生であることを、butajiを観始めた頃のぼくには想像できなかった。

 ライブでの『あかね空の彼方』のアレンジが、アルバムに収録されたものに近いかたちで固定された時、この人は自分の曲と闘ってきたのだと思い知った。例えば『抱きしめて』においても、ヴォカリーズの部分を裏声・低いオクターヴの声・口笛のどれで歌うか、曲中に二度現れる「あなたの」を、実声で絞り上げるように歌うか、裏声でスムースに歌うか、といったようなヴォーカリゼーションの変遷があり、ライブを観ていていつも目が離せなかった。それでも、格闘したという感じがより顕著なのは、やはり『あかね空の彼方』だ。

 「愛情のベースを流れる……」というラインが明示している通り、この曲は愛をうたっている。固有名詞的な二人の間にあるエピソードとしての愛というより、「二人」というありふれた単位の中に生まれる愛をうたった曲。単位ではなく、時間とか空間と呼んだ方が適切かもしれない。一人でいない時間。手を取って入り込んだ空間。

 そんな普遍的な生活の中で、概念でも幻想でもない、愛そのものの姿――流動的で、多面的で、一つの姿など持たないはずのそれを一瞬でも確かに見た人物と、その存在の大きさや複雑さに彼/彼女がおぼえる、無力感のようなもの。そんな遠大な主題を持つ歌だから、テンポやエフェクトの変化といった《演出》を採り入れることは、選択肢としてずっとあったはずだ。それでもbutajiは(かつてのアレンジに比べれば)淡々とした、よりシンプルな形を選び取った。その変遷は、格闘と呼ぶに相応しいものだった。

 ミュージシャンが段階を移すために、ライブのセットリストから、従来の人気曲や傑作を外し始めるのはよくあることだ。広く言えば、butajiの変化も「そういうこと」で片が付くのかもしれない。それでもぼくは、『あかね空の彼方』が『Light』に優るとも劣らぬ大曲として、変形し、磨き上げられていく様を見ているのが辛かった。そして、それでもずっと見続けていたかった。

 

 表現することに対して矜持をいだいている人間や、表現を自分のライフワークだと信じ(ようとし)ている人間は必ず、限界を超えたことがある。限界を超えた感覚に魅せられているから、表現を飽きもせず続けられる、という言いかたの方が正しいかもしれない。身体からエネルギーを出力することを《表現》と呼ぶとして、限界を超える――自分のエネルギー以上のものを出力するにはどうすればよいか。(実践するのは難しいが)答えは簡単である。大きな存在が持つエネルギーを自分の中に取り込めばよいのだ。

 つまるところ、社会的・政治的な意義を持つ表現というのは全てそういうものだ。戦争や虐殺、差別と迫害、天災、犯罪、因習。そうしたものに対する、人々のやるせない想い。その一つ一つを我が事のように思い描こうとできる、その果てしない総量を計算し尽くそうと励むことのできる作家の業。

 『告白』もその一種だ。相互不理解、断絶、他者への懐疑、常識とか道徳のような《足場》の脆さからなる不安。それでも誰かの指に触れ、目を合わせるのを忘れ切れないこと。そして、誰かのそういう人恋しさを、心から愛らしいと想うこと。butajiの耳と心はマイクのようにそれらを拾い、声と指でアンプのように増幅させた。それが本作だ。

 『シティーボーイ☆』のジャケットの、半透明化処理された写真(ならびに、入江陽との共作EP『探偵物語』)を除けば、butajiはこれまで自作のアートワークに彼自身の写真を使っていない。『告白』のジャケット/歌詞カードでは、植本一子による写真がふんだんに使われている。ぼくは何度も彼を見ているので、画像や動画、写真でしか彼を観たことのない人がどう感じるのかイメージできないが、本作のジャケット/歌詞カードに使われた写真は、彼のヴィジュアルの説明というよりも、butajiという人間の存在感を示すもののように感じられる。

 彼は本作で肉体を示している。肉体という、歌と思想のありかを。顔や手にズームした写真の数々を見るにつけ、そう感じる。

 だから、ぼくは絶対にこのアルバムから逃げない。痛みや苦しみを見つけざるを得ないとしても。彼が必死の想いで楽曲を練り上げていた時期を想って、その辛さに同調したつもりになってしまい、哀しい気持ちになるとしても。音楽は楽しさや気持ちよさを追求して作ったり奏でたりできるものなのに、あれだけ流麗な歌をうたえるあなたが、どうしてわざわざ茨を握りしめるようにして音楽を作ったのですかという言いがかりが、どれほど喉から出かかっても。彼が心身を賭してこのアルバムを作ったということが鮮明に感じられる以上、何度も聴く。痛みも苦しみも、彼がその手で掬い上げた、誰かの(そして彼自身の)実存する苦痛なのだと思えるから。彼がそこから目を背けられないなら、血を流してでも厳しい音楽を作ることが彼の必然だったのだと信じられるから。

 

 このブログやSNSを見ていて、ぼくについて「この人はbutajiが好きなんだ」と思っている人がいるかもしれないが、ぼくにはbutajiの表現が、ずっとよく分かっていない。『告白』には特に共感していない。『告白』で歌われているものの存在は痛いほど感じるし、歌声や旋律の美しさにはいつだって感動してきた。ただ、彼はなぜそういうことを語るのか、彼はなぜそういう言葉を選んだか、そういうところに共感できないことが間々あった。

 これまで、直感で好きになるものにこそ惹かれて生きてきた。時々、自分の生まれ持った窪みにぴったり収まるような表現を見つけることがある。一線を越えて強く強く強く好きだと思うのは、得てしてそういうものだ。「こういうものを作りたい」とか、「これとは別のものだけど全く同じものを自分も持っている」と思えるもの、と言えばいいだろうか。例えばそれは、七尾旅人土井玄臣の音楽であったり、古井由吉の小説であったり、安永知澄の漫画であったりした。誰にも何も言われたくないほど好きなものたち、理解できているという実感に疑いを挟む余地のないものたち、初めて出会ったときに懐かしいと思えたものたち。

 butajiはそうではない。けれど、それらに比肩するほど、彼の音楽が好きだ。

 butajiは孤独や「分かり合えない」ということを歌っていると(公式インタビューMikikiでのインタビューなどで)語っているが、ぼくは「奇跡が必要かもしれないし、一瞬かもしれないけど、人と人とが完全に分かり合える瞬間はある。そういうもので、他者を信じることや、他者を信じられる自分を信じることは出来る」と思っているし、それを書こうとしてきた。そう話して、butajiから「そうでしょう、あなたは感興の人だから」というようなことを言われたこともある。だからだろう、ぼくにはbutajiの表現を、この種がどういう花を咲かせるか分かる、これが熱せられるとどんな色に変わるか分かる、というようなレベルでは理解できない。すごく個人的な話になってしまっているが、こういう共感と理解の手応えのないものをここまで好きになったことが今までになかった。ぼくはbutajiの音楽を好きになってからずっと少し混乱している、と言えるかもしれない。耳に快いということ以外に、分からないから分かりたい、という想いから、ぼくはbutajiを追いかけているところがある。

 ただ、今の時点でも結論的に好きだと語れる点が、『告白』にある。リードトラックである『I LOVE YOU』についてだ。

 歌詞カード上で「どうしてこのままでいられないんだろう」とされる歌い出しは、実際には「どうしてこのままでいれないんだろう」と歌われている。日本語の文法上、現在のところ「いられない」が正しい。歌われている「いれない」は、《美しい日本語》を志向する人たちが忌み嫌う「ら抜き言葉」だ。リズムや節回しを優先して、文法上誤っていたとしても、それを歌詞として採用すること自体はザラにある。多くの歌手が、そう思いながら敢えて文法に誤りのある歌詞を書き、歌詞カードにもその文字列をしたためてきたはずだ。

 butajiも「いれない」と歌った。しかし「いられない」と書いた。

 言葉に対しても音楽に対しても真摯でないと、この歌詞と歌詞カードには行き着かないのではないだろうか。響きが大切だから、文法の誤りを無視して歌う。ただ文字として書く際には、正しい文法にのっとる。音と字を一致させることよりも、このどっちつかずの選択の方が誠実ではないか。

 言葉に敏感なのが分かるからこの部分が好きだ、というのとは、少し違う。慎重であるのが分かるから、この部分が好きなのだ。

 正誤の二つだけに分けられないからこの世界は難しく、どっちつかずのものがたくさんあるからこそ色々な人たちが生きていける。言葉はいくつものあいまいな約束の中で無限に変形していくものであり、個人間の交流に使われる言語と、社会の中で体系づけられている言語とが、完全に一致している必要はない。だからこそ文芸は面白いし、それ以上に素晴らしいことに、言葉を他者に愛を伝えるために用いることができる。

 しかし、感情の押し付けや約束の誤解、そして下手な言葉選びによって、愛を分かち合うどころか、すれ違いや嫌悪が生まれることもある。韻律と文法のどちらにも視線を向けている『I LOVE YOU』の一節は、言葉一般に対するbutajiの慎重さ、伝えることへの慎重さを物語っている。

 慎重に伝えようとされているものは、直感で分かることができなくても、いつかきっと理解したい。既存の枠に納めるような理解ではなく、裸の胸で抱きとめるような理解を。

 

 ぼくはこのアルバムを聴きたくなかったと、今でも強く思っている。ただ、それ以上に強く、ずっと聴いていきたいと思っている。恋人や親友に向けるような好悪を抱いているから、ぼくはこのアルバムを今よりも分かりたい。

境界より - From This Boundary -

今晩開催されました、butaji × よしむらひらく 2マンライブ『POPS』のフライヤーに載せた文章です。

 

butajiの歌は遠くを想わせる。ありふれているけれどこの目で見たことのないものがあるのを思い知らされて、私たちのまなざしは遥か彼方へ向けられる――ユートピアを夢見させるようにではなく。ここではないどこかにだって、幸せも不幸せも当たり前にあることを、時に明朗に、時に突きつけるように物語る歌は、聴く者を逃がさない。
よしむらひらくの歌は感情を照らしてくる。太陽のようにでも月のようにでもなく、内視鏡のように。どんな説明よりも雄弁に、聴く者の心の一点を映し出す。忘れる術を奪われる鮮明さで、悲しみや喜びへのこだわりを浮き彫りにされる。それは自分が何を重んじて生きてきたか――魂のありようを示されるということだ。
だから、私たちは彼らの歌で直接幸せになることができない。彼らは私たちを定義もしなければ、左右することもない。視線をどこかへと導いたり、記憶や思想に直に触れたりするだけで、私たちを運んだり固定したりしない。私たちが今どこにいるかさえ、地図を指して教えてはくれない。
しかし、何かを眼に捉えることや、心が疼くことは、自分が生きていることの何よりの証左である。焦点を新しく結び直し続けることで、私たちは他者を知る。歯を噛んで心の疼痛を見つめることで、私たちは自分を確かめる。
そこから外へ放たれるか、内に食らい込むかの別こそあれ、彼らの歌はどちらも、命のありかを知らしめる。誠実であるがゆえに、気が遠くなるほどの快楽だけでなく、粘膜に爪を立てられるような痛みまで伴ってしまいながら。
彼らは真摯に生をうたう。必然的に死までを。言葉として峻烈に、歌として哀しく。だからこそ普遍的に響き渡り、私たちの心を体ごと震わせる。

 

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5月13日に良いライブがあるので

5月13日(日)に、北浦和・居酒屋ちどりにてライブがある。自分が企画しておいて何だが、すごく良い組み合わせ、すごく会場に映える人たちのライブである。トンカツこと二宮友和と、夜久一(やくはじめ)の弾き語り2マン。フライヤーを友人知人に渡したり、お付き合いのあるお店に置いてもらったりしている(ありがとうございます)のだが、今更ながら推薦文みたいなものも書いてみようかと思った。

 

二宮さんの名前を、eastern youthの元ベーシストとして覚えている方も、きっと相当数いると思う。ぼくがイースタンでの二宮さんを最後に観たのは、2014年のメテオナイトファイナルのことだった。『夜明けの歌』で泣きそうになった記憶があざやかに残っている。二宮さんの脱退はショックだった。よく言われることだが、3ピースのバンドには独特の雰囲気がある。バンドとしてぎりぎりの人数。そのうちのひとりの脱退は、バンドの姿を決定的に変える。どんなバンドもいつまで存続するか分からないものだが、それでもイースタンはオリジナルの3人で続いていくと、根拠もなく信じていた。というかそういう事が起きることさえ全然考えてなくて、脱退の報を聞いて初めて「ああ、イースタンにもこういうことが起こるんだ」と思ったものだった。それだけ強固な世界観があって、3人の結び付きが感じられて、一個の生命として感じられるバンドだった。だから二宮さんがPANIC SMILEに加入したと分かった時も、「ヤバい」と期待しつつも、すぐには観に行けなかったりした。いたくセンチメンタルだった。

でも、いざ実際にパニスマやuIIInを観てみたら、イースタンとはまた違うバッキバキにカッコいいベースを弾いていて、もう俺の感傷は俺のこの手で殺す、何度でもどんなバンドでも観るし、新編成のイースタンも観るぞと思ったのだった(イースタンは去年のライジングで久々に観た。新ベースの村岡さんはとてもかっこよかった)。

そして先日、小岩bushbashにて、池間由布子さんとの2マンで、トンカツとしての二宮さんを初めて観た。いっぺんに大好きになった。ハイトーンな歌声はどうしても「貫く」ようなかたちを描きがちで、攻撃的に聴こえすぎ、耳が疲れてしまう危険を孕んでいる。そのぶん目に鮮やかで、華があるとも言える。その反対に、低声は地味に聴こえがちである。しかし魅力的な低声は、じんわりと身に染みる。

二宮さんの歌声は低い。そして、肚に来る。内臓と内臓の間に空間なんてないが、まるで腹全体が空洞になっていて、体がびりびり震えるような歌だ。その身体的な感覚があってか、この人の歌をおれは腹で聴いている、という感じ方をする。暖かい水の波を体で受けているようで、とても心地よい。歌詞としてのことばの並びも独特で、単語ひとつひとつはごくありふれたものなのに、それを詞として、一本の線として見るように聴くと、あれっ俺この言葉知ってたっけ、という心地良い異化を感じることが出来る。「言葉を無くすような出来事が やきとりのように連なっても 作業的なテンポでむしゃむしゃ食べる」(『それでも私は日々腹を満たして』)というフレーズを初めて聴いた時は、日本語に敏感でいて良かった、と思った。

ぜひ生で聴いてほしい。普通のつもりで聴いているだけで、簡単に体が音叉になる。

https://www.youtube.com/watch?v=5GNq-FhNplk&pbjreload=10

 

 

夜久さんは、折坂悠太・松井文と共に自主レーベル「のろしレコード」を立ち上げたことでも知られている、居酒屋ちどりの名物出演者の一人である。「やく」名義で、浪速のブルースマン・AZUMIプロデュースのファーストアルバム『やく』を発表している他、AZUMIさんとは共作カセットもリリースしている。最近も四曲入りのカセットやCD-Rを量産しておられて、いくつかは自分の手元にもあるが、ついつい歌いたくなるような素晴らしい新曲が満載で、早くアルバムとして皆に聴いてほしい。

笠原和夫の「シナリオ骨法十箇条」の一つに「オリン」というのがある。ザックリ言うと、物語では泣かせ所が肝要だという話。涙を誘うシーンにはバイオリンを使った音楽が付き物、というのが「オリン」の所以で、感動的な演出やなんかを「オリンをこする」と言うらしい。

夜久さんのMCは朴訥としていたり、浮世離れしていたり、しかし基本的にめちゃくちゃ人間くさくて、いつもあったかい笑いが出てくるのだが、歌声は泣ける。二宮さんの歌声について、腹が震えるようで心地良いと書いたが、夜久さんの歌について言うと、いつも歌そのものの中に震えが潜んでいる、と言える。バイオリニスト(そしてギタリスト)が押さえた弦を震わせるような、あの精緻で細やかな震えをひとの心に起こすものが、歌の中に込められている。それはきれいな哀しみを催して、泣ける。

歌声のすばらしさ、ギターの冴えでも感動しているのだが、それらと関連する詞にも、そうした力がある。例えば『ジプシーソング』の最後に繰り返される「バイバイ」、『まぼろし』の夢と現の境界があいまいな描写、『王の涙』で歌い上げられる「私は王になる」というフレーズ。どれもため息が漏れるほど美しい。ひとのロマンティシズムを喚起するのに、引用とか修飾に頼るのが常道と言えば常道だが、夜久さんがバイオリン音楽のようにひとを泣かせている時には、そういうものが使われている気はしない。それがゆえの感動がある。普通の表現者が使っている、というか使わざるを得ない回路を省略できているから、そのぶんエネルギーをムダにせずに、歌が端的にひとに届いているのだと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=4iEAwcpcxQE

 

まだ予約できるみたいなので、13日の夜おヒマな方は、お店の公式ホームページまたは公式ツイッターへゴウ。19時スタートであります。