キャベツは至る所に

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境界より - From This Boundary -

今晩開催されました、butaji × よしむらひらく 2マンライブ『POPS』のフライヤーに載せた文章です。

 

butajiの歌は遠くを想わせる。ありふれているけれどこの目で見たことのないものがあるのを思い知らされて、私たちのまなざしは遥か彼方へ向けられる――ユートピアを夢見させるようにではなく。ここではないどこかにだって、幸せも不幸せも当たり前にあることを、時に明朗に、時に突きつけるように物語る歌は、聴く者を逃がさない。
よしむらひらくの歌は感情を照らしてくる。太陽のようにでも月のようにでもなく、内視鏡のように。どんな説明よりも雄弁に、聴く者の心の一点を映し出す。忘れる術を奪われる鮮明さで、悲しみや喜びへのこだわりを浮き彫りにされる。それは自分が何を重んじて生きてきたか――魂のありようを示されるということだ。
だから、私たちは彼らの歌で直接幸せになることができない。彼らは私たちを定義もしなければ、左右することもない。視線をどこかへと導いたり、記憶や思想に直に触れたりするだけで、私たちを運んだり固定したりしない。私たちが今どこにいるかさえ、地図を指して教えてはくれない。
しかし、何かを眼に捉えることや、心が疼くことは、自分が生きていることの何よりの証左である。焦点を新しく結び直し続けることで、私たちは他者を知る。歯を噛んで心の疼痛を見つめることで、私たちは自分を確かめる。
そこから外へ放たれるか、内に食らい込むかの別こそあれ、彼らの歌はどちらも、命のありかを知らしめる。誠実であるがゆえに、気が遠くなるほどの快楽だけでなく、粘膜に爪を立てられるような痛みまで伴ってしまいながら。
彼らは真摯に生をうたう。必然的に死までを。言葉として峻烈に、歌として哀しく。だからこそ普遍的に響き渡り、私たちの心を体ごと震わせる。

 

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5月13日に良いライブがあるので

5月13日(日)に、北浦和・居酒屋ちどりにてライブがある。自分が企画しておいて何だが、すごく良い組み合わせ、すごく会場に映える人たちのライブである。トンカツこと二宮友和と、夜久一(やくはじめ)の弾き語り2マン。フライヤーを友人知人に渡したり、お付き合いのあるお店に置いてもらったりしている(ありがとうございます)のだが、今更ながら推薦文みたいなものも書いてみようかと思った。

 

二宮さんの名前を、eastern youthの元ベーシストとして覚えている方も、きっと相当数いると思う。ぼくがイースタンでの二宮さんを最後に観たのは、2014年のメテオナイトファイナルのことだった。『夜明けの歌』で泣きそうになった記憶があざやかに残っている。二宮さんの脱退はショックだった。よく言われることだが、3ピースのバンドには独特の雰囲気がある。バンドとしてぎりぎりの人数。そのうちのひとりの脱退は、バンドの姿を決定的に変える。どんなバンドもいつまで存続するか分からないものだが、それでもイースタンはオリジナルの3人で続いていくと、根拠もなく信じていた。というかそういう事が起きることさえ全然考えてなくて、脱退の報を聞いて初めて「ああ、イースタンにもこういうことが起こるんだ」と思ったものだった。それだけ強固な世界観があって、3人の結び付きが感じられて、一個の生命として感じられるバンドだった。だから二宮さんがPANIC SMILEに加入したと分かった時も、「ヤバい」と期待しつつも、すぐには観に行けなかったりした。いたくセンチメンタルだった。

でも、いざ実際にパニスマやuIIInを観てみたら、イースタンとはまた違うバッキバキにカッコいいベースを弾いていて、もう俺の感傷は俺のこの手で殺す、何度でもどんなバンドでも観るし、新編成のイースタンも観るぞと思ったのだった(イースタンは去年のライジングで久々に観た。新ベースの村岡さんはとてもかっこよかった)。

そして先日、小岩bushbashにて、池間由布子さんとの2マンで、トンカツとしての二宮さんを初めて観た。いっぺんに大好きになった。ハイトーンな歌声はどうしても「貫く」ようなかたちを描きがちで、攻撃的に聴こえすぎ、耳が疲れてしまう危険を孕んでいる。そのぶん目に鮮やかで、華があるとも言える。その反対に、低声は地味に聴こえがちである。しかし魅力的な低声は、じんわりと身に染みる。

二宮さんの歌声は低い。そして、肚に来る。内臓と内臓の間に空間なんてないが、まるで腹全体が空洞になっていて、体がびりびり震えるような歌だ。その身体的な感覚があってか、この人の歌をおれは腹で聴いている、という感じ方をする。暖かい水の波を体で受けているようで、とても心地よい。歌詞としてのことばの並びも独特で、単語ひとつひとつはごくありふれたものなのに、それを詞として、一本の線として見るように聴くと、あれっ俺この言葉知ってたっけ、という心地良い異化を感じることが出来る。「言葉を無くすような出来事が やきとりのように連なっても 作業的なテンポでむしゃむしゃ食べる」(『それでも私は日々腹を満たして』)というフレーズを初めて聴いた時は、日本語に敏感でいて良かった、と思った。

ぜひ生で聴いてほしい。普通のつもりで聴いているだけで、簡単に体が音叉になる。

https://www.youtube.com/watch?v=5GNq-FhNplk&pbjreload=10

 

 

夜久さんは、折坂悠太・松井文と共に自主レーベル「のろしレコード」を立ち上げたことでも知られている、居酒屋ちどりの名物出演者の一人である。「やく」名義で、浪速のブルースマン・AZUMIプロデュースのファーストアルバム『やく』を発表している他、AZUMIさんとは共作カセットもリリースしている。最近も四曲入りのカセットやCD-Rを量産しておられて、いくつかは自分の手元にもあるが、ついつい歌いたくなるような素晴らしい新曲が満載で、早くアルバムとして皆に聴いてほしい。

笠原和夫の「シナリオ骨法十箇条」の一つに「オリン」というのがある。ザックリ言うと、物語では泣かせ所が肝要だという話。涙を誘うシーンにはバイオリンを使った音楽が付き物、というのが「オリン」の所以で、感動的な演出やなんかを「オリンをこする」と言うらしい。

夜久さんのMCは朴訥としていたり、浮世離れしていたり、しかし基本的にめちゃくちゃ人間くさくて、いつもあったかい笑いが出てくるのだが、歌声は泣ける。二宮さんの歌声について、腹が震えるようで心地良いと書いたが、夜久さんの歌について言うと、いつも歌そのものの中に震えが潜んでいる、と言える。バイオリニスト(そしてギタリスト)が押さえた弦を震わせるような、あの精緻で細やかな震えをひとの心に起こすものが、歌の中に込められている。それはきれいな哀しみを催して、泣ける。

歌声のすばらしさ、ギターの冴えでも感動しているのだが、それらと関連する詞にも、そうした力がある。例えば『ジプシーソング』の最後に繰り返される「バイバイ」、『まぼろし』の夢と現の境界があいまいな描写、『王の涙』で歌い上げられる「私は王になる」というフレーズ。どれもため息が漏れるほど美しい。ひとのロマンティシズムを喚起するのに、引用とか修飾に頼るのが常道と言えば常道だが、夜久さんがバイオリン音楽のようにひとを泣かせている時には、そういうものが使われている気はしない。それがゆえの感動がある。普通の表現者が使っている、というか使わざるを得ない回路を省略できているから、そのぶんエネルギーをムダにせずに、歌が端的にひとに届いているのだと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=4iEAwcpcxQE

 

まだ予約できるみたいなので、13日の夜おヒマな方は、お店の公式ホームページまたは公式ツイッターへゴウ。19時スタートであります。

『The Monthly Delights』についてとか

 

ぼくと浦和や北浦和で会ったことのない人には、読むのに根気のいる文章になってしまいそうだが、構わず書いてみようと思う。

けんさんとクークーバードという酒場で出会ってから、まだ3年経っていない。記憶力は良い方だが、初めて会った時のことやその時に話したことを、もう思い出せない。これまで色々な話をしたし、お互いよく飲む。記憶力が低下する時間を共有し過ぎている。

ブルースマンであるAZUMIさんの話をして以来、けんさんへの好意が固まったことは、とてもよく覚えている。けんさんはAZUMIさんの熱心なフォロワーである。クークーバードは、2016年の3月に閉店した。ライブスケジュールの最後を飾ったのがAZUMIさんだった。ぼくがAZUMIさんを観た最初の夜だ。インプロヴィゼーションでも、語りでも、憑依術でもあるアズミ説法を初めて観た夜。間抜けな表現と超絶技巧が併存していて、そこには生者も死者も現れた。歌の中で、今は亡きご尊父と語らうAZUMIさんを観て、母の死とどう向き合ったらよいか手がかりを得た気がした。そう話したら、けんさんに頷いてもらえて、この感じ方でいいんだ、と思ったのだった。思い返せばあの時が、母親が鬼籍に入っていることを、踏み切ったつもりのないまま人に明かした初めての瞬間だった。けんさんにはそういうことを投げてしまいがちで、いつも少し申し訳ない。

けんさんは「虎」という、いちご煮みたいなロックバンドのドラムスでもある。話すようになる前、初めてお見かけしたのは虎のライブでだったかもしれない。けんさんはタイトにドラムを叩く。自ら歌うソロアルバムも作っている。最近では、ギターを始めたぼくに色々教えを授けてくれる。そんな経緯があり、ブルースやロックに明るい方なのだろうな、と思っていたが、実はYMOドンピシャ世代の元・テクノ少年であり打ち込みのアルバムも出していると知った時は、嘘やん、と思った。

その打ち込みのアルバム『PARTITION』は、アーバンな感じやトロピカルな雰囲気をフワフワさせながらも、時々立ちあがってくる太いシンセサウンドに強い求心力があって、とても良い。マスタリングはスッパマイクロパンチョップ氏が務めている。スッパさんの目に留まったら見逃されはしない、遊び心満載の作品だ。

 

そんなけんさんが、最近『The Monthly Delights』という作品をリリースした。

ぜひセルフライナーを読んでほしいので、あくまで簡潔に説明するが、本作は、けんさんがニフティサーブ内で結成したThe Monthly Delights、以下「TMD」というユニットの音源の復刻、というか初のフィジカルリリース(なんですよね)である。

聴いてみてフッと出てきた感想が、プレステっぽいな、というものだった。自分が高校生だった2002~05年を舞台にした小説を書くつもりで、ここ数年は意図的に、2002~05年およびそれ以前の流行を回顧している。ただやりたいだけっていうのもあるが、プレステのゲームを今更やったり、クリアまで出来そうにないタイトルはプレイ動画を観たりしている。自然と、当時の音色のモードが、自分の中でアーカイヴ化してきている。TMDの楽曲はそれと共鳴して、ぼくの識閾に、ポリゴンやワイヤーフレームのイメージを踊らせる。

件のライナーによると、TMD結成が98~99年頃のことだという。98年というと『バイオハザード2』『鉄拳3』『スターオーシャン セカンドストーリー』『メタルギアソリッド』『LSD』などのリリース年、99年は『エースコンバット3』『レーシングラグーン』『シルバー事件』『クロノクロス』『バイオハザード3』『ヴァルキリープロファイル』などのリリース年だ。まさにプレステ円熟期。TMDの曲のうち、『Groovement』『GIGABITE DAWN』『人の造りしもの』あたりは当時のスクウェアのゲーム、特にラグーンなんかで使われててもおかしくないクオリティだと思いますよ。

曲自体には「良い」「かっこいい」「ここが好き」などと思うばかりで、何がどう面白いということが、うまく云々できない。そこら辺はぜひ実物を聴いて、けんさんの精緻な手技、けんさんが絶賛するパートナー・岩井優氏の才能を感じてほしい。ぼくが面白いと思い、ここで書きたいと思うものは、「新しい」という実感についてのあれやこれやである。

 

プレイステーション(およびセガサターンNINTENDO64)といった次世代機のソフトは、放埓な魅力に満ちあふれていた。当時小中学生として――モロにターゲット層としてプレイしていた身としては、どうしてもそう感じる。スーパーファミコンで、ハードの性能限界ぎりぎりに迫るソフトが出まくる中に、プレステ(など)は現れた。スーファミにファンタジックな魅力を感じている最中に見せつけられた、圧倒的な彩度による《次の表現》だった。今なお特定のプレステのソフトには「新しかった」という感想を鮮やかに抱く。スーファミのソフトでは部分的な演出としてしか採用されていなかったCG表現が、むしろ描画の基礎を成していた。そして音楽。同時発音数の増加もさることながら、ソフトの媒体がCD-ROMであるために、サンプリング音色で構成されたトラックだけでなく、音楽CD同様のデータの再生も可能になった。「ゲームをやりながら、CDで聴くような音楽が流れてくる」という体験は衝撃だった(また、ご存知の方も多かろうが、プレステのソフトには、オーディオ再生用のトラックが収録されているものがある。CDプレイヤーで再生すると、キャラクターのお喋りなんかが聴けるソフトがたくさんあった)。

当時は、今までにないものを作ろうという意図のもと、今までにないものが実際に作られていた。というか、作られまくっていた。そしてぼくたちはそれを「今までになかったものだ」と確信し、その確信が無知による錯覚でないことをはっきり認識していた。成熟途上の分野にリソースが注ぎ込まれていたのだから、当たり前と言えば当たり前のことなのだが、そこから出てくる作品を享受する者にとっては心躍る季節だった。それらの感覚との相似を感じる音楽を、近年出会った中でも指折りの変人ナイス・ガイであるけんさんから受け取った。それ自体意外な喜びだったが、『PARTITION』を聴く時には見つけきれなかった、けんさんのテクノ・ミュージシャンとしての匂いを、TMDからは見つけた気がした。TMDの楽曲には、先述したような90年代後半のモードを感じる一方で、80年代電子音楽と同根の魅力も感じる。Real Fishを90年代的な電磁波に曝しまくったような、と言えばよいか。そういえば戸田誠司のソロアルバムのタイトルは、TMDの曲名そのまま『There She Goes』だ。

YMOP-MODELなどが70年代の終わりに起こした波は、そのうねりを今も止めずにいる。2000年代から真面目に音楽を聴き始めたぼくのような者が、その波うちの跡を見ようとしていると、何をテクノとかニューウェーブと呼ぶべきか分からなくなっていく。初めてINUを聴いた時は「これ、パンクじゃなくて、ニューウェーブじゃないの」と思ったもんだったし。

今、テクノとかニューウェーブというタガでミュージシャンを何とか括ろうとする時、輪の中に入れる条件のように思っている点がある。新しさへの直情的な憧憬だ。自己表現の進化を求めている、というのとは違う。新しい機材への期待、閃いたコンビネーションの新鮮さ。それらによって、新しさの具現化をしようとしているかどうかだ。その人が頭に描いている・無意識下に潜在させている未来世界に相応しい音。それを形にしようとしている、そういうミュージシャンはニューウェーブだと思う。

TMDもそうだ。ジャングルやドラムンベースといった形式を新鮮に感じる思いとかが、めちゃくちゃビビッドに感じられる。きっと、けんさんと岩井さんにとっては、それらは新しかったのだろう。音楽そのものとしては、ぼくにとってはある種懐かしい、流行っていた当時熱心に聴いていたわけでなくても、かつて隆盛した一ジャンルとして捉えられる形式。しかしTMDを聴いていると「この人たちには新しかったのだ」と屈託なく思え、けんさんたちが「新しい」と感じた時に頭に広がっただろう色彩が、フッと自分の瞼をよぎったような気持ちになる。ぼくとけんさんは歳が離れている。それなのに「新しい」と感じるものが重なったような、このマジカルな錯覚。

「新しい」は微妙で、頼りない。無知は典型を斬新に見せることがある。ぼくが「新しい」と思った表現が、他の人の眼には、手垢の付いたもの、他人のふんどしで相撲を取っているようなものに映るかもしれない。「新しい」は絶対ではない。古いために新しい、なんてことがザラにある。思えばこれは凄いことだ。熱いために冷たい、とか、低いために高い、なんてことは有り得ない。

先述の通り、TMDニフティサーブ内でのみ活動していたユニットだった。ニフティサーブの完全閉鎖は2006年。本作のリリースが今年、2018年。12年という隔たりを想う時、けんさんの胸には懐古があって然るべきか、と思われる。そんな音楽を、2015年とかにけんさんと知り合ったぼくが聴いた。かっこよかった上、「スクウェアが輝いていた頃のプレステ」なんていう、自分の中の新しさのイメージを記憶から引っ張り出すことになった。年齢差を超えて起こった懐古の重なり、そして懐古されるそれぞれの新しさ。この織り成りに、かなりワクワクする。ある「新しさ」がどこまでの賛意を得る新しさであるか、賛意の多さが新しさを担保するのか。こうした問題は、実際非常にややこしい。しかし言えるのは、その問題は新しさにワクワクしているとき特有のポジティブさを害せない、ということだ。やる側のワクワクも、受け取る側のワクワクも、始まったら止まらない。

TMDの音楽は、凝っている。そもそも編集しているけんさんが、フリー音源のドビュッシー『月の光』のサスティンをいじって、演奏としてのクオリティを上げるなんて遊びをしてるような変態なので、凝ってないわけがない。しかし、新鮮さにワクワクしながらやってることを疑う余地がない、その一点によって、無垢な音楽だとも感じる。熟達しながらイノセント。それは、何と言うか、やばいぜ。

 

北浦和の居酒屋ちどりとかで買えます。