キャベツは至る所に

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『海に花を投げるように』

 父さんは仕事ばかりしていた。ぼくが学校へ行く前には家を出ていて、ぼくが眠るまで帰ってこなかった。土曜日も日曜日も、持ち帰ってきた仕事にいそしんでいた。濃い言葉を交わし合った思い出が、ぼくと父さんの間には数えられるほどしか無い。わずかな数しか無いからこそ、その全ては何度も思い起こされて、油絵のように固まっている。

「お父さんが帰ってくるまでに寝てなさい。お父さんが帰ってくる夜の遅い時間には……お化けが出るから」

 無性に父さんと話をしてみたくなって、帰りを待って起きていた夜、父さんはそう言った。お化けが来ると何をされるの、父さんはお化けが寄ってきても平気なの。いくつかの疑問が生まれたが、それが言葉のかたちを取る前に、父さんは寝室に閉じこもってしまった。質問の機会を失くしたぼくには、ただ言いつけを守ることしかできなかった。

 ぼくの心にも、多くの大人がはめている箍が付き始める、その少し前のことだった。春と夏の間の季節の、夜まで雨の止まない土曜日だった。家事に疲れて昼寝をしたせいか、父さんを真似てインスタントコーヒーを飲んでみたせいか、ぼくはその夜ちっとも眠くならなかった。

 薄い毛布の中に体温が篭っていっても、眠りにくるまることがどうしても出来ず、ただ夜だけが重さを増してゆき、今まさにお化けが迫ってきているのではないかという不安で、ぼくは少し吐きたかった。その頃、お化けをどれだけ信じていたかは、よく覚えていない――というよりも、お化けを信じてよいか判断しあぐねていた時だった。そもそもお化けとは、死んだ人の魂なのか、それとも怪物の一種なのか。それが「在る」と言い切ることは出来るのか、何を材料にどう考えれば「在る」「無い」と言い切れるのか。その判断を誤ると、他の大事なことまでも正しく捉えることが出来なくなってしまいそうな、そんな恐怖があった。今なら言葉にも出来るが、恐怖を放ってくるものかもしれないというより、あまりにひどく分からないものであるがゆえに、お化けが現れるのが恐かったのだ。

 ぼくは布団から飛び出した。家の中の安全な場所を見つけて、お化けから逃げおおせられるように。昼間、本やゲームを片付けたから、家の中は動きやすかった。ぼくたちが住む家はアパートの二階にあったが、きっとお化けには高さなど関係ないだろう。

 しかし、お化けの目から逃れることは――お化けに目があるのかさえ分からないが――果たして可能なのだろうか? 押し入れや箱の中に閉じこもっても、お化けはそれをすり抜けてくるのではないか?

 そして、ぼくはベランダに出た。見渡せる限りを見渡して、お化けが近付いてくるのを、出来るだけ早く見つけられるようにするしかない。そう考えたのだ。壁という壁をすり抜けて、反対側からお化けがやってくる可能性については考えなかった。

 あれが時刻にして何時ごろのことだったか、今でも少し気になっているのだが、ぼくは泣き出した。不安に耐え切れなくなってすすり泣いた。家にいながら誰からも守られていない自分を感じながら、来るのか来ないのか分からない正体不明の何かの姿を思い描き続けていた。涙がいくら流れても、頭の中にある嫌なものは一つも出ていかなかった。

 そのうち、父さんが帰ってきた。玄関の鍵が開く音を聞いて、それまでの恐怖とは違う、筋道の立った恐怖がぼくを襲った。言いつけを守れずに起きていることや泣いていることの言い訳をどう広げたものか必死で考え始めたが、その前から引きずっていた恐怖が混乱をもたらして、考えはまとまらなかった。

 父さんはぼくを見つけたが、怒りはしなかった。何も言わなかった。座り込んで泣いているぼくを見て、何を言えばよいのか分からず、困っているようだった。ぼくも何と言えばよいか分からなくて、ぼくは泣き続け、父さんは立ち尽くし、無言と困惑だけがぼくたちを支配する時間が続いた。

「……お化け、来ない……?」

 ぼくはやっとそれだけの言葉を絞り出した。そして、言葉を発せたというだけのことに安堵して、新しい涙を流した。父さんはぼくの心の縁取りぐらいは目にしてくれたのか、苦笑いしてベランダに出てきた。ぼくは今更になって、泣き顔を見せ続けていたことを恥じ、膝に顔をうずめた。

 隣に立っている父さんが、静かに音を立てた。紙のがさがさ言う音と、その後に、爪先で砂利を少し踏んだような音を。音の正体が気になって顔を上げると、何か細いものを咥えた父さんがぼくの方を向いて、目が合った。視線が合うのは初めてだと、その時思った。

「来ても大丈夫だよ、お父さんがいるから」

 洗濯機に物を入れるようにそう言いながら、父さんは咥えていたものを口から離し、それから何か白いものを宙に吐いた。瞼の裏に何回か、こんな姿ではないかとぼくが描いていた、お化けのような何か。それは本来白いものだと目で見て分かるのだけれど、雲の残っている暗い夜気の中で灰色に見えた。

「お化けが行っちゃう」

 白いものは風の中に溶けて、ぼくたちから遠ざかっていった。そしてぼくは、甘く苦い香りもまた、ぼくたちの周囲を泳いでいるのを見た。いつも父さんがまとっていた香りの、もっと濃くなったもの。

 父さんは、ぼくが何を見てお化けと言ったのか、最初はよく分からないようだったが、そのうち気付いたようだった。父さんはまたお化けを、今度は細く速く吐き出した。お化けは先程より遠くまで、色を保ったまま飛び、そのうちまた風に溶けた。

「お化けは、お母さんとは、違うの?」

「……違うよ」

 口をついて出た質問に、父さんは少し悲しそうな顔をしてから、そう答えた。父さんに訊きたいことは、今の時間に属することもそうでないこともたくさんあったけれど、その顔を見たらもう何も訊けなかった。その夜も、夜が明けて何日経っても。

 

 ぼくが中学生の頃、父さんは死んだ。脳梗塞で、まったく突然のことだった。そして初めて、父さんはぼくにとっての叔父であり、ぼくが生まれてすぐ事故で死んだ両親に代わって、若く収入も少ないのに、ぼくを育ててくれていたことを知った。その後ぼくはキリスト教系の養護施設に入り、人の生き死ににまつわるいろいろな説諭を受けたが、それが父さんや、記憶の中にはいない実の両親への想いを、心にすっきりと収めてくれるということはなかった。

 施設に入った頃から、人の目を盗んで煙草を吸っている。煙草のけむりが記憶をよみがえらせてくれるので、いつも父さんのことを考える。父さんはいつ両親のことを話すつもりだったのか。ぼくへの愛情がないから、早くに家を出て遅くまで帰ってこなかったのか。ぼくは父さんの人生を駄目にしたのか。

 煙草を吸い終わる前はいつも、大好きだと、胸の中で唱える。面と向かって一度も言ったことがなかった言葉。返事はない。どれだけ遅くまで起きていても、お化けが来てくれたことは一度もない。

ウイイレヤクザと郊外について

 最近あまり耳にしないが、ひと昔前に「ユビキタス(遍在)」という言葉が流行った。端末さえあれば、誰もがネットに接続して、平等に情報を得られる、みたいな環境をあらわすのに使われた言葉だ。今や日本中の大体の人が、データベースとアーカイヴスを自由に検索し、言葉や画像を発信できるようになった。

 「(日本中の)大体の人がいる空間で発言できる」という認識は微妙な不文律を多く生み出し、とりあえず正しいことが有り難がられ、分かりやすく間違っているものを罵倒することが許された。結果として、小沢健二などが指摘したように、マスメディアに登場するわけでもない《一般人》までもが、SNS上でのセルフマネージメントを強要された。

 「とりあえず正しいこと」とは言うなれば、ナレッジサイト(yahoo知恵袋とか教えてgoo発言小町とかみたいなサイト)におけるQ&Aみたいなものだ。真摯な問答も中にはあるが、問題のシビアさに比べて質問者の表現が雑過ぎないか? ベストアンサーになってるこの回答はここまで断定的で大丈夫なのか? などと不安になる問答も多い。しかし、そんな質問者たちもきっと、ある程度の安心は得ているのだろう。「結構たくさんの人がいる所に質問を投げて、帰ってきた答えなのだから、きっとある程度は正しいものだろう」と。

 総務省による平成28年版の資料(総務省|平成28年版 情報通信白書|インターネットの普及状況)によると、日本におけるネット人口は1億46万人とのことらしい。半分以上の日本人がネットにアクセスできる環境にあるわけだ。そんな統計を知らなくても、周りのスマートフォン利用者の数を見ていれば、体感としてさほどブレなく感じられそうな数値でもある。それぐらいの人数が《そこ》にいると思っていれば、例えば上に挙げたQ&Aみたいに、フィルターで濾過されてきた言葉を、大衆の意見の代表として理解してしまうのも無理はない。

 それほどナレッジサイトの信頼性が高い・システムとして洗練されていると言いたいわけでは、勿論ない。それぐらい、縋れる藁が求められているということだ。「分かりやすく間違っているもの」を発信して、炎上するのは恐いし億劫だからだ。何しろ、間違っているものを叩く高揚感に囚われて、間違っている風にものを解釈したがる人間も多いことだし。

 

 岡崎京子の『東京ガールズブラボー』の巻末に、岡崎と浅田彰の対談が掲載されている。1993年に初刊が出たその本の中で、二人は「80年代はバブルと一緒に消えた、何もなかった時代だったと評価されている」「今(90年代初頭)は『これが最先端だ』ってものが無くなって、全ての過去を等距離に見られる」と語っている。初めて読んだほぼ10年前、ぼくは「確かにある程度昔は全部『昔』だ」と頷いた(『日本戦後サブカルチャー史』で、風間俊介が「当時斬新だと騒がれたと言うけど、『リバーズ・エッジ』はすごくすんなり読めた」と述べた時にも同じように頷いたものだ)。

 様々なサイトに検索性が求められる昨今、もはや「全ての過去(アーカイヴス)を等距離に見られる」という感覚は常識になりつつあるだろう。特に、肉感を以て顧みられる記憶がまだ少ない少年・青年たちにとっては。

 そして岡崎京子が描かなかった(描けなかった)「インターネット」が興った世界では――このSNS時代においてはどうか? 意識的か無意識的か、認知科学とか哲学に興味があるかは関係なく、時空が絶対的なものだと感覚している人が、そもそも少なくなっていないか?

 ぼくは食べることが好きなので、TwitterInstagramのフォロイーが「うまい」と言っているもの全てに興味があるし、「これはきっと自分も好きだ」と思った店には積極的に行く。一連の行為の中で、その人からの影響はもちろんのこと、時空のねじれみたいなものも感じる。フォロイーの顔を知っていればなおさら感じる。

 かつてその人がいた場所に、今は自分がいる。その時自分が一人だったとして、それは完全に一人であるのか、「全く一人である」よりも、「かつてそこに来た人/今は別の場所にいる人と二人である」という状態に近いのではないか、と感じる。ユビキタスという言葉は元々ラテン語から来ている。キリスト教は「世界全体は神が造らしめた物であり、即ち世界全体に神は遍在している」と信仰しているが、今や遍在しているのは神ではなく隣人だ。

 

 

 ウイイレヤクザの歌詞は、こうした「遍在」を見事に描破している。

 彼がテーマ/モチーフとして捉えている「郊外」自体、日本においては遍在的である。又聞きだが、最近「生まれた町は吊り橋ぐらいしか他の集落と交通がなくて、鮮魚・精肉は店に並ばない。基本的に自給自足の生活をしていて、今でも犬が貴重な食肉なのだが、臭いで分かるのか、犬を食うと今まで懐いていた他の犬に吠えられるようになる」という話を聞いた。それぐらい孤立した集落も数少ないながらあろうけれど、日本における《町》は基本的に、都心的な街と、郊外的な町しかない。そして、比率で言えば郊外の方が圧倒的に広い。区画整理された町並み、ショッピングモール、コインパーキング、ロードサイドショップ、個人商店のもう上げられることのないシャッター、飲食店が開いては閉まる小さな物件。日本中の至るところにそういうものがある。

   

   市役所行き俺手続き更新

   でけえ木が風で自動ドアぶつ

   中には俺と主婦と老人

   ソファー座りくつろぐこの瞬間

   見るこの空間

   心臓が動いてんのは俺だけ

   ―――『pikapika kirakira』

 

 郊外には何もないのか? 同じようなものが他にあることは、無いのと同じなのか? 「何もない」があるとしか言えないのか? 「何もない」所から大きな物語は生まれるのか? ショッピングモールの乱立が始まった頃、思想やフィクションの領野で、そういう議論が活発に繰り広げられた。

 ウイイレヤクザの作品群は、この問いに拘泥することがいかに旧時代的であるか、というか、この問いに対する決定的な解を探すことがいかに不毛であるかを突きつける。

 表象的な部分からオリジナルなものが失われた町にも、開発の歴史がある。日本の開発の歴史の大まかな流れとは、元々山があったのか沼があったのかという原始的なところから始まり、江戸との交通のような近世の問題(我が家の近くにも本陣の跡がある)を経て、第二次大戦前後の激動に収束していく。どんな町にショッピングモールが切り込んでくるにせよ、なぜそこに空き地、というか「空けられる」土地があったのかには理由がある。歴史を知ろうが知るまいが、町は固有の磁場や地熱のようなものを形成し、人はそこで育つ以上その影響を受けずにはおれない。人間はそれを感じ逃すほど鈍くはない。

 問題は、郊外が何を持つか、ではない。郊外を使って何ができるか、ということだ。都市開発とか町おこしの話ではない。郊外という概念を共有して、どういう思想や言葉を育んでいけるか、ということだ。ウイイレヤクザの詞が切り取る郊外的なシーンは、きっと郊外を肌で知る誰にも、くっきりとしたビジョンを伴うものとして聴こえるだろう。それぞれのシーンやアイテムに、郊外らしい侘しさ・寂しさ・あっけなさは漂っている。しかし、彼の詞はそれだけではない。

 シティポップ、インディポップと評されている昨今の才能あるソングライターたちとウイイレヤクザとのあいだに差異(※優劣ではない)として感じるのは、表現の具体性だ。以前、別のエントリで「ポップであるということは、万人に分かりやすいということではなく、万人の間の中間地点を示すということだ」と書いた。ウイイレヤクザの独自かつシビア極まりないところは、固有名詞を曲のコアにしてイメージに普遍性を持たせながら、それを独自の世界で包み切っているところだ。例えば『トイザらス』というタイトルのこの曲。

 https://www.youtube.com/watch?v=LURg3IRj0Ss

 まずこの映像を「PVです」とツイートしてくるところに、こいつ何なんだ、と思わされるが、まあそれは置いておいて、卓抜な詩作である。

 修辞のさりげなさが光っている。「店の外には桜の木 とっても古くて大きくて 何年前からそこにいたの?」といった擬人法、「ドレミの歌を歌っている男の子 まわりをまわっている音符」という共感覚的な叙述、「もうここから出たくない 大人になってもここで会おう」という黙説――つまり、「出たくない」けれど、「大人になって」いく過程でここから離れていくと分かっている言葉。奔放にシーンチェンジしながら、しかし一個の俯瞰的な視座が徹底されていて、曲の切なさをぎりぎりのところで希望的にしている。このバランス感覚。

 彼の詞はこのように、小説における三人称視点のようなものを持っていることが多い。語り手の感覚や心情をビビッドに語る主観的視点だけではなく、物語世界全体に対する管理者権限を付与された、神のような視点。物語世界それだけではなく、その外に立っているということによって、物語以外にも世界があることを立証する存在。

 例えば『田んぼコンクリ』の「君が男だったら親友だよ絶対 君が女だったら結婚してた絶対」という一節。つまり「君」は男でも女でもない。性は必ずしも二極的なものではないが、ファミレスを舞台にした歌詞の中で超現実的なこういうラインをフッと入れてくる。もう一つ同じような例を挙げるなら『ホームセンターは天国の匂い』の「子供でも大人でもない奴になりたいぜ」。藤子不二雄作品のような、すっきりとした「何やってもいいって分かってる」感! フリーにやることがいかに難しく、狂騒に任せて表現することのいかにありきたりであるかを分かっていないと編み出せない言葉だ。

 彼の詞には、今そこらじゅうに転がっている「とりあえず正しい」だろうという印象は感じられない。それがいかにありふれていて、つまらないものであるかを証するのが彼の詞だ。「とりあえず正しい」ことから離れた言葉がすべて詩であることを思い出させてくれるのが彼の詞なのだ。

 

 絶対的な間違いは別として、きっと今後、絶対的な正しさは盲信の中にしか存在できない。そして自分の絶対で人の絶対を曲げるのが正しさであるとしてしまえば、戦いがこの世界の基本原理になってしまう。しかし、「とりあえず正しい」から離れることが、必ずしも絶対的な正しさの盲信に行きつくとは限らない。

 ウイイレヤクザの描くものを使って、《郊外》を媒介にたくさんの人が結び付くということは、いま叫ばれている「多様な生き方の尊重」みたいな、当たり前なのに全うされていない問題に一石を投じることに繋がる。SNSが感覚の混濁や争いしか生まないとは言わない。しかし、人の制御を離れてしまったものは生んでいる。ウイイレヤクザの表現はぼくにとって、それを整頓し直そうとするもののように見えている。ありふれた時空を唯一無二のやり方で描くことで、人や社会を顧みさせるという点で、彼は本物のトリックスターだ。

 郊外には何もないのか? そう言っている人にはウイイレヤクザを見てほしい。少なくとも可能性はあることが分かる。

『時が何か告げてくれれば』

 君は扇情的なロックバンドが大嫌いで、「病んでる」女性シンガーばかり聴いている。紺のソックスに締めつけられた足がいつもきれい。脛がれっきとしている。友達と連れ立ってトイレに行くけれど、いつもそれをつまらないと思っている。お弁当を持ってきていない日のお昼には、甘いパンを一つだけ食べて牛乳を飲む。

 とても滑らかな訳をするから、英語の時間の君から目が離せない。今まで接してきた誰よりも清廉な日本語で、君は字を書いて、ことばを唱える。体育の時間は見ていられない。まともではいられなくなる。

 君とは駅までしか一緒に帰れない。君はべたべたした付き合いを嫌うから、間隔を意識して遊びに誘う。どちらの家に向かうのでもない同じ電車に乗り込むと、胸が甘くなる。  

 海辺に行くことを考える。二人っきりになりたいわけじゃない。並んで入ったカフェでもいいし、座席の埋まったバスでもいい。君と海が見たい。水着にはならなくていい。砂浜に近づかなくていい。君と海を見ながら黙っていたい。

 電車が駅の間で停まってしまって、長い時間閉じ込められたとき、私たちは温度を失くしていくペットボトルを持ちながら、ずっと話をした。車両には私たち以外いなかった。販売が終わってしまったお菓子や、美形だけれどつまらない男子生徒や、穿きこなせないボトムスとかについて。私は時間が止まることを願い続けていた。

 君はずっとピアノを習っている。私が小学生の時に辞めた楽器を。うまくはない、才能はないと君は言う。それでも私は君のピアノが聴きたい。好きな歌を時々ピアノで弾くという、君が鍵盤に乗せるその指を見てみたい。

 冬になると、君は制服の上にピーコートを着てきて、タイツを穿く。私には似合わない、ボタンの可愛いピーコートを。

 君の味気なく分けられた前髪は可愛い。小さな目を唇で挟んでみたい。肩につくぐらいの髪を後ろに束ねる瞬間が、私をいつも狂わせる。君は私の短い髪と、あらわな首と、いたずらに派手な目を褒める。いつも泣きそうになるほど嬉しい。

 君がケーキ屋でバイトするのは良くない。厨房にも入るからといってバンダナを巻いて、真っ白なコックコートを着ているという。その姿を思い描いて、私がどう思うかも知らないで。

 垢抜けないけれど、とても心がきれいな男の子が、君のことを好きだと知っている。その子は私のことを少し怖がっている。話をする前から目が怖がっていると思っていた。彼のことが、私は少し好きだった。素敵な同級生だと思っていた。君を想っていると知ってから、彼のことは少し嫌い。彼は君と付き合っても、後ろ指はさされないから。

 君の死にたい気持ちが好き。時々全部がどうでもよくなる君が好き。私より小さな胸も、男を愛せるのに特定の男を心底嫌っているところも。君としたことのないことばかり、私はしたい。

 どこになら触っていい? そこに一度でも口付けたらどうなる? 私はほとんどの夜にそれを考えている。そんな場所はないと誰かに言われる気がたまにして、そんな時ほど君に抱きしめてほしくなる。その時、私しか私を抱きしめない。