キャベツは至る所に

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日記3/18

明日『gift』を観に行くので、やっと『ドライブ・マイ・カー』を観た。カメラが誰のまなざしであるかとか、映画を観る自分たちのまなざしがむしろカメラによって撹乱させられているとか、そういうことを感じながら映画を観るのは本当に楽しいが、『ドライブ・マイ・カー』の面白さは、役者の目線の意味するものや信頼性について疑わせてくれるところにあり、巧みだった。原作は読まずに観たが、文芸映画としての良さというか、きっと《行間》まで映像にするための腐心がなされているのだろうと信じられる出来映えだった。村上春樹作品における、キャラクターが《展開》に従う時の感覚がありありと蘇った。例えば旅先で交通機関がストップして予定外の宿泊を余儀なくされるとか、公共システムと直面せざるを得ずにマイルールが侵害されるとか、そういうシーンの感覚。『寝ても覚めても』は逆に原作を読んでから観たいと思っている。

 

昨日ROTH BART BARONを観に行った。ライブ中、バンドメンバーが一旦退場し、三船雅也が一人、弾き語りでミッシェル・ガン・エレファントの『世界の終わり』を歌った。原曲のようなスピード感やビート感ではないアレンジ、自分がROTH BART BARONを聴き始めた10年前ぐらいの彼らのイメージに近い歌い方だった。

ぼくはチバユウスケの熱心なリスナーではなく、フェスを除くと、自分でチケットを取って彼のバンドのライブを観に行ったのは一度だけで、ファンと名乗るのはおこがましいと自覚しているのだが、それでも彼の死はショックだった。ミッシェルの解散とROSSOの活動開始は、意識してギターロックを聴こうとし始めた時期とほとんど重なる。受けてきた影響は、何だかんだ大きい(主に音源を買うジャンルを、初めて意識して変えた時期とも言える。具体的に言うとヒップホップ・R&Bあたりからのシフトだった)。

何がこたえたって、訃報が広まった後の、色々なバンドマンやアーティストたちの反応だった。SNSに、彼らがチバと一緒に写った写真がたくさんアップされるのを見た。そういう時のチバは大体破顔していた。ステージでの鬼気迫る表情と同じぐらい、笑顔の印象が強いバンドマンだった、と思った。ああいう人はやはりなかなかいない。いまだに整理の付いていない心の部分がある。まさかROTHのライブを観に行って、ミッシェルの曲がカバーされるのを聴くときが来るとは思わなくて、きっと人が歌うチバユウスケの歌をこれからも聴いて、そのたび気持ちの整理が進んだり、むしろ散らかったりするのだろう。

アベフトシの訃報を聴いた時のこともよく覚えている。金田伊功の訃報を、同じ日に聴いたことも。子供のころラッキーマンのOPに感じていた面白さを、「ブライガー」とかのロボットアニメの映像からも感じるのは、楽しい体験だった。スパロボも遊んでいたから、いつかはブライガーに触れて、この光線のアニメーションの描き方はラッキーマンのOPのそれじゃん、と気付いていただろうと思う。しかしミッシェルを聴かなかったら、いつウィルコ・ジョンソンに辿り着き、そこからミック・グリーンまで聴いただろうとは思う。自分のロックの聴き方を顧みてみるに、きっと遅かっただろう。遅いどころかパイレーツは人から教わっていなければ聴いていなかった恐れすらある。

 

スーパーロボット大戦OG ムーンデュエラーズ』(以下「OGMD」)を、PS4で遊び始めた。PS3は当時持っていたのだから、発売された2016年にPS3で遊ぶことも不可能ではなかったが、前作にあたる『第二次スーパーロボット大戦OG』を遊んだのも発売からけっこう経った後だったので、OGMDに手を出すのが遅れた。中古市場価格やネットショップのセール価格とかを見て、良いタイミングで買おうと思っていたが、OGというシリーズ自体の完結自体が危ぶまれている噂がまことしやかに流れてきて、さらに購入に二の足を踏む羽目になっていた。

OGというのはオリジナルジェネレーションズの略で、ガンダムとかゲッターとかマジンガーとか、ダンバインとかレイズナーとかブレンパワードとか、ジャイアントロボとかライジンオーとかダンクーガとかが全く登場しない、スパロボ側が作ってそれらの作品と同様にユニットとして登場させたキャラクター/ロボットだけで展開されるシリーズである。

ユニットアイコンを使ったステージマップ上でのデモシーンが充実しているとか、機体の乗り換えやキャラの組ませ方に凝ることで「自分が戦術を組んでいる」と実感できるとか、自分がスパロボに求めているのはそういう操作感で、OGMD発売後にPS4などで出たVXT三部作や30よりも、第二次OG~OGMDの方がそういう点での満足度は高い。あとよく言われることだが、OGシリーズの方が、作品の肝のひとつである戦闘アニメも凝ったものが作られやすい。原作のアニメがあるわけではないから、演出上の制限がないためだ。アクションシークエンスとか構図を再現する必要とか、決め台詞を前提としてカットを割るとか、そういう種々の制約がOGにはない。むしろ「90年代のゲームハードではこう表現するしかなかった」という攻撃や兵装を、飛躍の踏み切りのようにして、見目のよい演出が作られたりする。スパロボ30は概ね楽しく遊ばせてもらったし、シリーズを遊んできたから感じ取れた味わいもたくさんあったが、Zシリーズのような何周遊んでも「そんなバリエーションまであるとは知らなかった」と思わされる戦闘演出とか、第二次OG水準の何度かに一回はスキップせず観てしまうアニメーションとかが、アニバーサリー作品だからこそ欲しかった。

スパロボの作品単体の「物語」には、複数の作品が一つのパッケージの中で同居するべく「まとまりが付いている」ことが求められる。そしてロボットアニメにおけるオーソドックスな「物語」は、戦争を終結させるとか害獣を滅ぼすとか何でもよいが、つまるところ「世界を守る」様で表現される。世界というサイズのものを守るために、身体より大きなサイズのものとしてロボットが創られているケースすらある。ロボットに加えて動機や能力まで持たされて、ロボアニメの主人公は世界を守る役割を負い、多くの場合、世界を守りおおせる。そうして原作世界を救った主人公とロボが、たくさんスパロボ世界にやってくる。「たくさん」がミソだ。世界を守るためのものを持たされて主人公になったキャラクターを、ただ集めるだけでは、主人公が主人公であり続けるのは難しい。そこで彼らがたくさんいる整合性が求められる。そこのまとめ方の手腕には注目が集まる。

スパロボは広い括りで言えば、バンプレストの「コンパチヒーローシリーズ」内の派生シリーズなわけだが、コンパチヒーローシリーズは、早くからその構造をメタ的に叙述している。92年発売の『ヒーロー戦記』の時点で、複数の版権作品が登場するゲームの作りそのものを、キャラクター自身が「実験室のフラスコ」と評する一幕があるのだ。現在、OGシリーズはスパロボの歴史のみならず、『ヒーロー戦記』や、『ヒーロー戦記』の同時代作である「ザ・グレイトバトル」シリーズまで包摂して展開されている。OGは90年代から継ぎ足し続けられたタレで焼かれたウナギだ、みたいに礼賛したいわけではないのだが、当時の要素を核に取り込んだシリーズには、ちゃんと大団円を迎えてほしい。当時子どもだった者として、というか、そういう「物語」に慣熟した者として、行く末を見届けたい。

 

さやわか『僕たちのゲーム史』を読んだ。10年以上前に出た新書で、終わりに書かれている将来の展望について今読むと、ゲームシーンの大きな部分においては、穏当でつまらない展開が広がりつつあると言えるけれど、これもまた本書に書かれているように、それにしても素晴らしいタイトルだってたくさん生まれていることも間違いない。80年代のPCゲームの歴史に明るい書き手が、その時代から今に至るまで続くコンシューマーゲームのビッグタイトルも、2000年代におけるフリーゲームやインディーゲームの隆盛も視野に入れて書いた本を読むのは今とても楽しい。ゲームはその開発の歴史の中で、商業化し、良いシステムが真似られ、あるゲームでの感覚や操作技術を別のゲームに転用しやすくなってきた。まったく個人的な感じ方の話だが、90年代の初めからずっとコンシューマーでゲームを遊ぶ感覚の標準を作ってきたが、2000年代の終わりごろに出会ったフリーゲームは、その標準を用いても計測できない性質のものだった……みたいな実感を持っている。その要因というのは、具体的に言えばグラフィックの粗さとか、UIの雑さや取っ付き辛さとか、テキストの乱暴さとかいった、商業ゲームに同質のものが含まれていたらノイズや不快感でしかない要素だったかもしれないが、なぜかそれでもバランスを保てているものには、やはり何か特別な魅力を感じる。

 

そりゃあ、そうすればバランスは取れるでしょう、というものではなく、なぜこれで自立できるんだというバランスのものは、印象に残る。そういうものはありふれていないがたくさんある。あらすじもロクに覚えていないが、画やセリフの一節だけはっきり覚えている映画。演奏も微妙だしMCも散漫だったけど、なぜか音源を買いたいと思ったバンドやシンガー。ひと節も諳んじられないし、筋も明快に説明できないけれど、それを読んだ実感だけは鮮明に残っている短編小説。逆に、技巧的に見どころはないし陶酔的すぎるのだけれど、キャラクター像の歪曲や、作者の自己投影が一切ないまま書き切られた二次創作小説。